第九話 荒鷲とニンジャ

 一睡も出来なかった。

 全身の激痛が原因だ。体全体が腫れぼったく、消毒液を丹念に刷り込まれた傷は鋭利なナイフが突き刺されているかのように痛み、肉体は骨の髄まで疲れ切っているのに神経が立っているせいで意識が遠のかない。猛烈に眠いのに、痛みがそれを許してくれない。これもまた例年通りだ。ただ一つ、違いがあるとすれば。

 忍の枕元には、ハードコア王座のベルトが横たわっていた。怖々と触れてみると、確かに存在する。《SJPW HARDCORE CHAMPION SHIP》とのロゴがドクロの意匠のバックルに刻まれていて、それを指でなぞる。

「……あー」

 ひどい声だ、叫び過ぎたせいで喉がやられている。これって夢オチとかじゃねぇよな、と自問しつつ、忍はスマートフォンを取って電源を入れた。第五試合、第六試合を見届けられないほど疲弊してしまったので、早々に会場から引き揚げて宿舎に戻ってきたのだが、眠くてどうしようもなかったので電源を切っていたのだ。すると、メールと着信通知が大量に届いていた。弟、両親、地元の友人、プロレスラーになってからの知り合い、などなど。

「……いえーい」

 枕元に脱ぎ捨ててあったマスクを拾って被ってから、ハードコア王座ベルトと共に自撮りをする。写真写りを確かめてから、Twitterに投稿する。『ハードコア王座ベルトなら俺の隣で寝てるぜ』と。投稿してから数分もしないうちに、リツイートやらリプライの通知がじゃんじゃん届く。反応があるのはとても嬉しいのだが、それに応じられるほどの余力もなく、忍は二度寝をした。

 今度はちゃんと眠れた。



 ハードコア・マニアックスの後は、選手達は休みをもらえる。

 言うまでもなく、負傷が多すぎて練習しようにも出来ないからだ。三度寝から起きた忍は、宿舎の自室からよろよろと出ていって用を足してから、一階のロビーに降りると死屍累々だった。虎徹、KOMATSU、牛島、アギラ、大上、赤木、パンツァー、ブラッド、それから第五試合に出場した“ダーティ・ヒーロー”黒田輝明くろだてるあき、“突貫砲弾”団五郎だんごろう、第六試合に出場した“嵐を呼ぶ男”雷電、“暴走機関車”出井吾一。二人はどちらもベビーフェイスなのだが、武藏原の穴を埋めるためにベビー同士で対戦したのだ。

 皆、ひどい有様だった。宿舎に帰ってきて部屋で寝ようとしたが痛みで寝付けなかったので、部屋を出たはいいが戻る気力がなくなり、自然とロビーに集まってしまったのだ。これもまた、例年通りの光景だ。超日本プロレス専属のドクター、辰沼京介たつぬまきょうすけは死にそうなほど疲れ切っていて、彼もまたロビーの隅で寝転がっていた。彼には本当に頭が下がる。

「先輩、生きてましたかー」

 鬼無里克己が顔を出したので、忍は力なく挙手する。

「まー、なんとかな」

「ヤバかったですよ、昨日」

「今が一番ヤベェ。脳内麻薬が抜けちまったから体中痛い」

「それじゃなくて、ほら」

 鬼無里はスマートフォンを操作し、画像を見せてきた。

「昨日、ちょっとだけでしたけど先輩の名前がTwitterのトレンド入りしていたんで、スクショ撮っておいたんですよ。ほら」

「おぉおおおっ!?」

 #SJPWのハッシュタグの下には、確かに《残忍》とある。忍が身を乗り出すと、鬼無里はにやにやする。

「先輩のフォロワーも増えるでしょうけど、じゃんじゃんクソリプが届くでしょうねー」

「だろうぜ」

「そん時はばんばんブロックした方がいいですよ」

「していいのかよ」

「そりゃもちろん。炎上させないためには、ある程度自衛しないとダメなんですよ」

 後でスクショの画像をメールで送っておきますね、と言い残し、鬼無里は練習生達と道場に向かっていった。良くも悪くもマイペースの“ギーク・ボーイ”は、こんな状況であろうとも筋トレのノルマをこなしているようだ。それはそれで結構なのだが、他に言うことがあるんじゃねぇのか、と思わないでもない。

