第二話 ガーターベルトとストッキング

 試合に出場しない日であろうと、興行中に休みはない。

 ホールのロビーに設営された物販ブースにて、残忍はファンを相手にグッズを売り捌いていた。売れ行きがいいのは、超日本プロレスのロゴ入りTシャツとトップレスラー達のTシャツだった。大上剣児のものは早々に売り切れ、続いて野々村速斗のものも売り切れ、サイン入りブロマイドは文字通り飛ぶように売れていく。女性ファンの大多数は二人のグッズを買い求めていて、チーム・ダークウィンドとしてタッグを組んでいた時のTシャツは、ファンがあまりにも欲しがるので再販された。そして、売り切れた。

 試合が始まると、怒濤のような一時が終わった。残忍は空っぽになった段ボール箱を畳み、売上金を入れた手提げ金庫に鍵を掛け、パンフレットを補充し、グッズのリストに品切れの札を貼り、と手を動かし続けていた。試合を観に行きたいのだが、これではまだ手は空きそうにない。試合の最中もファンが買いに来るので、迂闊には離れられないのだが、一緒に物販に入るはずだったレスラーが急遽出場することになったので、残忍が一人で捌く羽目になった。練習生や若手レスラー達は会場の設営などに駆り出されてしまったため、物販までは人員を回す余裕がなかったのだ。

「あー、もう……」

 俺のレプリカマスクは売れたっけああ売れてねぇや、俺のTシャツ売れたっけイマイチだったな、俺のグッズ余りまくってるじゃねぇか失礼な連中だな、と内心でぼやきながら、残忍はパイプ椅子に腰を下ろした。立ち上がる気力が出るかどうかは怪しかったが。

「お疲れ、シノブちゃん」

 物販の奥でへたり込む残忍に声を掛けてきたのは、ベテランの覆面レスラー、ファルコだった。彼も今回は出場せず、リングサイドに回ることになっている。

「ウィッス」

 残忍が力なく挙手すると、ファルコは詰め寄ってきた。

「結婚したんだってな? 社長から聞いたんだがよぉ!」

「あ、まあ、そうッスけど」

「相手、どんな人だ?」

「さあ?」

「顔は、スタイルは、年上か年下か?」

「顔もスタイルも解らないッスけど、年下なのは確実ッスね」

「なんでぇそりゃあ?」

「でも、まあ、よく出来た女ではあるッスけど」

「いやに歯切れが悪ぃな」

「見合いみたいなモンで結婚したばっかりなんで、まだ相手のことが全然解っていないんスよ。誰も彼も、アギラさんと未羽さんみたいに出来るわけじゃないっスから」

「あいつらは特別だろうぜ」

「そうッスよねぇ。で、未羽さん、また来ているんスか」

「関東圏なら大体来るな。北限は茨城、南限は静岡だ」

「足代も馬鹿にならないってのに、熱心ッスねー」

「アギラの応援のためってのもあるが、あの人は純粋にプロレスが好きなんだろうよ。リングの上から招待席を見ると、キラッキラした目で俺達の試合を見ていたからな。……アギラが心底惚れたのも、なんか解る気がしてくらぁ」

「そうッスよね、人妻ッスからね。ファルコさんの大好物は人妻ッスからね」

 アギラと未羽が結婚するまでは見向きもしなかったくせに。ファルコの悪癖が騒ぎ出したようだ。残忍が呆れると、ファルコは嘆く。

「お前までそれを言うんかい! 俺だってなぁ、たまには真っ当に女性を評価することがあるんだからよ! そりゃあ、人妻ってのは重要な要素ではあるんだが、それだけじゃあねぇんだからな!」

 と、どうでもいいやり取りをしていると、ファンが駆け寄ってきた。ラプターズのTシャツを着ている若い女性で、緊張しきった面持ちでファルコに話しかけてきた。

「ファルコさん! 応援してます、この前の試合も最高でした! 特にあの、ノータッチ・プランチャ・スイシーダがもう、本当に! 握手してもらっていいですか! それと記念写真も!」

