モップとエンドレスワルツ

 大田武彦は今年で28才になる。

 ぽちゃぽちゃと太った、おおよそ快活とか活発とかそういった言葉とは結びつかない類いの、つまらぬ、くだらぬ、とるに足らぬ男である。


 彼はセブンイレブンのバイトで生計を立てている。

 杉島の安アパートの家賃は月3万。

 光熱費や食費など、もろもろを含めた月の出費は大体8万いくかいかないか程度だ。

 武彦は8万程度の稼ぎが出る程度にバイトをする。

 当然、稼いだ分はその月の内にぴったり使ってしまうのだから金など溜まる訳もない。

 彼の貯金通帳には樋口一葉が1枚、あるかないかだ。


 「お前ももう28なんだからさ。そろそろ身の振り方考えた方がいいぞ」

 客の途切れた深夜3時。

 店の床にモップをかけている武彦に店長は言った。

 「社員になるならなる。ならないならならないで次のステップにいかないと、ダメになるぞ」

 武彦は曖昧な愛想笑いを浮かべて「はぁ」と答えた。

 その煮え切らない返事に店長は武彦に聞こえるように舌打ちして、ヤングアニマルを再び読み始めた。


 暫くの間、武彦は無言でもう磨く意味もない床を磨き続け、店長は時折くすくすと笑いながらヤングアニマルを読んだ。二人の間に会話はなかった。


 日が昇り始めた頃、最近入ったばかりの高校生のバイトがやってきた。

 「おはようございまーす」

 体育会系のはきはきした声で挨拶をし、その高校生はセブンイレブンに入って来る。

 そして武彦の方には見向きもせずに店長の方へ進む。

 「てんちょー、昨日のサッカーみた? サッカー!」

 まだバイトに入って二週間かそこらだというのに、このバイトは三年もここで働いている武彦よりも店長と親しい。こんな馴れ馴れしい口調で話しかけても店長は嫌な顔すらしない。

「あぁ! あれ凄いな! なんであの角度からシュートできるんだろうな!」

「こう、でしょ! こう! こう背中をこう捻って」

 高校生は恐らく昨日の試合での選手を真似しているのだろう、上半身を奇妙に捻ったポーズで足をじたばたと動かしている。


 武彦にはスポーツ観戦の楽しさがよくわからない。

 サッカーも野球も格闘技も観ない。観てもよくわからない。楽しみ方がわからない。

 スポーツの話題で盛り上がる人の感情が、武彦には本当に謎だった。


 武彦はモップをロッカーに戻し、服を着替えて、まだ物まねをしてはしゃいでいる二人に小さく「お先あがります」と言ってからセブンイレブンを後にした。


 武彦はサミットに寄って豆腐とホタルイカを買ってアパートに戻った。

 テレビとビデオデッキと布団とちゃぶ台とマガジンラックしかない部屋だ。


 武彦は昨日録画しておいた「笑いの金メダル」を観ながら豆腐とホタルイカを食べた。

 南海キャンディーズがブラウン管の中で戯けている。しずちゃんが魔性の女を気取っているという話題で武彦は思わず吹き出した。

 そしてひとしきり笑い終わった所で、武彦は急に寂しくなった。


 こんなに面白いのに、一緒に笑ってくれる人が誰もいないからだ。


 武彦はテレビを消して、そのまま畳に寝転がった。

 染みだらけの天井を見つめながら、彼はそっと、自分の心の蓋を開けて覗いてみる。


 コンビニのバイトをいつまでも続けられるのだろうか?

 店長は俺をクビにしたがってる。

 正社員採用テストは、また落ちたんだ。

 高校をやめなきゃよかったのかな。

 お金貯めなきゃいけないのに。

 仕事したくない。

 どうしたら人と仲良くなれるんだろう。

 一生童貞だったらどうしよう。

 30才になっても俺はこうしてここで1人なのか。

 寂しい。寂しい。寂しい。

 このまま年をとるのかな。

 何かしなくちゃいけないのに。

 変わりたい。

 変わらないと。

 ダメになるんだ。


 「ダメになるんだよ」

 武彦は自分が店長に言われた言葉を声に出して呟いてみた。

 声にした途端、その言葉はずしんと重く胸にのしかかってきた。

 ほろほろと武彦は涙を流した。

 ダメだ、最近涙もろくなってる。

 武彦はシャツの袖でがしがしと乱暴に涙を拭いてから立ち上がった。


 武彦は携帯に登録されている友人達に片っ端からメールを入れた。

 『一緒に映画でも観に行かない?』

 