「皆さん、メシ食えます?」

 続いて顔を出したのは、未出場組である野々村速斗だった。昨日は地上波のテレビ番組の収録をしていたので、会場には来ていなかった。そして、今日は丸一日オフのはずなのだが。

「どうせ暇ですから、車出して材料買ってきますよ。メシも作っておきますから、適当に食べておいて下さい」

「すまん、ノノ、恩に着る」

 社長は外回りに行っちゃったしな、と虎徹が呻きながら懇願すると、野々村は辰沼を一瞥する。

「まあ、お互い様ですから。辰沼さん、皆に何を喰わせたらいいのか教えて下さい」

「ええとね……」

 徹夜明けの辰沼はメガネを掛け直し、説明し始めた。それを聞き終えるや否や、野々村はさっさと出ていった。“神速の疾風”はフットワークも軽いのだ。

「ノノのメシか……」

 牛島がしみじみと呟くと、KOMATSUが寝返りを打った。が、背中の激痛に辟易してすぐに横向きになる。

「あれは旨い」

「イケメンでプロレス上手くて背ぇ高くて料理も上手ってホントなんなんスかね、あの人。完璧すぎて付け入る隙がないッスね」

 忍が半笑いになると、ソファーではなくその下の床に寝そべっていた大上が目を上げた。

「いや、そうでもない」

「そうでもねぇなぁ。あれで結構、ノノも変なところがある」

 黒田は包帯を巻かれた腕をさすり、痛みを紛らわした。

「あるね、確かに」

 いてぇ、と漏らしながら起き上がったアギラ、否、鷲尾は乱れた髪を掻き乱した。

「ノノは料理をすると独り言を垂れ流す」

「ノノはグラビア撮影なんかは本当は好きじゃないけど、断れない性分だから引き受けちまう。で、脱がされる」

「ノノは彼女の芽以奈ちゃんと電話している時だけは、気持ち悪いぐらい良い笑顔になる」

「ノノは長いこと妹さんと二人暮らしだったもんだから、無駄に女子力が高い」

「ノノは良い奴だが、良い奴過ぎて後輩を扱き使えない」

「ノノは几帳面だけど、完璧主義じゃない」

 大上、KOMATSU、虎徹、牛島、黒田、雷電、アギラの順番に野々村の欠点を並べていった。

「あーダメッスね、余計に隙がないッスね」

 忍が苦笑すると、赤木が返す。

「但しイケメンに限る、ってやつだがな」

「そんなことより、ノノが帰ってくる前に起き上がろう。で、まともな姿勢になれるように努力しよう。あと、着替えよう」

 起き上がった直後に胃に物を入れると、貧血を起こしかねない。ブラッドの提案に、パンツァーは唸りながら身を起こす。

「だぁなぁ。どいつもこいつも試合明けの格好のままだから、一度は着替えねぇと汗臭くてどうしようもねぇ」

「全くですよ、パンツァーさん。というわけだから、俺は今から風呂に入るけど、どれだけ叫んでも気にしないでくれよ。気にされても困るから」

 髪の毛ばっさばさ、ばっさばさだよ、と嘆きながら、大上は不安定な足取りで風呂場に向かっていった。

「無理に入ることもねぇのに」

 忍が訝ると、虎徹が肩を竦める。

「陣中見舞いに実花ちゃんが来るんだよ」

「ミカちゃんッスか。あー、なるほど」

 野々村速斗の妹、野々村実花ののむらみかは大上剣児の交際相手である。二十五歳が十七歳の高校生に手を出していいのか、同期の妹を引っ掛けて気まずくはないのか、と誰しもが思うだろう。忍もそう思っているのだが、野々村と大上は超日本プロレスに入門する以前から付き合いがあり、その過程で大上と実花は知り合っているので、そういった経緯を踏まえると納得出来なくもない。