「そりゃあもう! どうもありがとう!」

 ファルコは女性ファンの両手を掴み、しっかりと握手してから、差し出されたデジタル一眼カメラを残忍に渡してきた。

「残忍、頼むわ」

「はいはい」

 残忍は言われるがままにカメラを受け取り、数枚撮影してから女性ファンに返した。これもまた、いつものことだ。

「ありがとうございますっ! 一生の思い出ですっ!」

 本当にありがとうございます、応援してます、と何度も何度も言いながら、女性ファンはホールに戻っていった。ファルコはマスクの下でにやにやしながら手を振っていたが、ふと真顔になった。

「ありゃ人妻だなぁ」

「え? いや、ありゃ普通に独身ッスよ。髪も染めていたし、化粧も若い子のやつだし、指輪もしてなかったじゃないッスか」

「手で解らぁな、手で。独身の女の手と主婦やってる人妻の手にはよぉ、天と地ほども差があらぁな」

「んじゃ、バリキャリで旦那に家事を丸投げしている人妻の場合はどうなるんスか」

「態度で解らぁな。そんなもん」

「的中率はどうなんスか」

「今んところ、百発百中よ」

 妙に自慢げなファルコに、残忍はマスクの下で半笑いになる。

「その特殊技能、いらないッスよね? 絶対にいらないッスよね?」

「いやあ、これが意外と役に立つんでさぁ。人妻はたまらなくそそるんだが、手ぇ出したら選手生命終わっちまうんでなぁ……」

 ああたまんねぇ、けどダメなんでさぁ、とファルコはしみじみと呟いた。この男は、なんとも業が深い性癖の持ち主である。ファルコが欲情するのは人妻なのだが、自分の妻ではそそらないという面倒臭い性分なので、これまでに結婚話が持ち上がっても結婚したことは一度もなかった。最後の最後で踏ん切りが付かないのだそうだ。試合では、場外に飛び出して大技を決めているというのに。

 やはり、リングの中と外は別の世界なのだ。



 超日本プロレスは、毎年八月末に大会を開催する。

 超次元夏祭りと銘打たれたコメディ路線の強い大会で、ベルトを賭けた王座戦もレスラー同士の抗争も、この大会では一旦お休みしてファンサービスに努めよう、という趣旨に基づいて行われる。試合の結果によっては、残忍のようにジョバーが板に付いているレスラーでも目立てるので、否が応でも気合が入る。

 なのだが。

「ちょおっと勘弁してもらえないッスか、社長」

 超次元夏祭りで着る衣装を渡され、残忍はマスクの下で顔を引きつらせた。道場で練習していたレスラー達もざわついている。

「確実に受ける」

 小倉はにやりとして、残忍の肩を叩いてきた。

「相手は野々村だ、祭りだからと言って雑な試合が出来る相手じゃない」

「ノノもこれ、着るんすか……?」

「着る。渡した時はドン引きしていたが、しばらくすると腹を括ったらしくて快諾してくれた。プロ根性があるよ、あいつは」

 だからシノブちゃんも頑張れ、と小倉は言い残して事務所に去っていった。残忍は手渡された衣装を見、心底萎えた。

「ガーターベルトとストッキングなんか着て、まともなプロレス出来るかよ」

「いや、意外と出来るよ。去年なんて、タイトスカートを着せられた上にハイヒールまで履かせられたんだから」

 そう言いながら、アギラは残忍の頭越しに手元を覗き込んできた。残忍は去年の超次元夏祭りを思い出し、変な笑いを漏らした。

「ああ、あれッスか」

 アギラが着せられたOLルックはファンのアンケートに基づいて決められた衣装で、マスクの下にロングヘアのウィッグを付け、スーツとブラウスの下にはブラジャーまで付けるという念の入れようだった。対戦相手の大上もやはりOLルックで、試合開始直後はどちらも慣れないハイヒールでよたよたしていて、それが大受けしていた。若手ではなくトップレスラーに女装させて馬鹿試合をさせるのだから、この団体はどうかしている。

