第十話 スカルフェイスとスカーフェイス

 ゴミ箱の底から、レンタカーの領収書が出てきた。

 営業所の住所をネットで検索してみると、忍が夕子と思しき女を抱いたホテルから程近い場所にあった。それから、夕子の私物が入っている箱を探ると、地元の自動車学校で教習を受け終えていたので、最寄りの運転免許センターで試験を受けて合格した証拠である書類も出てきた。

「十九歳……」

 申込書に書かれていた生年月日を逆算すると、忍よりも八歳年下だった。初めて会った時は喋り方もたどたどしかったし、字も下手くそだったので、もっと幼いものだとばかり思っていたが、そうでもなかったらしい。

 ハードコア・マニアックスの傷も癒えたので宿舎から自宅マンションに戻った忍は、大掃除をするついでに夕子の痕跡を探してみた。全ての部屋を開け放ち、クローゼットも押し入れもベランダも探してみたが、やはり夕子はいない。冷蔵庫には食事も用意されていないし、掃除も半端だったし、洗濯物も溜まっていたし、忍の広告紙の手紙には水滴が散らばった痕が付いていた。封筒に入れておいた有り金は、五万円ほど抜かれていたので安堵した。無一文で外に出たわけではないからだ。

 乱雑に服を詰め込んであったクローゼットが整理されていて、夕子の巣が出来ていた。小さな折り畳み式のテーブルがあり、高校の教科書や参考書がその下に置かれていて、忍の服で隠れている壁にはびっしりと写真や地図が貼り出されていた。忍、残忍、忍、残忍、残忍、残忍、といずれも隠し撮りされたもので、地図には超日本プロレスが地方巡業する際の移動ルートが正確に書き込まれていた。また、残忍のトレーニングの時間割をきっちりと書き込んだタイムテーブルもあり、デリヘルの使用頻度とその相手のリストまでもが作ってあった。レシートや領収書で忍の行動パターンを完全に分析してあり、ランニングのルートも同様だった。

 プロレス雑誌に掲載されたデビュー当時の記事の切り抜き、スポーツ新聞に一行だけ名前が載った記事の切り抜き、メキシコ時代の試合のパンフレット、超日本プロレスに戻ってきた際の記事の切り抜き、レプリカマスク、Tシャツ、ブロマイド、その他グッズ、残忍、残忍、残忍、残忍、残忍、残忍。そして――横断幕。

 怖気立つ前に、悲しくなった。こんなにも見られていたのに、なぜ気付いてやれなかったのだろう。あれほど誰かの視線を欲していたのに、感じ取ってあげられなかった自分が情けない。うわぁストーカー超ヤベェマジキモい、と思えればまだ楽なのだが。

 テーブルの傍に白と黒のウサギのぬいぐるみが並べられていて、夕子が手作りしたであろうぬいぐるみサイズの残忍のマスクを被せられていた。そして、二羽の首には黒と紫の紙テープが結ばれていた。

 黒いウサギを手にして、忍は夕子の巣から出た。



 体力が戻り切っていないので、今日の練習は軽めだった。

 午後はゆっくり休んだ方がいい、とトレーナーも言っていたが、残忍は帰宅せずに街中をぶらついた。外出用のマスクで、口元が開いているタイプだ。ハードコア王座を取ったことはそれなりに知れ渡っているのか、通行人に声を掛けられ、一緒に写真を撮ってくれないかと頼まれた。もちろん全力で快諾した。

 いつものルートで、のんびりと歩いた。スーパー、ドラッグストア、本屋、ランニングで使っている公園、馴染みのトレーニングジム、と巡りながら事ある毎に背後を窺った。隠し撮りの角度と写真の具合からして、夕子は残忍の後方十数メートルから尾行しているようだった。だから、残忍が出歩けば一定の距離を保って追いかけてくるのではないか、と考えて歩き回ってみたのだが、そう簡単にはいかないようだ。

 なんだか気が滅入ってきたので気分転換しよう、と電車に乗り、弟の住んでいる街にやってきた。目的地は純喫茶ハザマである。駅前商店街を通る間にも何度か声を掛けられ、サインも求められたので、もちろん全力で応じた。常時持ち歩いているサインペンが、やっと役に立った。