 野々村速斗は三世レスラーである。祖父は鳳凰仮面という名の覆面レスラーで、昭和後期に活動し、渡米した際にはゴールデン・フェニックスというリングネームでアメリカのマット界を蹂躙していた。父親もやはりパワーイーグルという名の覆面レスラーで、アメコミヒーローを彷彿とさせる豪快なキャラクターが売りで、その名の通りのパワーファイターだ。現在はアメリカの団体に所属しており、今や世界的なレスラーだ。そして、母親もまたピジョンレディという名の覆面レスラーで、日本の女子プロレス団体のトップにのし上がった後、夫と共に渡米して大活躍している。鳳凰仮面はさすがに引退しているが、パワーイーグルとピジョンレディはまだまだ現役だ。

 壁と呼ぶには分厚過ぎて、目指すには遠すぎる地位に君臨している両親を見上げながら、プロレスラーとなった野々村の心中は察するに余りある。傍から見ればトントン拍子に出世しているように見えても、当人からすれば苦労と葛藤の連続だろう。だから、料理に没頭してストレスを発散することぐらいは見逃してやるべきだ。

「あ、俺も風呂入ろう」

 スマートフォンから顔を上げ、鷲尾も立ち上がった。

「未羽ちゃんも来るのか」

 黒田が鷲尾の背に声を掛けると、鷲尾は照れ笑いする。

「ええ、まあ。すぐに帰ると思いますけど」

 鷲尾未羽わしおみうとは、鷲尾明良の妻であり、身長が一四六センチとかなり小柄なので鷲尾と並ぶと大人と子供のようだ。だが、見た目とは裏腹にバイタリティに溢れていて、関東近郊で開催される超日本プロレスの試合を頻繁に観戦しては全力で歓声を上げてくれる。なので、昨日の試合も見に来ていてくれたことだろう。そして、アギラのフィニッシュムーブであるホワイトバードは、未羽の旧姓から取って付けた名である。要するにラブラブなのだ、この二人は。

 程なくして、風呂場から大上と鷲尾の絶叫が聞こえてきた。



 実花と未羽が来てくれたおかげで、男所帯が華やいだ。

 野々村が腕によりを掛けて作った料理は、いつもの雑なちゃんことは比較するのも気が引けるほどの旨さだった。鶏レバーの照り焼き、棒棒鶏、鶏の水炊き、海藻サラダ、カボチャの煮付け、ほうれん草のゴマ和え、とこれでもかと作ってくれた。傷付いた男達はそれを綺麗に平らげ、それから寝に行った。体力を回復して治癒力を高めるには、喰って寝るのが一番だからだ。

