第三話 兄と弟
地方巡業に出発する前に、弟と会うことにした。
残忍は弟の住所の最寄り駅で下車したが、待ち合わせの時間よりも早めに到着してしまったので、駅前のゲーセンで時間を潰そうと思い立った。店先にあるクレーンゲームに目を留め、小銭をじゃらじゃらと手のひらで弄んだ。
「ここんとこしてねぇな、そういえば」
学生時代は狂ったように熱中していたのだが、最近はすっかり御無沙汰だ。勘が衰えてなきゃいいんだが、と思いつつ、六回分の五〇〇円を投入した。ツメの角度は上々、アームの曲がり具合からしてバネもそれなりにしっかりしている、景品の配置も絶対取れない位置ではなさそうだ。となれば、簡単だ。
一回目、成功。ピンクのウサギのぬいぐるみが出てきたので、それをショルダーバッグに突っ込んだ。二回目、成功。グレーのウサギのぬいぐるみが出てきた。三回目、成功。ブチ模様のウサギのぬいぐるみが出てきた。四回目、危うい場面はあったが成功。白いウサギのぬいぐるみが出てきた。五回目、成功。二匹目のピンクのウサギが出てきた。六回目、黒いウサギのぬいぐるみをアームで持ち上げ、穴の中に落としたところで、弟がやってきた。
「兄ちゃん!」
「おー」
ショルダーバッグから溢れているウサギのぬいぐるみを押し込みつつ、残忍が出迎えると、三歳年下の弟である
「相変わらず上手だなぁ、兄ちゃんは」
「一匹やるよ。ピンクのがダブった」
「お、もらっとく」
「珍しいな、昔はぬいぐるみ系は嫌がったじゃねぇか」
「俺じゃなくて、俺の彼女が喜ぶからさ」
「そりゃ知らなかった。つか、誰だよ。どこで出会いやがったんだ。お前のゲテモノ趣味に付き合ってくれるような奇特な女なんていたのか?」
「心霊スポット巡りは普通だろ」
「変なことに巻き込まれねぇうちに止めとけって。幽霊と会うだけならいざ知らず、不良やら犯罪者に絡まれたら大変だろうが」
「……幽霊じゃない、よ。
倫太郎はいやに歯切れの悪い言い方をしたので、残忍はグレーのウサギを弟に押し付けた。
「幽霊じゃねぇんなら、まあ、仲良くしろや」
「言われるまでもねぇよ」
倫太郎は二匹目のウサギをバッグに詰め込み、蓋をしようとしたが、耳がはみ出してしまった。
「仕事はどうだよ」
「どうにかこうにか。やっと慣れてきたかなー、と」
「無理すんなよ」
「兄ちゃんこそ。超夏で鼻をやっちまったんだろ、大丈夫か」
「あー、どってこたぁねぇ。折れてなかったし」
粘膜が派手に傷付いて毛細血管が盛大に切れていたので、医者に鼻の中を洗い流された後に消毒された時は死ぬかと思ったが。倫太郎は大学生っぽさが抜け切らない服装であったが、ジャケットにジーンズと可もなく不可もない。残忍はと言えば、筋肉を盛った体を収めることを最優先に選んだので洒落っ気も何もないTシャツに、この時期に着るにはまだ少し暑苦しい革ジャンに迷彩柄のカーゴパンツ、そして外出用のマスクという柄の悪い格好だった。そのせいで道行く人々からは妙な目で見られたが、倫太郎はしれっとしていた。弟は優しいのだ。
「んで、どこに連れていく気だ」
残忍が問うと、倫太郎は商店街の一角にある喫茶店を指した。純喫茶ハザマ、との看板には見覚えがあった。
「……あぁ!?」
ということは、そういうことか。残忍が目を見張ると、倫太郎はなんだか自慢げな顔をする。
「兄ちゃん、カウェアが大っ好きだろ。だから、カウェアの選手の行きつけの店に行きたがるかと思ってさ。その様子だと、まだ来たことなかったみたいでよかったよ。サインも写真も置いてあるよ」