 純喫茶ハザマに入ると、店主の狭間が飛んできてハードコア王座獲得を祝ってくれた。ウェイトレスの眼帯娘、霧崎ジャクリーンも拍手してくれた。なんでも、狭間はハードコア・マニアックスを観戦していたのだそうで、残忍のケンドースティックで追い払われた観客の中の一人だったらしい。

「よかったら、サインしてくれるかな。で、写真も」

 それをあそこに飾るから、と狭間はカウェアのレスラー達の写真が貼られた壁を示した。

「お、おぅっ!?」

 カウェアのレスラー達と肩を並べるだなんて、そんな。残忍は気後れしかけたが、せっかくの申し出は断れないので頷いた。

「いいッスよ、ばっちり撮って下さい!」

 差し出された色紙にサインをして、日付も店名も入れてから、その色紙を手にしてポラロイド写真を撮ってもらうことになった。商材用に使う写真では、ヤンキー座りで睨み付けているか、ケンドースティックを肩に乗せて睨み付けているか、のどちらかのポーズを取っている。だが、狭くて薄暗い店内では見栄えが悪いので、首を掻っ切るポーズを取った。親指を立てて首の根元に添え、顎を上げて目を見開いてレンズを睨み付けながら、サインしたばかりの色紙を掲げたところでシャッターを切ってもらった。

 それから数分後、生意気盛りの不良の如きポーズの写真が印画紙に浮かび上がったので、サイン共々壁に貼り出された。自分の写真を見ているのはなんだか気恥ずかしいので、離れた席に座ってから、残忍はナポリタンとコーヒーを注文した。

 ショルダーバッグから黒いウサギのぬいぐるみを取り出して、テーブルの隅に置いた。しばらくしてジャクリーンが出来上がった料理を持ってきてくれたので、太麺のナポリタンをじっくりと味わいながら平らげ、コーヒーを啜りながら、残忍は店に立ち入る客を窺っていた。夕子の顔は知らないが、一度は抱いた女なのだから体付きは覚えている。それに、このウサギのぬいぐるみを目にすれば、少なからず反応するはずだ。そう考えて、残忍は長々と粘った。残忍の行動パターンを把握しているのなら、夕子はこの店のことも知っているに違いない。

 純喫茶ハザマの客の入りは良く、回転も良かったが、それらしい客はなかなか訪れなかった。なので残忍は、コーヒーを三杯飲み、狭間が買い溜めておいたプロレス雑誌のバックナンバーを読み尽くし、ザッハトルテを食べ、四杯目のコーヒーを飲むか飲むまいかと悩んでいると、一人の女性客が訪れた。

「いらっしゃいませえー」

 ジャクリーンが甘ったるい声を掛けると、紙製のマスクを付けた若い女性は残忍を目にした途端、硬直した。ボブカットと言うよりもおかっぱに近い髪型で、白いブラウスの紺色の膝丈のプリーツスカートという田舎の中学校の制服のような服装をしていた。残忍のマスクを見てぎょっとしただけかもしれない、とウサギのぬいぐるみを示してやると、彼女は華奢な肩を縮めて俯いた。

「御席へ御案内しまあす」

 ジャクリーンは事情を知ってか知らずか、残忍の座っているボックス席の隣のボックス席に彼女を案内した。

「御注文がお決まりになりましたら、お申し付け下さーい」

 メニュー表と御冷を置いてから、ジャクリーンはバックヤードに戻っていった。彼女は残忍に背を向けて座り、項垂れている。ブラウスの襟と黒髪の隙間から覗く首筋は頼りなく、不安気ですらある。

 程なくして、彼女はスマートフォンを取り出して操作し始めたので、残忍は腰を上げてその画面を覗き込んだ。待ち受け画面は、ガーターベルトとストッキングを履かされている残忍の写真だった。

 あれって本気だったのかよ、と呆れる一方、とてつもなく解りやすい目印を持っていてくれたことに感謝した。粘った甲斐があったというものだ。残忍は紙ナプキンに文字を書いてから、トイレに行くついでに彼女のテーブルに置いていった。