「それじゃ、私はこれで」

 ブレザーの制服姿の野々村実花は、一礼した。

「今度、お兄ちゃんの試合を観に行くからね」

「俺じゃなくて大上のだろうが」

「どっちでもいいじゃない。二人の王座戦なんだもん」

「ヘビー級王座をいつまでも中二病のワンコロに預けておくわけにはいかないからな」

「楽しみにしているね、大上君」

 実花がにんまりすると、大上は年甲斐もなく照れた。

「お、おう! 次もちゃんと防衛してみせる!」

「うん、応援する! じゃあね、お兄ちゃん、大上君!」

 実花は紺色のプリーツスカートを翻し、小走りに駆けていった。食後もロビーに留まってソファーに身を沈めていた忍は、兄と妹とその恋人の一部始終を眺めていた。

「まだヤるなよ」

 野々村が凄むと、大上は辟易する。

「そこまで干渉するんじゃねぇよ」

「実花が高校を卒業するまでは童貞守れよ」

「うーるっせぇ。人のこと言えるか、童貞のくせに。芽以奈にまだ手ぇ出してないのかよ、いい加減にしろよ。芽以奈が可哀想だろ」

「黙れクソ犬。俺と芽以奈がいつどうなろうと俺達の勝手だ。あと、いつまでも芽以奈の兄貴面するんじゃない」

「ナイトメア内藤は俺の師匠だからな、芽以奈は俺の妹も同然だ。お前が実花をいつまでも子供扱いするなら、俺だっていつまでも芽以奈を妹扱いせざるを得ないじゃないか」

「なんだその屁理屈」

「黙れクソシスコン」

「――――来年はハードコア・マニアックスに出てやる」

 目を据わらせた野々村に、大上はにやつく。

「おお、出ろ出ろ。そしたら、その時は血みどろにしてやる」

「その辺にしておいてくれる?」

 二人の間に割って入ったのは、鷲尾だった。

「ケンカになると、せっかく寝付いた皆が起きちゃうから」

「続きは王座戦でだ、解ったな」

「言われるまでもねぇよ」

 野々村と大上は捨てゼリフを言い合ってから、やっと離れてくれた。大上は宿舎の自室に向かい、野々村は食べ尽くされた食卓の後片付けをするべく台所に向かった。

「プロレスしてんなぁ」

 血の気が多いのはいいことだ。忍が笑うと、鷲尾は忍の隣に腰を下ろした。

「あの二人の場合、マイクパフォーマンスが演技じゃないよね。素であの性格であのキャラだもんね。キャラを作る必要がないってのはちょっと羨ましいね」

「普通の人生は送りづらい性格ッスけどね」

「だね。こういう業界に入らないと生きづらいね。タッグトーナメントの時なんて、何度もリングでガチなケンカを始めそうになったもんだから冷や冷やしたよ。その危なっかしさがチーム・ダークウィンドの魅力でもあったんだけどね」

「……なんスか。部屋に戻らないんスか」

「未羽ちゃんが事務所で話し込んじゃっていて、出てくるまで待っていようかなって」

「あ、そうッスか」

 忍が事務所を覗くと、鷲尾未羽が職員と明るく話していた。幼げな容姿とは異なり、大人の女性らしく振舞っていて、服装も年相応だ。レスラーの妻でありファンでもあるが、一ファンとしての立場を弁えているので、出過ぎた真似は絶対にしない。プライベートの写真は一枚も撮らないし、サインも強要しない。いい人だ。

「シノブちゃんのインベルティダ、キレが違ったね」

「そう……ッスね」

 あの時は夢中だったから、自然に体が動いていた。

「最後にインベルティダを出したのって、メヒコ時代だっけ?」

「あー、そうッスね。超日に戻る前の試合で」

「メヒコ時代のギミック、結構好きだったんだけど」

「えぇー? あれッスか、えぇー……?」

 忍は困惑し、半笑いになる。メキシコの団体に所属していた頃、忍はニンジャというリングネームで、ステレオタイプの忍者キャラだった。手裏剣、鎖鎌、マキビシ、クナイ、といった凶器をばらまいたり、白いスモークの中から登場してみたり、グレート・ムタやTAJIRIのように毒霧を吹いてみたり、と外国人が理想とする忍者を演じさせられていた。その頃はなんとかして名を挙げようと必死だったので、プロモーターから言われるがままにキャラクターを作っていた。その甲斐あって、メインの一つ前の試合にも出させてもらえるようになったが、王座戦は組んでもらえず、結果は出せなかった。

