番外編 蜘蛛の糸と卍固め
いつかはこの質問をされると思っていた。
「鬼無里。お前って、なんでレスラーになったんだよ」
トレーニング後のプロテインを呷りながら、残忍が問うてきた。練習用の簡素なデザインのマスクを被っているが、プロテインを飲むために口元をずり上げている。鼻の部分には呼吸するための穴は開いているが口元は塞がっているので見るからに息苦しげなのだが、慣れてしまえばどうってことはない、とマスクマン達は口々に語っている。残忍もその一人である。
「はあ」
ああ面倒臭いな、先輩は悪い人じゃないんだけどちょっとアレなんだよな、だけど誤魔化すと食い下がってきそうだよな、などと鬼無里は思い悩みつつ、バニラ味のプロテインを呷った。水に溶かした蛋白質の固まりで胃を膨らませてから、今一度先輩レスラーを窺うと、ドクロの覆面の下から覗く目と目が合った。
「で、どうなんだよ」
「うーん……」
「なんだよ、そのやる気のねぇ返事は。いつもは余計なことをべらべら喋るくせしてよ。さっきの合同練習で、武藏原さんに投げられまくったのがさすがに堪えたか?」
「そりゃあまあ、それもないわけじゃないですけどね」
鬼無里はTシャツの裾を引っ張り上げ、顔の汗を拭う。復帰戦を控えた武藏原が、試合の勘を取り戻すためだと言ってこれでもかとボディスラムを喰らわせてきたのだ。受け身の練習になったのだが、マットに叩き付けられた背中が猛烈に痛い。
二十二歳でデビューした後、増量して一回り体を大きくしたので、背筋はそれなりに出来上がってきたと思ったのだが、この分ではまだまだ筋トレが足りないとみえる。練習メニューを変えた方がいいのかどうかをトレーナーと相談しておきたいなぁ、と鬼無里は背中をさすって考え込んでいたが、残忍はじっと後輩を睨んでいた。
「なんとか言いやがれ」
――――この手の人種はどうにも苦手だ。凱旋公演の時に、長らく燻っていた不快感が明確になった。残忍、つまり須賀忍という男は鬼無里克己とは相容れない世界の住人なのだ。教室の後ろで一塊になってぎゃあぎゃあと騒いでいる男子グループのリーダー格に位置している、スクールカーストの頂点だ。
サイン会に来た顔触れを見て、確信を得た。須賀忍は夜逃げ同然に上京して十年も経っていたのに、次から次へとクラスメイトやら幼馴染が集まってきたばかりか、顔を合わせて一言二言交わしただけで学生時代に戻ったかのような会話をしていた。他人に対する壁がない、というか、自分が他人から認められていないわけがない、という根拠のない自信を生まれながらにして持っているタイプだ。ハードコア王座を得る前後の残忍がいやに荒れていたのは、彼の自意識の高さと現実での扱いのギャップが原因だったのかもしれないな、と鬼無里は結論付けた。
「で、どうなんだよ? あ?」
残忍に肩を掴まれて揺さぶられ、鬼無里は意識を引き戻した。これだから、この人は煩わしい。後輩をいびらずに適度に構ってくれるのはありがたいのだが、たまに無遠慮に踏み込んでこようとする。放っておいて下さい、とあしらっても食い下がってくるだろうし、それが武藏原に伝われば更に面倒臭いことになりそうなので、鬼無里は観念した。
「とりあえず、これを聞いてもらえません?」
鬼無里は自分のタオルの傍に置いておいたスマートフォンを操作し、イヤホンを残忍に付けさせてから音楽を再生した。残忍はマスクの下にイヤホンを突っ込んで聞いていたが、次第に口元が曲がっていった。
「うげ、なんだこの曲。陰気すぎやしねぇか。お前って、アニソンしか聞かないわけじゃなかったんだな……」
「それはひどい偏見ですね。筋肉少女帯っていうバンドの蜘蛛の糸って曲です。先輩ってファッションがアレなくせしてサブカルとか詳しくないみたいなんで、それ系には免疫ないんですね」
「あー、名前だけは聞いたことがある気がする」
「CD貸しましょうか」
「うん……んだな。歌詞はともかく、ギターは良い感じだから貸してくれ」
「んじゃ、その蜘蛛の糸が入っているやつでも貸しますよ。レティクル座妄想ってやつなんですけどね」
プロテインシェーカーを揺すって底に溜まった粉を溶かし切ってから、鬼無里は残りを呷った。ざらついた喉越しの液体を飲み下し、一息吐く。
「で、話は戻りますけど、十代の頃の俺の世界が、正にそんな感じなんですよ。人間の弱い部分をゴリゴリ抉ってくる歌詞が効くんですよ、強烈に」
残忍を窺うと、苦々しげに頬を歪めていた。
「んで、結局、この歌の主人公はどうなるんだよ? ちったぁ救われるのか?」
「別に救われないですよ。その歌には第二章があって、主人公は片思いしていた相手を殺したっぽい感じの歌詞になっていてですね」
「なんでそんな歌を聞きやがるんだ、気が滅入るだろうが」
「それがいいんじゃないですか。気が滅入るってことは、自分がどういうことを気にしている人間なのかが認識出来たってことじゃないですか」
「小難しいことを考えて生きてんだな」
「先輩は考えることを面倒臭がるタイプですよね、ぶっちゃけ」
「それは否定出来ねぇけど」
「で、さっきの話の続きなんですけどね」
この話をするのは、リングに上がるよりも度胸がいる。鬼無里は一度深呼吸してから、リングシューズを履いた足を見下ろす。大丈夫だ、俺は大丈夫だ。それに、先輩なら大丈夫だ。