「と、とりあえず行こうぜ、な、なっ!」
「テンション上がり過ぎだろ」
倫太郎は兄を茶化しつつも、純喫茶ハザマに向かった。ハードコアマッチを主とするプロレス団体、カウェアの面々があの店の常連であることは雑誌のインタビューや彼らのブログの記事で知っていたが、時間が取れなくて行くに行けなかった。超次元夏祭りに参戦したリベルラとも話をしたかったのだが、彼は同日に開催されていたカウェアの試合にも参加しなければならなかったので、話しかける間もなく移動してしまった。だから、弟の気遣いが嬉しくてたまらない。オモチャを買いに行く子供のようにうきうきしながら、残忍は純喫茶ハザマに入った。
「いらっしゃいませぇ」
甘ったるい声で出迎えてくれたのは、二十代前半と思しきウェイトレスの女性だったが、右目が眼帯に覆われていた。艶やかな長い黒髪で、レトロなメイド服を思わせるデザインの制服を着ているのだが、素肌を出すのを厭うかのよように布地で覆い尽くされていた。
「あれ、倫太郎さん。その人って」
ウェイトレスは残忍を見、左目だけで笑った。
「俺の兄ちゃん! 見りゃ解るだろ、レスラーなんだ」
倫太郎が意気揚々と紹介したので、残忍は頭を下げた。
「どうも」
「ええ、そりゃあもう。一目瞭然でした。それでは御席へ御案内しまーす、こちらへどうぞ」
二名様御案内でーす、とウェイトレスは二人を店の奥に導いた。壁際のボックス席の背後の壁には、カウェアの選手達の力強いサインが書き込まれた色紙と、そのサインを手にした選手達の記念写真が飾られていた。“絶対王者”スカラベウス、“サブミッション・マスター”ルカヌス、“マッドネス・ドクター”アピス、“静かなる凶器”イオリ、“青き制空者”リベルラ、“百の蹴りを打つ男”センティピード。いずれも、カウェアの黎明期を支えた男達だ。
「うおおおおぁああああっ……!」
両の拳を固めて感嘆した残忍は、サイン色紙と写真を凝視する。
「スカリーさんのは前の団体から移籍してきた直後だな、マスクのツノの長さが短めだし筋肉の付き方が発展途上だからな! ルカヌスさんのは入団二年目だから六年前だな、サインの形がちょっと違う! アピスさんのはグラビア撮影用の決めポーズの腕の角度が高いから入団三年目だな、今はカメラのレンズを毒針で射貫くように、こう、ポーズを取る! イオリさんのはちょっと解りづらいが俺には解るぞ、カメラに向かって斜めにポーズを付けていたのは去年までだから去年だ、今年は真正面から映るようになったんだ、社長さんと結婚してからは! リベルラさんのはマスクの目元の縁取りにラメが入っていないからデビューして半年ぐらいだな、この地味目なマスクは短命ですぐに破られちまったから! で、センティさんのは一昨年のやつだな、Tシャツの絵柄で解る! 俺も持っているからな、ムカデが胸から背中に這い回るデザインのやつ!」
「どんだけテンション上がったんだよ」
倫太郎が呆れると、残忍は深呼吸して拳を緩めた。
「悪ぃ……思わず……」
「同業者なのに?」
「いいじゃねぇかよ、俺はレスラーである以前にカウェアのファンなんだから。それに、世の中には声優のアニオタだっているだろ」
「別に責めちゃいないけどさ」
倫太郎は半笑いになりつつ、ボックス席に腰掛けた。残忍はスマートフォンでサインと記念写真を一通り撮影してから、ひとしきりにやけた。眼帯のウェイトレスが注文を取りに来たので、残忍はナポリタンとチキンサラダとコーヒーのセットを頼み、倫太郎はホットサンドとクリームソーダを頼んだ。
「兄ちゃん、元気そうでよかったよ」
