残酷よ、忍ぶなかれ

あるてみす

第一話 覆面レスラーと幽霊女

「社長。俺、結婚したんでその辺よろしくお願いします」

 超日本プロレスの事務所にて、覆面レスラーが頭を下げた。その相手は、超日本プロレスの社長にして元レスラーの小倉定利こくらさだとしだった。腰を痛めて五年前に引退したが、体は鍛え続けているので、ワイシャツの襟に締められた首はがっしりしている。

「ん、そうか。挙式をするのであれば、予定を聞かせてくれ」

「いえ、それはないッスね。そういうんじゃないんで」

「だが、結婚したんだろ?」

「させられたっつーか、まあ、そんな感じッスね」

「見合いでもしたのか?」

「まあ、大体そんなとこッスよ。俺はこれまで通りなんスけど、社長には報告しておくべきだと思いまして、はい」

「解った。御祝儀は」

「いえ、それもいいッス。本当に。お気持ちだけで」

 では俺は練習に戻ります、と一礼し、覆面レスラーは事務所を後にした。黒地のマスクに白地でドクロを型取り、右側面には《残》、左側面には《忍》の文字が入っている。黒いTシャツを膨れ上がらせている筋肉は脂肪が多めで、柔軟性に富んでいる。公式プロフィールには身長一七六センチと書いているが、実際には一七五.五センチである。廊下を行き交うレスラー達とすれ違うと、頭一つ小さい。それが、超日本プロレスに所属するレスラー、残忍である。

「シノブちゃん」

 道場に入ろうとしたところで、声を掛けられた。

「何スか、アギラさん」

 声の主は、同じ覆面レスラーであるアギラだった。身長はアギラの方が五センチほど高いので、見上げる格好になる。長年燻っていたが、ベテランレスラーであるファルコとラプターズという名のタッグチームを組み、タッグトーナメントで王座を勝ち取って以来、急激に売れ始めているレスラーだ。余談だが、三ヵ月前に結婚したばかりの新婚だ。

「社長と何を話したのさ」

「別に大したことじゃないッスよ」

「叱られるようなこと、あんまりするんじゃないよ?」

「肝に銘じておくッス」

「まーたそんなこと言って」

 アギラは苦笑したが、道場に戻っていった。残忍はマスクの下で舌打ちし、続いて道場に戻った。アギラが鬱陶しくてたまらないからだ。いちいち気に掛けてくるのも、嬉しくもなんともない。なよなよとした語気が、死ぬほどウザい。女々しい言動が鼻に突いて、反吐が出そうだ。あんな腑抜けた性格の男は、プロレスラーに向いていない。いっそ、他の団体に移籍してしまえばいいのに。

 そうすれば、残忍がトップに立てる日も近付くだろう。



 残忍の本名は須賀忍すがしのぶであり、今年で二十七歳になる。

 だから、先輩レスラー達からはシノブちゃんと呼ばれる。入団したばかりの頃は今よりも背が低く、一七〇センチに満たなかったからと女顔だったからだ。但し、可愛げはない。自分の顔が心底気に食わないので、常に凶相を作っていたからだ。この顔ではリングに上がっても気迫も何もないと解っていたので、自分から進言してマスクを被った。そして誕生したのが、ハードコア志向のヒールレスラー、残忍だ。

 試合の健全さと明るさが売りの超日本プロレスにおいて、残忍のようなキャラクターは浮いている。大上剣児おおがみけんじ率いるヒールユニットの悪の秘密結社は、場外乱闘と凶器攻撃こそするが大人しい部類に入る。抗争も過激な路線ではなく、レスラー同士のライバル意識を高めて切磋琢磨させるためのものであり、憎悪までは煽り立てない。

 生温い、何もかもが生温い。そう思うのならハードコア路線の団体に移籍しろ、と周囲から何度も言われた。実際、ハードコアを貫いている団体、カウェアからは声を掛けられている。それなのに、どうしても踏み切れないのは、やはりアギラの存在があるからだ。嫉妬、執着、嫌悪。なんとでも言いようがあるが、どの言葉にも上手く当て嵌まらない感情が渦巻いている。