「タイトスカートはなぁ、蹴りが出せないんだよ。こう、足が上がらないだろ? だから、すぐに破りたかったんだけど、ぎりぎりまで破くなって社長から指示されていたもんだから、アギラさんと手4つで長いこと踏ん張ったんだよ。ロープワークをしようにも、ろくに走れないもんだから、ラリアットを出しても勢いがまるでなくて。いやあ、きつかった! つま先が割れるかと思った!」

 スパーリングを終えたばかりの大上もやってきて、去年の思い出を語り始めた。どちらも困り気味ではあったが、決して嫌そうではなかった。どんなことであろうと客に楽しんでもらえれば勝ち、それがプロレスだからだ。そして、二人はそれをよく解っている。残忍は頭では解っているのだが、気持ちが追い付いていない。それだけのことである。

「シノブちゃんはいつもロングタイツにニーパッドにブーツだけど、それを着るとなるとショートタイツにシューズにしないとだね」

 アギラが意見してきたので、残忍はマスクの下で渋面を作る。ああもうやりづらい、いちいち構ってくるな。

「あー……そうッスね。ショートのはデビュー戦のやつがあるんで、なんとかなるッスね。はい」

「大上さん達のOLマッチの時は普通に両肩付けて3カウントで勝ちだったけど、ガーター&ストッキングマッチとなるとルールが変わるだろうな。その辺は社長が考えるんだろうけど」

 対戦相手となる野々村もやってきて、今し方渡された衣装を眺めていた。リングの中でも外でも、滅多なことでは表情を変えない男なのだが、今回に限っては苦々しげな顔をしていた。

「この場合、客が見たがるのは俺の足だろうな。となるとドロップキックは見せ場に持ってきて、それ以外はどうするかな……」

 と、至極真面目に考え込みながら、野々村は道場を後にした。

「ノノは相変わらずだね」

 アギラが感心すると、ファルコが話に割り込んできた。

「夏祭りは、あいつの彼女が見に来るからだろうよ」

「え? ノノって彼女いたんですか?」

 大上が意外そうにすると、ファルコは訝しんだ。

「お前らみてぇな若手の二枚目とあっちゃ、ファンなんか食い放題だろうがよぉ。何をそんな、高校生みたいなことを」

「いや、俺もノノもそれだけはしないようにしているんで。俺も彼女はいますし。今のうちはいいかもしれませんけど、キャリアを重ねた後に半端に手ぇ出した女にちょっかい出されたら困るじゃないですか。それに、今の時代、何かやらかしたらネットで炎上しちゃいますからね」

「お前よぉ、そんなんでレスラー人生楽しいか?」

「充分楽しいですけど」

「……勿体ねぇなああああああ」

 俺がお前の立場だったら人妻引っ掛けまくって手当たり次第に喰うのによぉ、とファルコは大いに嘆いた。

「で、ノノの彼女ってどんな人です?」

 アギラがファルコに問うと、ファルコはタオルやら何やらを置いてある棚から自分のスマートフォンを取ってきて、写真を見せた。

「ほら、これよこれ。すっげぇんでさぁ」

 そこには、彫りの深い顔立ちの美女が佇んでいて、シックなワンピースの胸元は大きく膨らんでいた。骨格は日本人だが、肌の色は少し濃いのでハーフなのだろう。

「おっぱいでけえ!」

 思わず残忍が歓声を上げると、ファルコは肩に手を回してきた。

「だぁろぉ? 写真でも充分凄ぇんだが、実際に見るともう」

「ファルコさん、俺のスマホから勝手に転送したんですね? 消しますよ、良からぬことに使われると困るんで」

 野々村は背後からファルコのスマートフォンを奪うと、手早く画像を削除してからファルコの手に戻した。

「ああっ、芽以奈めいなちゃんの写真が!」

 ファルコは大袈裟に嘆いたが、野々村はただでさえ表情が乏しい顔を強張らせていたので、食い下がりはしなかった。後輩をいじるのは結構だがやりすぎるな、と武藏原から釘を刺されているからでもある。