ハムとチーズとトマトが挟まれたホットサンドにかぶりつきながら、弟は呑気なことを言った、昔からそういう性格だ。
「馬鹿言え、今年に入ってから一勝も挙げられてねぇ」
太麺のスパゲティにケチャップがしっかりと絡んでいて、程良く火が通ったピーマンとタマネギの歯応えがアクセントになり、ベーコンの油脂と塩気が味に深みを与えている。つまり、旨い。すぐに食べ終えるのは勿体なかったが、あっという間に平らげてしまった。それもまた職業病である。
「でも、珍しいな。兄ちゃんが俺に会おうだなんてさ。上京してから会うのは二回か三回か、そのぐらいじゃなかったっけ」
「ちょっとな」
新鮮な生野菜の上にクルトンと手作りのドレッシングが掛けられ、ボイルした鶏肉が載せてあるチキンサラダもまた、旨かった。だが、これもやはり早々に食べ切ってしまった。
「親戚に夕子ってのがいたよな」
「あ? んー……あー……どうだっけ、ちょっと思い出す」
倫太郎はクリームソーダのアイスクリームを掬い、頬張る。もごもごとスプーンを動かしながら考え込んでいたが、あ、と口を開ける。
「あ、あれかな? 叔父さんの奥さんの姪御さんの」
「またえらく遠いな」
残忍は紙ナプキンを一枚取り、ショルダーバッグに常備してあるサインペンでざっくりと家系図を書いた。自分と弟、父親の兄である叔父、そしてその妻の姪ともなれば。
「ただの他人じゃねぇかよ」
「血の繋がりなんて一滴もないな」
「で、その夕子のことなんだけどよ」
「え、もしかして、兄ちゃんは聞いてねぇの?」
「何が?」
「ユウコさんって人、この前亡くなったよ」
「は……はああ?」
やや間を置いてから、残忍は唖然とした。
「叔父さんの奥さんの姪御さんって人、長いこと臥せっていたそうで、で、何年も入院していて、来るべき時が来ちゃったんだそうで」
「そんなん全然知らなかった、いやマジで」
「親戚というには遠すぎるし、顔を合わせたこともなかったから、俺は葬式に出なくてもいい、って親から言われたから帰省もしなかったよ。兄ちゃんに連絡が来なかったのも、試合に集中してもらいたかっただけなんじゃねぇの? 東北巡業の真っ最中だったし」
「てぇことは……」
残忍は指折り数え、マスクの下で青ざめた。東北巡業といえば、超次元夏祭りの直前であり、残忍と夕子はその最中に流れ作業のように結婚をしたわけであって。
「ちょ、ちょっと実家に電話してみる!」
おいおいこれって一体なんなんだ、俺はナニと結婚したんだ、と残忍は混乱しながら店から飛び出した。スマートフォンを操作して数カ月ぶりに実家に電話を掛けると、すぐに母親が出た。
「母ちゃん、俺よ、忍だけどよ」
あんれまあシノブけぇどげんしとったと、と訛りがきつい言葉で返され、すこぶるどうでもいい世間話と知っていたところで何の意味もない近所の住民達の近況報告の後、やっと本題に入れた。母親は昔からそうなのだ。話に無駄が多すぎる。だが、母親の話は弟の話となんら違いはなかった。それはつまり、そういうことなのか。
母親との電話を終えて店内に戻ってきた残忍は、弟の前にどっかりと座った。つまり俺は本当に幽霊と結婚したのか、そもそも幽霊って結婚出来るのか、いやでも実際にメモはあったしメシもあったし掃除もされていたし、と残忍は考え込んだが、悩めば悩むほど訳が解らなくなってくる。
「兄ちゃん、大丈夫か?」
「う、うーん……」