【ドラゴン・スクリューは上手く出せるようになったか? 忍】

 用を足していると、ニンジャ時代の着信音が鳴った。

【sいのbうsあn どsいtえ わkあったnでsうか】

 夕子からのメールだった。



 小一時間後、純喫茶ハザマを後にした。

 夕子がミルクティーとババロアのセットを食べ終えてから、夕子の分も会計してやった。途中で逃げられると困るので、残忍は夕子の手を握って引っ張っていった。何度か振り払われそうになったが、そこはプロレスラーの握力なので離しはしなかった。

 私鉄の駅までの道中にある緑地公園に立ち寄り、ベンチに腰掛けた。秋は日が暮れるのが早く、空は薄暗くなりつつあった。残忍は、食べ終えるや否やすぐにマスクを付けて顔を隠した夕子を一瞥する。残忍の骨張った手の中で、小さな手はじっとりと汗ばんでいた。

「夕子だろ」

 名を呼ぶと、彼女はぎくりとしたが、弱く頷いた。

「別に喋れないってわけじゃないんだろ?」

 夕子は頷くが、こちらを見ようとはしなかった。

「お前って、テンキーじゃなくてキーボードでスマホに入力するのか」

 頷く。

「あの店にはよく来るのか?」

 頷く。

「甘いのが好きなんだな」

 何度も頷く。

「今まではどこにいたんだ? ネカフェか?」

 頷く。

「免許取り立てなのに山陽地方まで追いかけてくるなんて、とんでもねぇ度胸だな。よく事故らずに帰ってこられたな」

 夕子の手が突っ張り、残忍の手中から抜け出そうとしたが、力を込めて握り直して引き止める。

「悪かったよ」

 夕子の指が緩み、脱力する。

「で、あの夜、俺が抱いたのはお前でいいんだな?」

 マスクに隠れていない部分の肌と耳が赤らみ、夕子は俯く。

「……悪かったよ、本当に」

 そうだと知っていれば、もっと優しくしていたものを。残忍は夕子の指の間に自分の指を滑り込ませ、今一度握る。

「俺がハードコア王座を獲ったこと、知っているな?」

 夕子は頷く。力一杯頷く。

「ハードコア・マニアックス、見に来てくれていたんだな?」

 頷く。

「でも、途中で帰っちまったんだな。なんでだ?」

 夕子の指は残忍の手に食い込み、爪を立ててきた。ハードコア・マッチに比べればささやかだが、重みのある痛みだった。

「…………こわく、なって」

 虫の鳴き声よりも弱々しい声が、マスクの内から零れた。

「血まみれで殴り合う俺がか?」

 残忍が問うと、夕子は首を横に振る。

「し、忍さんは、忍さんだけどでも残忍でニンジャでルチャドールで、もっともっと凄くなれるはずで、それはとても嬉しいことなんだけど、でも、元々遠い世界にいた人だったのにやっと近付けたのにまた遠くに行っちゃうかもしれない、って思ったら、あんなこと書いちゃって、書くつもりじゃなかったのにでもどうしても書かずにはいられなくて、だから、あんなこと……」

 夕子は肩を震わせ、ぼろぼろと涙を落とした。

「忍さんは、私のものじゃない。私なんかのものにはならないし、なっちゃいけない。残忍さんもそう。私のことなんて、忍さんの人生にとっては何の価値もないし、むしろ邪魔になるだけだから、絶対に近付かないようにしようって思っていたのに、忍さんと同じ時間を過ごしているのにじっとしているのは耐えられなくなって、我慢出来なくなって、それで……」

「俺をストーキングしていたと?」

「ひぃっ」

 夕子が悲鳴を上げかけたので、残忍はマスク越しに夕子の口を塞ぐ。

「自分でも自覚はしていたんだな?」

 口を塞がれたまま、夕子は頷く。

「いつからだ?」

 口を解放してやりつつ残忍が問うと、夕子は目線を彷徨わせる。

「し、忍さんがデビューする前、練習生になった頃から、色んな雑誌やネットで追いかけていって、たまに上京して道場を覗いて、さすがにメヒコまでは追いかけられなかったけど、でも、出来る限りの情報は集めていて、超日で再デビューしてからは追いかけられるだけ追いかけて、忍さんのマンションにも……たまに……」