「メイナちゃんって言うんスか、あの人」

 おっぱいでけー、と残忍が同じ言葉を繰り返すと、大上が言った。

「内藤芽以奈さん。ナイトメア内藤の娘さんなんだよ」

「あー、いましたね。そういうレスラー。中南米の日系人ッスよね。あの人、今はメヒコにいるんでしたっけ」

「そう、あのナイトメア内藤。ホラーギミックで、コウモリがモチーフの衣装が格好いいのなんの。空中殺法もイカしてた。クールなルードだよ。でも、芽以奈さんは別にレスラーじゃないから。モデルでもなんでもない、普通の人だから」

「え、勿体ない。リング映えしそうなビジュアルなのに」

「そう思っちまうよなぁ」

 などと言い合いながら、皆、道場に戻っていった。短い休憩時間を終え、トレーニングを再開した。何の話をしていたんだっけ、そうだガーターベルトとストッキングだ、にしても芽以奈ちゃんっておっぱいでけぇ、ノノが羨ましい、とどうでもいいことを頭の中で巡らせながら、腕立て伏せとスクワットに勤しんだ。

 汗を流すと、少しは気分が晴れる。



 満を持して、超次元夏祭りが開催された。

 超日本プロレスが旗揚げされて間もない頃は、市営の体育館などを借りて開催していたのだが、三〇〇名足らずの座席すら埋められなかった。だが、今や両国国技館を満席に出来るほどの一大イベントとなり、他団体のトップレスラーをゲストとして招き、マッチングした試合も評判がいい。

 今回の構成は、対戦カードが事前に発表されないダークマッチ、地下総合格闘技団体・カウェアに所属するレスラー、リベルラと武藏原厳生むさしばらいわおによるオール場外乱闘マッチ、残忍と野々村が対戦するガーター&ストッキングマッチ、ヒールユニット・悪の秘密結社のリーダーの座を巡る下剋上マッチ、超次元夏祭りにしか登場しないので本戦では全く効力のないSJPWサマーフェスティバル級王座ベルト争奪戦、トリを飾るメイン戦は社長の小倉にマッチングを直談判出来る権利書が入ったアタッシュケースを奪い合う、ノーDQ形式のなんでもありなロイヤルランブル。という次第だ。要はWWEのマネー・イン・ザ・バンクだろう、と誰しもが思うが、言ってはいけない。そういうものである。

 大上が悪の秘密結社のリーダーの座を手に入れたのも、一昨年の超次元夏祭りで下剋上マッチに勝利したからだ。それ以前は、どっしりとした体躯のベテランレスラー、牛島実うしじまみのるが長年リーダーを務めていたのだが、今はサブリーダーである。

 サイン会、握手会、そして物販と試合開始前から大盛況だが、残忍はサイン会にも握手会にも出番はないので、バックヤードでウォーミングアップに精を出していた。ちなみに、野々村はサイン会に出ていて、バックヤードに戻ってきてからはウォーミングアップもそっちのけで自分のブロマイドにひたすらサインをしている。羨ましいやら妬ましいやら。

「先輩、写メっていいですかー?」

 体を暖め終えて、件の衣装を身に付けた残忍の元に、後輩レスラーが駆け寄ってきた。鬼無里克己きなさかつみは残忍が答えるよりも早く、鬼無里は下から煽るように撮った。

「おいコラ」

「うひー、良い感じの絶対領域! これは確実に1000RTは行くんじゃないですかねぇー?」

 うへへへへへ、と変な笑いを上げながら、鬼無里はTwitterに投稿してしまった。良くも悪くも現代の若者である鬼無里は、今し方のように事ある毎にSNSやブログを更新している。ネットリテラシーには強く、評判を落とすようなことは書かないのだが、際どい写真や文章が多いのが困り者である。迂闊なことを書かれて炎上すると超日本プロレス全体のイメージに関わるので、事務所で検閲してはいるのだが、それが追い付かないほど更新ペースが早い。