 残忍は十九歳で超日本プロレスに入門して二十一歳でデビューしたのだが、いかんせんパッとしなかったのでメキシコの団体で武者修行した。そこでルチャの技を死に物狂いで練習し、身に付けた。体格こそアギラには負けるが、身体能力はこちらが上だと自負している。ジャンプ力も、蹴りの鋭さも、空中殺法の完成度も。だが、何をしてもアギラには追い付かない。タッグトーナメントにしても、残忍もヒールのレスラーと組んで出場したのだが、決勝戦までは勝ち進めなかった。

 もしも、タッグトーナメントで優勝していたら。そう考えない日はないが、その都度自己嫌悪に陥る。このままでは、人間としてもレスラーとしても腐り切ってしまう。だが、練習に打ち込んでいても気が晴れない。少し前までなら、ひたすら体を動かして汗を流し、筋肉を鍛えていると、身も心も洗い流せていたのに、今は逆に鬱屈としたものが溜まっていくばかりだった。

 それは、負けが込んでいるからでもある。



 ゴングが鳴り、試合が終わった。

 リングを四方から照らすライトに網膜を焼かれ、残忍はマスクの下で息を吐いた。逆水平チョップを何度も叩き込まれた喉が潰れそうに痛く、強烈なボディスラムを喰らった背中は痺れている。4の字固めで極められた膝も悲鳴を上げ、熱を持っていた。

 汗と血が散るマットに両肩が付けられる感触は、何度味わっても不愉快だ。観客の大歓声は、対戦相手である野々村速斗ののむらはやとを讃えている。ゴッドスピード、ゴッドスピード、ゴッドスピード、とのチャントが響き渡るが、当の野々村は涼しい顔で片手を上げた。クールでなキャラクターが売りだからだ。

「お疲れ」

 野々村は残忍にだけ聞こえる声量で話し掛けてから、レフェリーからマイクを受け取った。それから、小奇麗な言葉で格好いいことを言っていたが、残忍は全身の激痛で内容なんて頭に入ってこなかった。よろよろとリングから降り、リングサイドで待機している練習生からタオルをもらって控室に戻り、アイシングをした。マスクを半分だけ脱いで水を飲んだが、先程喰らったダイビングエルボーで口の中が切れていたため、血の味がした。

「…………クソが」

 誰でもない、自分がだ。ジョバーに成り下がってたまるか、と試合の度に腹に据えていくのに、いざリングに上がるといいようにされてしまう。自分の技が決まらない。コークスクリュー・トペは綺麗に出せたのに、ラ・ケブラーダも上手く決まったのに、リングに戻って押さえ込む段階に至ると、肝心要の関節技がすぐに外されてしまうから思うように相手の体力を削れない。いい線を引いた試合もいくつかあったのだが、結局は負けた。今期の勝率は最悪だ。

「シノブちゃん、お疲れ」

 肩を叩いてきたのは、同じくヒールである大上剣児おおがみけんじだった。大上は二十五歳で年下なのだが、デビューは大上の方が早かったのと、悪の秘密結社のリーダーでもあるので先輩として接してくる。ややこしい。

「ども」

 大上に目礼してから、残忍は再度水を呷る。傷に染みる。

「関節技の練習、もっとやり込んだ方がいいな」

「そうッスね」

「今度、トレーナーに相談してみるといい。俺はシューティングが専門だから、サブミッションは今一つなんだよ」

「んなことないッスよ」

「次の試合は三日後か」

「俺はそうッスけど、大上さんは二日後ッスね」

「スパンが短いから、休める時はちゃんと休めよ」

「てことはあれッスか、飲みに行かないんスか」

「口の中、切れただろ? 水の飲み方を見れば解る。そんなんで酒を飲んでみろ、明日の朝は大惨事だ」

「そうッスね」

「また今度行こう」

 大上は残忍の肩をもう一度叩いてから、次の試合に出場するべく、控室を後にした。彼の入場曲が流れ出した途端、歓声が上がり、大上が登場したと思しきタイミングで歓声は爆発した。試合会場であるホール全体が震えるほど、興奮が膨れ上がっている。