「毒霧、上手いね」

 鷲尾がいやに神妙な顔をしたので、忍は喉を押さえる。

「あれ、慣れると簡単ッスけどね。ガキの頃から風呂場で練習しまくっていたもんで」

「俺は出来ないんだよなー、そういう小技」

「ヒールじゃないんスから、別にいいじゃないッスか」

「シノブちゃん、プロレスごっこをしていたんだ」

「え? 普通、するッスよね? 弟とか友達を相手にして」

「俺はプロレスに目覚めるのが遅かったから、したことないんだよ。でも、目覚めるのが早かったとしても、出来なかっただろうな」

「なんでなんスか」

「俺さぁ、柔道をやっていたんだよ。小一から高二まで」

「えー、そりゃまたガチッスね」

「そう、ガチなの。鷲尾明弘わしおあきひろって聞いたことない?」

「ワシオアキヒロ、ッスか……。んー……」

 聞いたことがあるような、ないような。忍はしばらく考え込んでいたが、やっと思い出した。国際大会で名を馳せた柔道の名選手だ。ということは、その鷲尾明弘がアギラの父親なのか。

「道理で寝技と受け身が上手いわけだ」

 下地があるからこそだ。忍は超日本プロレスに入場するまでは格闘技を習った経験がないから、気付けなかった。

「父さんはそりゃあ凄い人だよ。俺もそう思うし、尊敬しているし、柔道に誇りを持っているのも解る。だけど、俺は父さんみたいになれなかったんだよ。どうしても、最後の最後で押し負けるんだ」

 鷲尾の耳は、長年の練習の末に潰れていた。柔道家特有のものだ。普段はマスクで隠されているから、見えなかった。

「地区大会はなんとか優勝出来ても、都大会じゃ予選落ち。関東大会なんて夢のまた夢だった。小学生の頃から、ずっとそれの繰り返しで。その度に父さんに怒られて。投げられはしなかったよ、あの人は自分の力の強さと技のえげつなさをよく解っていたから。でも、声は大きいし言葉はきついし、怖くて泣いたらもっと怒られて。だから、それに比べたら、プロレスラーになるために地道に筋トレするのも先輩にどやされるのもどうってことなかったんだ」

「……知らなかったッスよ、そんなの」

「別に知らなくてもいいんだよ、こんなこと。なんか、シノブちゃんに話したくなっただけだから。んで、柔道でモノになれないのなら、俺は一体どうすればいいんだろう、成績は今一つだから今から大学を目指しても合格出来るかどうかは定かじゃない、同級生は普通の青春を謳歌しているけど俺は練習ばっかりで友達と遊んだことなんてあんまりない、俺はこれからどうなるんだろう、ってぐちゃぐちゃ思い悩んでいた時にテレビで見たんだ。ルチャを」

 鷲尾の目が輝き、口角が緩む。少年の顔になる。

「日本の団体とメヒコの団体の交流戦で、今でもはっきり覚えている。あの、ラ・ケブラーダ! フィニッシャーでもなんでもないんだけど、凄く高度が高くて、トップロープから飛んだんじゃないかって思うぐらいで、もうね!」

「アギラさんは、メヒコでそのルチャドールには会えたんスか?」

「会いたかったんだけど、もう引退しちゃっていたし、会えるような伝手もなかったからね。でも、その人の同期のルチャドールがいたから、色んな話を聞かせてもらった」

 鷲尾は声のトーンを少し落とす。

「で、メヒコに行かせてくれって父さんに頼んだんだけど、もちろん反対されたし、ぶっ飛ばされた。高校生になって体が大きくなっていたからね。でも、俺はメヒコに行かなきゃ自分が腐っていくような気がして、この場に留まっていたら生きながらに死んでしまうような気がして、死に物狂いで頼んだ。そうしたら、母さんが言ってくれた。この子が我が侭を言うのは初めてだから、余程のことなんでしょう、って。そうしたら、父さんはやっと折れてくれて、柔道からプロレスラーに転向した知り合いに連絡してくれて、それを通じてメヒコの団体に行かせてもらった。英語も怪しかったんだけどなんとかなる、って腹を括って飛び込んだ。スペイン語が出来るようになるまではちょっと時間が掛かったけど、色々と辛いこともあったけど、毎日が凄く楽しかった。ギラギラしていた」

