悲しみの忘れ方

第7話 悲しみの忘れ方1

 最近の夕焼けは柔らかいパステルピンクだったような気がするけれど、どんどんときついオレンジ色に変わっていったような気がする。オレンジ色が強くなれば強くなるほど、秋が近付いてくるような気配がある。

 ゆゆは玄関を箒で掃除しながら、ふうと溜め息をついた。

 バスが走って行くのが見える。坂をゆったりと下って行くのを眺めつつ、海が見えて山が見えると言う絶妙なコントラストに目を細める。空の色がどんどんと変わっていくのは、ここにいるとよく分かる光景であった。

 と、ブロロロロロと、あまり聞き慣れないバイクの音が聞こえて、思わずゆゆは目を細めた。

 この辺りの大学に通う学生は裕福な家の子供が多く、ベンツを乗り回していたり、やたらと音の大きい(バイクが好きな人間曰く「いい鳴き声で鳴く」と言うらしい)大型バイクのエンジン音はよく聞くが、小さなバイクの音はこの辺りだとあまり馴染みがない。せいぜい郵便配達の人々のバイクがそんな音ではあるが、この辺りだとバイクでの配達よりも郵便ワゴンでの配達の方が多く、郵便バイク自体を滅多に見なかった。

 ゆゆの店の前できっちりと泊まったのに、少しだけゆゆは目を細める。

 最近はこの店に物見遊山で人が来るので困っていた。ゆゆが店の中に入っている時であれば、結界に阻まれてそんな気分ではなくなってしまうので、ただの物見遊山は飽きて帰ってしまうが、外にいる時は店の結界が作動してくれない。

 困ったなあと、ゆゆは思う。

 魔法使いにとっての最大の敵はインターネットだと思う。

 そんな事を箒を持ちつつ警戒してバイクの人を見ていたら、バイクの人がぱっとヘルメットを外してそれを持って振り返った。その姿に、ゆゆは心底ほっとした。

 この人は多分本当に店に依頼に来た人だと。

 くしゅくしゅの癖毛に、大きなべっこう色のメガネには分厚いレンズがはめ込まれている。バイクで走っているせいだろう。夏でも皮ジャンで、分厚めのジーンズを履いている。足を固めているのは登山にでも履けそうな分厚い物である。年恰好からしてみれば、大学生かフリーター、だろうか。こちらに気付いたらしく、メガネ越しではあるが存外大き目の黒目勝ちな目を少しだけ丸くしてみせた。


「……ええっと、この店の子?」

「いらっしゃいませ。お話でしたら店内でお伺いしますが」

「ええっと、まあ……はい、お願いします」


 口調はどこかおぼつかなくって危なっかしい印象。身長はぱっと見た所170cmあるかないかだから、成人男性にしては平均よりちょっと下、位なんだろうかと思う。

 ゆゆは少しだけ小首を傾げつつ、箒を持ったまま男性を手招きして店まで連れていく事にした。

 カランとドアのベルを鳴らせると、男性は店内を見回して途端に挙動不審になったような気がした。ヘルメットを盾のように抱きしめて、カタカタと震えている。大丈夫かしら、本当に。ゆゆは男性をちらりと見た後、あまり堅苦しくないようにと冷蔵庫から麦茶を入れたピッチャーを取り出すと、ガラスのコップに注ぎ入れた。


「すみません、そちらにおかけ下さい。よろしかったら麦茶をどうぞ」

「ああ…………ありがとう、ございます……」

「一応伺いますが、こちらには一体どのような用件で?」

「……ネットで、知りました」


 本当に。最近はそう言う人が多い。ゆゆはほんの少しだけ頬をぷっくり膨らませた後、黙って続きを待つ。

 男性はまるで自分を落ち着けるかのようにゆゆの差し出した麦茶で唇を湿らせると、ゆっくりと吐き出すように言葉を出した。


「何でも……忘れられるって本当ですか?」

「はい、理論上では。ただクーリングオフはできません。一度失った記憶は、どのような手段を使っても元通りに戻す事はできません。

 それでもよろしかったら、私は忘却魔法を使います」


 そう言うと、男性はメガネ越しに目をきらきらと初めて輝かせた。その表情はどこかあどけなく、年不相応に若く見えた。


「……それって、例えばの話ですけれど」

「はい」

「中学時代の頃三年間全部、まるっと忘れる事もできますか? 流石に授業内容全部忘れる……と言うのは困るんですけど。ほら、大学生で中学数学全くできないと言うのも格好悪いですし……」

「具体的にどれを、忘れたいかによりますね。

 記憶と言う物は木の枝葉です。あなた自身を木として、記憶はそこから伸びている梢です。梢を一本切った所で記憶を全て抹消する事はありませんが、そこから絡んでくる枝葉もまたばっさりと落ちてしまうので、それの辻褄を合わせるように新しい枝葉が生えて来ます。

 分かりやすく言えば、テストで満点を取ったと言う記憶があったとします。担任の顔を忘れたとしてもクラスメイトの記憶を忘れたとしても、テストで満点取った因果にそれらの記憶は必要ないため、クラスメイトの事全員忘れていたとしても満点を取ったと言う記憶が消える事はありません」


 ゆゆがそう丁寧に説明すると、男性は少しだけ視線を膝に落とした。背中は随分と丸く、こんなに見事な猫背は初めて見た、とゆゆは場違いな感想を頭に浮かべて、それを鎮めた。

 男性はまた気持ちを落ち着けるかのように麦茶で喉を湿らせた後、かすれ気味の声でもう一度言った。


「じゃあ……多分大丈夫、だと思います。俺は中学時代の事を忘れたら、もっとちゃんとした人間になれると、そう思えるから」

「……お話を聞いてもいいですか? 私の魔法だとクーリングオフは決してできませんから。一度消えた記憶が元に戻る事は決してありません」

「大丈夫だと思いますよ。俺の事は皆が忘れてるでしょうから」


 男性が随分と自嘲気味に笑うのに、自然とゆゆは胸を痛ませた。

 自分の店に依頼に来る人の半分以上は、恋に関する悩みで、もう半分はトラウマを消すためにトラウマの根幹を忘れようとするのだから。この男性もそれ、なんだろうかと思うと自然とゆゆの気も沈んだ。

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