 野々村との試合で残忍が浴びた歓声は、この十分の一もない。それなのに、アギラに対して感じるような嫉妬を抱かないのは、大上とは実力もルックスも格闘スタイルも懸け離れているからだろう。嫉妬を抱いたところで追い付けるはずもない、と解り切っているからだ。三日後の試合こそ勝とう、勝てる。

 そう信じていたが、やはり負けた。



 地方巡業が終わり、久し振りの休日を迎えた。

 痛む体を引き摺って帰宅し、残忍は荷物を放り投げた。首の付け根を押さえながら声を漏らし、まずは酒でも喰らおう、と冷蔵庫のドアを開けた。すると、出発前に残しておいた半端な食材やら何やらは綺麗に片付けられていて、乱雑に詰め込んでおいた缶ビールが整然と並んでいた。

「あ?」

 良く冷えた缶ビールを片手に部屋を見渡すと、リビングの隅に出来上がっていた汚れ物の山がなくなっていて、代わりに洗濯済みの衣類がきちんと畳んで積まれている。

「あぁ?」

 更に言えば、風呂場も洗われていて、部屋のそこかしこに溜まっていたゴミが捨てられていて、布団も干してあり、掃除機も掛けてあり、その上水拭きもしたらしく、床がさらりとしている。

「あー……」

 そういえば、結婚したのだった。残忍はビールを少し飲んでからソファーに腰を下ろし、リビングテーブルに置かれたメモ用紙を手にした。【留守の間に掃除しておきました。 夕子】と書かれていた。

「あぁー……」

 思い出した。これが嫁の名前だ。

「ゆうこ、っつったっけ」

 今の今まで、すっかり忘れていた。旧姓は結城ゆうき須賀夕子すがゆうこ。それが残忍の伴侶となった女性だ。親族に言われるがままに見合いをさせられ、ただの一度だけ顔を合わせ、その場で婚姻届を書いて、その日のうちに提出したのだ。いちいち手順を踏むのが煩わしかったし、断るのも面倒だったからだ。だから、結婚した。

 リビングの片隅に、段ボール箱が二つある。地方巡業に出る前にはなかったものなので、恐らくそれが夕子の嫁入り道具なのだろう。彼女が引っ越してくる日時は知っていたが、その日は九州に出向いていたので付き合えるはずもなく、勝手に入っていてくれとだけ伝えておいた。荷物を運び込めるのか、と案じたのは連絡のメールを送った時だけで、それ以降は失念していた。

 だが、案じるほどでもなかったらしい。段ボール箱には送り状が貼り付けられていたので、宅配便を使ったらしい。当の本人はどこにいるのだろう、と残忍は部屋を見回してみたが、手狭な3LDKの中にはそれらしい姿はない。キッチン、リビング、寝室、バスルーム、トイレ、と一通り探してみたが、いなかった。

「訳解んね」

 二本目のビールを開け、作り置きされていた小アジの南蛮漬けを酒のあてにしようと皿を手に取ると、その下にはまたメモ用紙が置かれていた。

【忍さんはお酒がお好きなようですので、合いそうなものを作っておきました。 夕子】

「んまい」

 箸を付けてみると、これがまた絶妙な味だった。甘酢が疲れた体に染み入り、唐辛子が食欲をそそる。酒も進む。三本目のビールを開けると良い感じに酔いが回り、残忍はろくに片付けもせずによろよろと寝床に入った。

 ベッドのシーツも洗濯済みだった。



 お見合い、というほどしっかりしたものではなかった。

 東北地方の巡業中で立ち寄った街で、いきなり現れた親族に引き摺られてホテルに連れていかれ、そこで夕子に引き合わされた。といっても、夕子の顔を直接見たわけではなく、結婚してやってくれ、と言われただけだ。残忍はすぐに試合会場に戻りたかったので、まあ別にいいッスよ、と二つ返事で答えてとんぼ返りし、超日本プロレスのレスラー達と合流して移動のバスに乗り込んだ。

 だから、残忍と夕子は顔を合わせてすらいない。合い鍵や名義変更に関する書類のやりとりでさえ、郵送で済ませた。その際にメールアドレスと電話番号を書いた紙も同封しておいたのだが、メールも電話もただの一度も来なかった。実体のない幽霊も同然である。だが、その方が面倒臭くねぇな、と残忍は思った。