「俺の親はどっちも頭がイカれていて、父親は浮気三昧で家にはほとんど寄り付かなくて、母親は父親を繋ぎ止めるためにあの手この手で誘惑しようとしていて、要するに年がら年中発情している夫婦だったんですよ。ベクトルは交わらないんですけどね。一応、父親は企業の経営者で、母親は育ちのいいお嬢さんだったんで外面は良かったんですけど、どっちも家庭を作る気なんて更々なくて。で、親がそんなんだから、当然ながら息子の俺もヒネていくわけです。金だけはふんだんに与えられているのに、ろくに構ってもらえないから、自尊心が満たされないまま物欲だけ満たされていく、アンバランスな成長の仕方をしちゃったんですよ。で、そんなんだから、学校は地獄でしかないわけです。無駄に要領が良くて成績が良かったのも、よくなかったです。俺はお前らとは違う、違うんだから認めろ、俺を認めないなんてお前らはなんて馬鹿なんだ、なんてことを思っているから、誰ともまともに接せないし、たまに話しかけられても敵意剥き出しで返すから煙たがられて、その結果、どうなるかは言うまでもありませんよね?」
「…………お、おう」
「ガキの発想の悪事を一通り経験しました。で、当然のことながらプロレスごっこという名の私刑が始まるわけです。でも、どいつもこいつも締め方がなっちゃいないんですよ。ろくに筋肉も付いていないガキの腕力だし、ネットで見た画像の真似でしかないから、本当に格好だけでしかなくて。それでも俺を潰す気があるのかよ、ってなんだか無性に腹が立ってきて」
「…………で、ど、どうしたんだよ」
「インディーズの団体のプロレスを観戦して、それを元に自己流で練習してから同じ技をやり返してみたら、泣いて喚いて謝られて逃げられて、それっきりです。で、次の日から俺にちょっかいを出さなくなったんですけど、それはそれで退屈で。せっかくだからプロレス観戦を趣味にしてみよう、って思って色んな団体の試合を観戦して回っているうちに超日にハマって、で、今に至ります」
「悪かった、鬼無里! きついことを聞いて悪かった、ホンット悪かったよ!」
残忍は鬼無里の肩を抱き、大袈裟に頭を垂れた。感情の振り幅が大きいから、リアクションも大きいのだ。
「で、その時のフィニッシャーってなんだったんだ?」
「なんですか、謝った傍からそれですか。プロレス脳すぎやしませんか。あいつらに使ったのは卍固めですよ。魅せ技として扱われている技ではありますけど、素人相手なら充分効くかなぁーって思って。実際、効きました」
だから、このヒトは嫌いになれない。肩に載せられた手の感触は、武藏原のそれとは大きさも温度も違えども、相通じるものがあった。だから、敢えて振り払わなかった。
「で、まあ、武藏原さんのところに弟子入りしてからも色々あったんですけど、ちゃんとデビュー出来たんでこれからも頑張るだけですよ。悪の秘密結社の中じゃ微妙な位置付けですけど、微妙なら微妙で立ち回りようがいくらでもありますからね。今でこそ後輩キャラみたいな扱いですけど、そのうち下剋上しますよ?」
「おう、しやがれ。もっとも、勝つのは俺だけどな」
よっしゃ休憩終わり、と残忍は腰を上げ、道場へと戻っていった。鬼無里はプロテインシェーカーを片付けて水分補給もしてから、残忍に続いて道場に入った。一足先に休憩を切り上げたレスラー達が、リングの中と外で取っ組み合っている。本番で生命力を爆発させるために、切磋琢磨するために肉体をぶつけ合っている。
武藏原に弟子入りして間もない頃、こう言われた。鬼無里は自分ってのがしっかりしている、そいつを手放さなければいくらでも強くなれる、と。
それを聞かされた時は、根拠のない励ましをするおっさんだなぁ、としか思わなかったが、時間が経つにつれて解ってきた。たとえ、どれほど屈折して鬱屈した自意識であろうとも、鍛え上げて磨き上げれば確かな個性となる。武藏原はそう言いたかったのだ。
鬼無里にとってのプロレスとは、究極の自己表現だ。スポットライトと入場曲を浴びながらリングに上がって客席を見渡せば、数百、数千もの観客が自分という人間を認めてくれる。鬼無里克己という男が生きていることを知覚してくれる。子供の頃から求めて止まなかったものを、胸焼けするほど存分に得られる。だから、リングネームは付けずに本名でデビューした。
薄暗い人生にようやく訪れたハイライトを一日でも長引かせるためにも、一回でも多くリングに上がるためにも、心身を研ぎ澄まして鍛え抜かなければ。気持ちが折れかけた時は、二次元の美少女の力を借りる。彼女達は鬼無里という一人の人間を捉えてはくれないが、否定することはないからだ。そんな彼女達の無条件の好意を好むがあまり、“ギーク・ボーイ”という二つ名を付けられてしまったが、事実なので否定はしない。
デビューしてからまだ二年しか経っていないのだから、キャラの方向性もファイトスタイルも何もかも発展途上だ。これからどうなるかは鬼無里自身も解らないが、自分という存在を世界に刻み付けるために邁進するのみだ。
さあ。俺を認めてくれ。
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