 そんな調子ではあるが、いざリングに上がると天性の才能を発揮する。関節技とその切り返しが上手く、小技と大技のバランスもよく、早急を付けた展開を作り、作られるのが得意だ。だが、まだまだ経験が足りないので、残忍と同じくジョバーになりがちだ。

「俺も撮るのか」

 鬼無里にスマートフォンを向けられた野々村は、ブロマイドにサインしていた手を止め、苦々しさと気恥ずかしさがない交ぜになった顔をした。

「そりゃ撮るでしょー! ノノさんの脚線美ともなれば、女性ファンが放っておかないですからねー! 下手すりゃ五桁RTされるかもしれないですからー!」

 妙なことを力説しながら、鬼無里はガーターベルトとストッキングを装着した野々村の足を舐めるように何度も撮影した。残忍の足は一枚しか撮られなかったというのに。いや、悔しいわけではない。そうではない。ただ、なんとなくムカつくというだけで。

 この憂さを、試合で晴らしてやる。



 第二試合、ガーター&ストッキングマッチ。

 マットに沈められたのは、残忍だった。試合時間は十五分を経過しただろうか、いや、それよりも短かったかもしれない。マスクの下では鼻血が出ているのか、生温い感触が顎に伝っている。片エビ固めで3カウントの後、大歓声が沸き上がる。勝者、野々村速斗ののむらはやと

 回し蹴りから延髄切りのコンビネーション、レッグラリアット、膝蹴り、三角締め、低空ドロップキック、残忍の頭上を越えかねないほど打点の高いドロップキック、それからダイビングフットスタンプ、フィニッシャーはコークスクリュー・ヘッドシザース。

 有言実行にも程がある。最初から最後まで足技で通してしまった。もちろん、小技でエルボーやラリアットを使いはしたが、その程度だ。一八〇センチ後半の身の丈に応じた長さの足から繰り出される蹴りは的確で、一つ一つの打撃が骨身を揺さぶってきた。

 俺にあんな蹴りが出せるもんか、受けるだけで精一杯だ、鼻折れてねぇだろうな、畜生、と内心で毒突いていなければ気力が保てそうになかった。マウントを取る機会はあったはずなのに、反撃も出来たはずなのに、どうしてこういつもいつもいつもいつも。

 コーナーに立つ野々村の背は眩しく、とてつもなく遠い。



 残忍の心中とは裏腹に、超次元夏祭りは大いに盛り上がった。

 第0試合のダークマッチは一二〇キロもの巨漢が売りのヒールである団五郎だんごろうと“魔導師”との二つ名を持つランスロット・ヴァーグナーが対戦し、ランスロットが雪崩式スープレックスで勝利した。

 第一試合は武藏原厳生とリベルラのオール場外乱闘マッチであり、客席はぐちゃぐちゃにされてどちらも凶器で散々殴り合った末、武藏原がボディスラムとバックブリーカーを合わせた大技の巌流島の後に片エビ固めで勝利した。第二試合は前述の通りである。

 第三試合は悪の秘密結社の全員で行う下剋上マッチで、ロイヤルランブル形式なのでリングから追い出された時点で失格となる。残忍も参加することはしたのだが、鼻血も止まり切っていなかったこともあり、早々に外に放り出された。ブラッド・ブラッドリーが大上にツームストンパイルドライバーを仕掛けるも、大上がダブルアーム式DDTの後に片エビ固めで防衛した。