「盗聴器とかは?」

「ぃっ、それは自分でもダメだって思ったからしていません! したかったけど! したかったけど、FM電波の受信範囲が狭すぎるから出来なかっただけで!」

「……仕掛けるつもりではあったんだな」

「ご、ぁ、ごめんな、さい」

「そのエネルギーはどこから湧いてくるんだよ」

「ぇ、あ、うー……。よく、解りません。ただ、その、なんというか、忍さんのことを考えるといてもたってもいられなくなっちゃって……」

 夕子は口籠り、耳を火照らせた。

「で、俺と結婚するまでには何があったんだ?」

「えと、ドラゴン・スクリューを……」

「ドラスクを誰かに掛けたのか?」

「あの時、忍さんがドラゴン・スープレックスを仕掛けた人が意地になって私を欲しがってしまって。だから、親戚に預けられていて、叔父さんと叔母さんは私にとても良くしてくれて、高校も卒業させてくれたんだけど、卒業してからしばらくするとドラゴン・スープレックスを仕掛けられた人がやってきて、私を連れ出そうとしたから、ドラゴン・スクリューを仕掛けて、逃げ出して……。だから、私はどうせなら忍さんと結婚したい、って言っちゃって、そうしたら叔父さんと叔母さんが本気を出して」

 夕子は涙目になり、声を詰まらせる。

「で、でも、本当に結婚してもらえるなんて思わなかったから、一か八かの大博打で、人生最大の賭けで、今でもまだ信じられないぐらいで、だけど、忍さんは私と結婚してくれて……」

「悪い」

「ごめんなさい」

「いや、お前じゃねぇよ。俺だよ、悪いのは。あの時はなんか苛々していて、プロレス以外のことを考えるのが煩わしくて、さっさと終わらせて次の巡業先に行きたかったから、二つ返事でOKしちまったんだよ。よく考えもせずに返事をした俺が悪ぃんだ」

「いえ、元はと言えば私のせいで」

「けどな、あの手紙に書いたことは俺の本心だ。俺に依存するな」

「でも」

「でないと、俺もお前に依存しちまいそうで怖いんだ」

「怖い……んですか?」

「怖い。すっげぇ怖い。ラ・ケブラーダを決めようとした時にお前の顔がちらっとでも浮かんでみろ、迷いが出て重心がブレちまう。それが怖い」

「プロレス脳……」

「なんとでも言いやがれ」

「でも、えと、それって、そのぉ」

「――――俺はつまんねぇ男だってことだ」

 残忍は夕子のマスクに手を掛けると、夕子は目を剥いたが、躊躇わずに剥ぎ取った。薄い紙製のマスクの下から現れたのは、化粧気はなくとも整った顔立ちと――――左の頬に刻まれた傷跡だった。

 その傷跡に、二度目のキスをした。



 二人揃って帰宅したのは、これが初めてだった。

 玄関の明かりを付けると、夕子の頬の火照り具合が見て取れるようになった。どんだけ俺に惚れてんだ、と思うと、残忍は嬉しくもあったが若干気後れした。俺はそこまで価値のある男ではない、と思ってしまうからだ。

「あ」

 夕子を背後から抱き竦め、そのまま廊下に押し倒す。冷たい床とざらついた玄関マットに横たえられ、夕子は戸惑った。

「あ、っ!」

 ブラウスの上から胸を探ると、夕子は足をばたつかせるが、すぐにそれを押さえ込む。

「ロープはねぇぞ」

「ぅ、せ、せめて、アイ・クイット・マッチで」

「よくそんなの知ってんな」

「忍さんのことを追いかけていたら、必然的に」

「そうかい。だが、今は俺がルールブックだ」

 ここはリングではない。レフェリーもいない。薄暗い部屋にいるのは、夫と妻だけだ。残忍は夕子の襟足に顔を寄せ、産毛の生えた肌を吸う。

 夕子は鼻に掛かった喘ぎを零したが、よろしくお願いします、と身を委ねた。

 二人の夜は始まったばかりだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る