 武彦はそのまま1時間携帯を握りしめて返信を待った。

 返信はなかった。誰からもなかった。


 たまたま、皆忙しいのが重なったんだろう。

 武彦は「もしかして俺は嫌われているのかな?」という疑いを無理矢理押さえ込んだ。


 結局、彼は1人で映画を観た。

 「海猿」だ。全然面白くなかった。当たり前だ。彼はこのドラマを全く観ていないのだ。


 手を繋いで歩くカップルや女子高生の集団が「伊藤英明がかっこよくってぇ」とかなんとか喋りながら劇場から出て行く中、武彦は浮かない気分でロビーに座り込んでいた。


 「……終わっちゃうのかな」

 ぽつりと彼は呟いた。

 武彦の隣に座っていた営業サボりと見えるサラリーマンが僅かに顔を動かして彼を観た。

 「始まってもいないだろうが」

 サラリーマンはガムでも吐き捨てるようにそう言うと、手に持っていたポップコーンを武彦に突き出した。食べろ、というジェスチャーをつけて武彦を睨む。

 武彦は小さく頭を下げてからキャラメル味のポップコーンを摘んだ。

 「色々あるよな」

 サラリーマンはじっとロビーの壁に貼られた「シリアナ」のポスターを睨みながら言った。

 「はぁ」

 武彦は初対面の人間とこうしてポップコーンを食べながら喋るのは、なんだか変な感じだなぁと思いながら、やはり曖昧に笑いながら答えた。

「普通に生きれたらなぁ、いいよなぁ」

「はぁ」

がしがしとサラリーマンは頭を両手で掻き始めた。

「いいよなぁ、ちくしょう。あいつら、強くなくても生きていけんだよ。なぁ、そうだろ」

「はぁ」

サラリーマンはだんだんと床を蹴り始める。目は血走り、頬は紅潮していた。最初は落ち着いていた口調が徐々にエキサイトしてゆく。

「けど俺はダメなんだよ。このままじゃダメになるんだ。強くならなきゃいけないんだ。俺みたいな奴は強くならないとまともに生きていけないんだ。わかるだろ?」

「……はぁ」

「まともにならなくちゃ。強くなって、みんなの中にはいらなきゃ。俺はダメになっちゃうんだ」

 サラリーマンはばしっと何かを決心したように両膝を叩き、立ち上がった。

「あの、これ……」

武彦はまだ半分以上も残っているポップコーンをサラリーマンに差し出した。

「やるよ。お兄さんも頑張れよ」

 サラリーマンはそのまま振り向きもせずに劇場から出て行った。


 武彦はその後、ポップコーンをゆっくりと食べ終えてから劇場を出た。

 見ず知らずの、なんだか変なサラリーマンだったけれど、武彦は自分の同類と短い間でも交流できたような気持ちになっていた。

 俺だけじゃない。俺以外にも俺みたいな奴がいるんだ。

 そう思うと僅かに武彦の心は軽くなった。

 現状をどうにか出来る方法が見つかったわけでもないのに、全てが上手く行くような、奇妙な自信が満ちてきた。


 明日からは、俺も元気よく挨拶して、サッカーの試合も観よう。

 なるべく人と打ち解けられるように頑張ろう。


 家に帰った武彦は、滝川クリステルが出ているニュース番組で、映画館であったあのサラリーマンが同僚の会社員達にチェーンソーで襲いかかったという報道を観た。

 『下川容疑者は警察の事情聴取で「同僚達との間に距離を感じていた。その壁を壊すために仕方がなかった」と供述しており、人間関係のトラブルがこのような悲劇を……』

 なおも喋り続けるクリステルを見つめたまま、武彦は少し泣いた。

 

 多分明日、武彦はまた無言でモップをかけるだろう。

 明後日も、明々後日も、その次の日も、その次の日も、その次の日も、その次の日も、その次の日も、その次の日も、その次の日も、その次の日も、その次の 日も、その次の日も、その次の日も、その次の日も、その次の日も、その次の日も、その次の日も、その次の日も、その次の日も、その次の日も、その次の日 も、その次の日も、その次の日も、その次の日も、その次の日も、その次の日も、その次の日も、その次の日も、その次の日も、その次の日も、その次の日も、 その次の日も、その次の日も、その次の日も、その次の日も、その次の日も、その次の日も、その次の日も、その次の日も、その次の日も、その次の日も、その 次の日も。


 武彦は無言でモップをかけ続けるのだ。

 

 ずっと、ずっと、永遠に1人で。


※自tumblerに掲載している同名タイトルの調整作です。

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