 第四試合のSJPWサマーフェスティバル王座戦は、去年の王者である赤木進あかぎすすむと同期である早河政己はやかわまさみが対戦し、互いの実力と技術を拮抗させて善戦していたのだが、武藏原率いるヒールユニット、ブレン・テンの一員となった外人レスラーのパンツァーが乱入してきた。このまま無効試合になるのかと思いきや、リベルラも乱入してパンツァーを場外に引きずり出し、試合を続行させた。赤木がブレーンバスターを叩き付けて早河を追い詰めるが、早河は飛び付き十字固めで極め、タップアウトで勝利した。

 メインイベントである第五試合は、社長の小倉がリングに権利書を入れたアタッシュケースを置き、動けるレスラーを全員リングに上げてアタッシュケースを巡って戦わせるサドンデスマッチである。反則も凶器攻撃も場外乱闘もなんでもありのノーDQなので、客席から花道から何から、至るところで取っ組み合っては技を掛け合った。残忍は顔出しをするだけですぐにやられて引っ込んでしまおうか、ともちらりと考えたが、腹の底に燻る憤りがそうはさせてくれなかった。この際だ、あいつに挑んでやる。

 リングの下から竹刀ならぬケンドースティックを調達した後、残忍は転がり出た。花道を囲むフェンスを足掛かりにしてムーンサルトプレスを決め、ブラッド・ブラッドリーからフォールを勝ち取ったアギラを見据える。アギラは残忍と目を合わせると、マスクの下で僅かに表情を動かした。笑みか、それとも侮蔑か。

「ッザケヤガッテヨオオオオオオッ!」

 己を鼓舞するため、アギラを威嚇するため、残忍はケンドースティックで手近な座席を打ち付ける。パイプ椅子は盛大に吹き飛び、観客は歓声と悲鳴を交えながら飛びのいていった。

「ん」

 リングの外はそうでもないが、試合中は極めて無口になるアギラは、残忍を無造作に手招きした。それがクールで格好いいと評判がいいのも、腹立たしさの一因だ。あがり症でどうしようもなく口下手だから、言葉の数を減らして誤魔化しているだけなのに。

「ッダアラアアアアアッ!」

 ブラッドリーが花道の横に退いた後、残忍は駆け出した。ケンドースティックを叩き付ける、わけにはいかないので二―バットを打ち込む。アギラは避けずにもろに下腹部に受けたが、ややよろめいただけで踏み止まっていた。程良い厚みの脂肪の下にある筋肉に跳ね返され、残忍は飛び退く。

 決定打には欠けるが、これまでの戦いで蓄積した疲労とダメージがあるのなら、その上に積み重ねてやればいい。そうすれば、この試合では勝てる。試合そのものには勝てなくとも、アギラには勝てる。アギラさえ倒せれば、それさえ出来れば、きっと。

 ――――きっと。

『今年の夏男はぁっ、俺だぁぜぇええええいっ!』

 と、唐突にスピーカーからファルコの声が響き渡った。声を張り過ぎているせいで音割れすら起こしていたが、それがファルコの覇気の強さを引き立てていた。アギラと残忍、そしてダウンを取られていたブラッドがリングを見上げると、コーナーに立ったファルコがアタッシュケースを高々と掲げていて、マイクを握っていた。

 権利書マッチの勝利条件は至って簡単、リングの上でアタッシュケースを手にした状態で3カウントを奪う。では誰がやられたのか、と残忍は少し背伸びをしてリングを覗き込むと、鬼無里が大の字になっていた。リングサイドで待ち構えていたスポーツ雑誌のカメラマンがファルコにフラッシュを浴びせ、鬼無里にも浴びせていた。

「あらま」

 気の抜けた言葉を漏らしたアギラは、素に戻った。

「そういう予定……でもなさそうだな」

 流暢な日本語を操り、ブラッドは起き上がった。アギラのドロップキックが命中した腹部を押さえていたが、見事に鍛え上げられた筋肉のおかげでダメージはそれほどでもなさそうだ。