「そうッスね。俺もそんな感じッス、メヒコ時代は」

「ニンジャのシノブちゃんと対戦してみたかったな」

「毒霧ブシャアするッスよ、出だしで」

「マスクが濡れて息苦しさが倍増だね」

「メヒコ時代のアギラさんって、今とギミックは同じッスか」

「大体はね。ラ・マスカラ・アギラって名前だったけど」

「それ、他のルチャドールと被ってないッスか。普通すぎて」

「そりゃあもう、被りまくりだよ。ファイトスタイルも地味で、試合運びも他の人の試合を見て覚えたやつをそのまんまだから、劣化コピーもいいところ。自分の味なんてどうやって出せるのか、全然解らなかった」

「あーあーあー、俺も身に覚えがありまくりッスよ」

「でも、がむしゃらにやっていくとどうにかなるもんで、自分らしさが何なのかもやっと解るようになってきた。シノブちゃんの試合も、最近はちょっと変わってきたよね。だから、ハードコア王座も取れたわけだし」

「そうッスかね」

「そうだよ。……この前、あんなこと言っちゃってごめん」

 あのケンカのことだ。しおらしい鷲尾に、忍はやりづらくなる。

「いいッスよ、別に」

「俺、まだまだ偉そうなこと言える身分じゃないのになぁ」

「でも、まあ、ガツンと言われなきゃ解らないことも多かったッスから、結果オーライッスよ」

「けど、次からは気を付けるよ。言いたいことは試合でぶつける」

「ウィッス」

「で、さ」

「なんスか今度は」

「毒霧、教えて?」

「は?」

「いや、だって、上手く出来たら楽しそうだし」

「楽しいっちゃ楽しいッスけど、アギラさんのプロレス人生においては何の役にも立たないッスよ? 無駄な特殊技能ッスよ?」

「いやいや、それがいいのであって」

 などと押し問答していると、未羽がやってきた。

「お待たせ、明良君! シノブちゃん!」

「ウィッス」

 他のレスラーに影響されて、未羽もまたシノブちゃん呼ばわりなのだ。忍が挨拶すると、鷲尾は腰を上げた。

「じゃあ、未羽ちゃん。外まで送っていくよ」

「あ、ちょっと待って」

 未羽は超日本プロレスのグッズであるトートバッグを探り、ウサギのぬいぐるみを取り出した。黒と紫のリボン、否、紙テープが首に巻かれている。

「これ、私の席の傍の席に置いてあったんだけど、場外乱闘に巻き込まれて破られちゃうと可哀想だから回収しておいたの。でも、あんまりにも試合が凄くて興奮しちゃったもんだから、スタッフさんに渡すのを忘れちゃってさ。黒と紫ってことは、シノブちゃんのファンの人が置いていったのかなぁって思って。だから、どうぞ」

 未羽がにこにこしながら渡してきたウサギのぬいぐるみは、夕子に向けた手紙の上に置いておいたものに間違いなかった。忍はそれを受け取り、一礼してから、すぐさま自室に戻った。痛みを忘れるほどの動揺が起き、心臓が痛い。紙テープの隙間には細く折り畳まれたメモ用紙が挟まっていて、忍は意を決してそれを広げた。切り刻まれた離婚届が挟まれていて、紙吹雪のように散らばった。

【忍さんの主観で私の人生を否定しないで下さい。 夕子】

 いかなる凶器攻撃よりも痛烈な打撃が、忍の胸中を抉った。

「……んのやろお」

 そんなつもりではなかったのに。と、言ったところで、夕子からしてみれば言い訳にしか聞こえないだろう。ハードコア王者となったことを一番喜んでくれるのは夕子だろうに、その夕子を遠ざけてしまってどうする。良かれと思って取った行動が裏目に出てしまったが、それもこれも自分の思慮の浅さによるものだ。

 夕子。今、お前はどこにいる。

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