大丈夫かと問われれば、大丈夫じゃないと返すべきかもしれないが、夕子が幽霊だという確証はない。だが、幽霊ではないという確証もない。残忍は曖昧な声を漏らしつつ、無意識にショルダーバッグからプロテインシェーカーを取り出し、御冷を注いで蓋をしてがしゃがしゃと振った。氷が砕けたおかげで、良い感じに冷えている。
「それ、いつも持ち歩いてんの?」
「まあな」
「ちなみに何味の」
「メロン味のやつが好きだな、俺は」
だが今日のやつはバナナ味だ、とぼやいてから、残忍はプロテインを流し込んだ。
「蛋白質は大量に摂り過ぎると内臓に負担が掛かるから適量にしておけ、ってトレーナーは言うんだが、俺はもうちょっと増やしたいような気がしないでもないんだよ」
「今でも充分筋肉あるじゃん」
「いや、全然だ。九〇キロもない」
「けど、兄ちゃんはルチャドールなんだろ? 空中殺法が売りなんだから、ウェイトを増やしても邪魔になるだけじゃん」
「そりゃそうなんだが……あー……もどかしい……」
残忍は少し冷めたコーヒーを飲み干してから、唸った。
「三年前に膝の皿を割って長期欠場したことがあるんだから、今の体形のままでいいと思うよ。下手に増量して膝をまた痛めたら事じゃないか」
「そうかなぁ」
「そうだよ」
残忍は首を捻るが、倫太郎は頷いた。
「で、兄ちゃん」
「今度は何だよ」
「なんで俺の前でもマスクを脱がないんだ?」
「エル・サントの逸話を知らねぇのか」
「そりゃ知っているけどさ、兄ちゃんが何度も話すもんだから」
「仮面聖人たるメヒコの英雄は、死して尚もメヒコの英雄であらんがために棺の中でもマスクを被っていた。魂にガツンと来るだろ」
「まあな」
「だから、俺も本物のルチャドールになりたいんだよ」
「だったら、またメヒコに行けばいい。デビュー直後に武者修行しに行ったんだから、また行けるって」
「それが出来たら苦労はしねぇ」
それに、と言いかけようとしたが、残忍は自制した。アギラを叩きのめすまでは超日本プロレスに留まりたい、と口にするのは憚られた。自分でもアギラに対する執着と嫉妬には嫌悪感を抱いているし、同じルチャドールとはいえキャラクターの方向性が正反対のアギラと残忍を同列に扱うべきではない、と頭では解っている。解っているのだが、どうしても振り切れない。つくづく嫌になる。
「俺は兄ちゃんのプロレスって結構好きだよ」
「身内の欲目か」
「それもちょっとはあるけど、なんていうか、必死なのがいい。何がなんでも相手に喰らい付いて、突っかかっていくところが。言っちゃなんだけど、兄ちゃんの技は切れ味が鈍い。ファルコさんと兄ちゃんのフェニックス・スプラッシュを見比べてみると、素人目にも解る。兄ちゃんの倍以上の経験があるファルコさんと比べるのはアレだけど。だけど、その分伸びしろがあるってことだろ?」
「あー、武藏原さんからもよく言われる。言われまくる」
技の未熟さは武藏原厳生に稽古を付けてもらうたびに指摘されるのだが、その切れ味の出し方が未だに掴み取れていないのだ。ジャンプのタイミングか、パンチやキックの角度か、それとも他の何かか。具体的に指示すりゃいいのに、と思わないでもないが、自分で見つけなければ無意味なので模索するしかない。
気分直しに、帰りがけにもう一度クレーンゲームをした。アニメキャラと思しき女子高生のぬいぐるみを三個手に入れたので、後日、鬼無里に押し付けると異様に喜ばれた。にこにーがえりちがかよちんが、と騒いだので引っぱたいて黙らせた。
ウサギのぬいぐるみは、夕子にプレゼントした。
否、お供えした。
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