「それはまあ、社長の顔を見れば解るね」

 アギラはブラッドを促し、リングに向かっていった。ボディスラムを叩き込まれて長机ごとへし折られた実況席では、小倉がげらげら笑い転げていた。予想外の展開ではあるがこれはこれで良し、ということである。となれば、当分はファルコがアタッシュケースを振り回して戦うことになるだろう。そして、あと一歩というところで夏男になり損ねた鬼無里も注目されるはずだ。あれだけ写真を撮られているのだから、記事にされないわけがない。

 俺はどうだっけ、と残忍はふと思ったが、考えないことにした。ガーター&ストッキングマッチの際に、カメラマンやファンにこれでもかと撮影されたのは野々村だ。いつものように、残忍は見切れているだけだろう。映っていたとしても、トリミングされるのがオチだ。マスクを緩めようとすると、血が乾いて顎に貼り付いていた。そればかりか、血の固まりが喉に詰まりかけ、盛大に噎せた。

 今年の夏も散々だ。



 幸い、鼻の骨は折れていなかった。

 だが、試合用のマスクには血がたっぷりと染み込んでしまった。すぐに洗い流したのだが、綺麗に洗い流せたかどうかは怪しい。念のためにレントゲン撮ってもらってこい、と社長命令が下されたので、明日の練習は休むしかないだろう。心身を苛む悔しさを紛らわすには筋トレが一番なのだが、こればかりは仕方ない。

 鼻と喉の奥には血の匂いがこびり付き、野々村の精度の高いダイビングフットスタンプがめり込んだ胸がずきずきと痛んで熱を持っている。もちろん、試合が終わってからすぐにアイシングはしたのだが、冷やす時間が足りなかったと見える。全身の筋肉に乳酸が溜まり、関節がぎしぎしと軋み、鼻が痛い。

 電車を乗り継いで自宅マンションに帰ると、どっと疲れが出た。せめてアギラを倒せていれば、いや、そんなことは考えるだけ無駄だ。次を考えろ、次の試合で勝てるように、今度こそ白星を上げられるように鍛え直さなければ、そうしなければどんどんダメになる。これ以上落ちてたまるか、這い上がってやる。

「……くそ」

 玄関に座り込んだ残忍――忍は苦々しく吐き捨てた。が、喉の粘膜が傷んでいるせいで声は不明瞭だった。今し方脱いだマスクと目を合わせるが、居たたまれなくなって握り締めた。

 リビングに入ると、テーブルには茶碗と汁椀が伏せられていた。箸置きの下にはメモ用紙が挟まれていて、例によって夕子からの手紙だった。丁寧な字で、柔らかい文章が書かれていた。

【お帰りなさい、忍さん。二階席から観戦していました。今年もとても楽しませてもらいました。第二試合で戦った忍さんは、誰よりも素敵でした。御夕飯は冷蔵庫に入っていますので、温めて食べて下さい。 夕子】

「……んだよ」

 見ていたのなら、どこにいたのか確かめたのに。忍は冷蔵庫を開けようとして、ドアに貼られた二枚目のメモ用紙に気付いた。

【忍さんのガーターベルト姿があまりにも素晴らしかったので、鬼無里さんがツイートした画像を保存してスマホの待ち受けにしてしまいました。もちろんRTして拡散しました。まだ動悸が収まりません。忍さんの絶対領域を見られただけでも、生きてきた甲斐がありました。ルチャドールの命である足の魅力はもっと知らしめられるべきです知られるべきです知られないのは勿体ないです知られないのは世界の損失です! ああもう忍さん好き好き好き! 夕子】

 これまでの手紙とは打って変わって、異様にテンションが高かった。筆圧も強くなっていて、メモ用紙が破れかけている上に文字も崩れている。なんだこいつヤバくね、と忍は引いてしまったが、空腹には勝てなかったので夕食を温め直して食べた。

 ささみチーズフライがおいしかった。

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