 ややこしいのは、自分の胸中だけで充分だ。



 目を覚ますと、朝食が出来上がっていた。

 放り投げたまま放置していた荷物も解かれ、汚れ物は洗濯済みで、朝日が差し込むベランダではためいている。マスクを外さずに寝て起きた残忍は、酒で乾いた喉に水を流し込んでから、炊きたての白飯と豆腐の味噌汁が盛られた椀の前に座った。マスクをずり上げて口を出し、味噌汁を啜ると、酔い覚ましには丁度いい味だった。

「ん」

 サケの塩焼きを齧っていると、テーブルの隅のメモ用紙があった。

【おはようございます、忍さん。学校に行ってきます。 夕子】

「ん、んんんんん?」

 学校。

「あいつ、いくつなんだよ……?」

 そういえば、そんなことさえも知らなかった。

「んー……」

 サケの塩焼きとインゲンのゴマ和えで白飯と味噌汁を平らげてから、残忍は二つしかない段ボール箱を開けた。その中には、数枚の衣類と共に高校の教科書が入っていた。

「JKかよっ!」

 それを知っていたら、もっと早く帰ってきたのに。

「だああああっ、畜生!」

 つまり、女子高生が部屋を掃除して、女子高生が手料理を拵えてくれて、女子高生が洗濯もしてくれて、女子高生が朝食も支度してくれて、女子高生が女子高生が女子高生が。

「ホンモノっていくらするんだっけ。いや、そもそもホンモノはいねぇか……デリには。ありゃただのコスプレだ」

 二杯目の味噌汁を白飯に掛けて掻き込みながら、残忍は独り言を漏らした。地方巡業明けは溜まりに溜まっているので、いつもは帰って来るや否や馴染みのデリヘルに電話を掛けてお気に入りの嬢を呼び出すのだが、昨日は夕子のせいで調子が狂ってしまった。

「まあ……JKっつっても、当たりとは限らねぇしなぁ」

 女子高生だからと言って、皆が皆、清楚な美少女だとは限らない。期待しない方が身のためだ、と思い直してから、残忍は食べるだけ食べた。今日はオフだが、道場に行って体を解してこよう。

 デリヘルに注文するのは、その後だ。



【忍さんの御用事が済むまでは御暇おいとまします。 夕子】

 おいとま、にはルビが振ってあった。それぐらい読めるんだよ、と内心で毒突いてから、残忍は気怠い体を横たえた。枕元にいつメモ用紙が置かれたのだろう、と考えてみた。

 道場で軽くトレーニングしてから帰宅して、デリヘルを呼んで、ロリっぽい外見とは裏腹にテクニシャンというギャップが絶妙な嬢、葉月を呼び出した。九〇分コースで。時間を掛けてフェラチオしてもらい、それから素股で抜いてもらった。葉月が身綺麗にして部屋を後にしたのは今から十五分ほど前で、残忍がマスク一丁の全裸で寝入ったのはほんの五分程度で、寝入る前は枕元にはメモ用紙は置かれていなかった。つまり、これは。

「……俺、見張られてる?」

 どこからどこまで見られたんだろう。葉月とナニをするところまで見られていたのか、と思うと、なんだか妙な気持ちになる。事に熱中している時に、足音を殺して外に出ていったのだろうか。だとしたら、メモ用紙を置きに戻ってきたというのだろうか。何食わぬ顔で葉月と擦れ違っていったのだろうか。

「解んねぇ」

 ユーレイ女め、と呟いてから、汗やら何やらで汚れた体を洗い流すべくバスルームに向かった。きちんと折り畳まれて用意されている着替えとタオルを一瞥し、マスクを脱いでシャワーを浴びていると、小さな物音がした。すかさずドアを開けるが、既に人影はなく、今し方脱いだ服が洗濯機に放り込まれていた。

 もしかして、俺は幽霊と結婚したんだろうか。そんな不安に駆られながらも、残忍は首尾よく用意されていた昼食を喰らった。

 海鮮あんかけチャーハンだった。

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