春男・スプリング
あーあ。やっちまった。
春男は低く呻きながら瞼を擦る。睫毛を固めていた目脂が痛みという程でもない痛みと共に剥がれ落ちていった。
辺りは暗く、目を開けているのかいないのかすら油断するとわからなくなる。
乾いた木と、防虫剤と、布の混じった匂いが寝ぼけた春男の頭に、ここが実家の押入れだということを思い出させる。
今日は両親の銀婚式なので兄妹そろって帰省したのだ。
春男は2泊3日の温泉旅行を両親にプレゼントしたのだが−−それも2人が新婚旅行で行ったのと同じ旅館の同じ部屋だ。気がきいたプレゼントだと春男は思っていた−−両親が喜んでくれたのは妹のプレゼントが明かされるまでの短い間だった。
「実は橘さんにプロポーズされたの」
そういって妹は「手が荒れちゃってて」と言い張ってずっと付けていた手袋を外し、婚約指輪を両親に見せた。
「娘の結婚報告が親への一番のプレゼントでしょ」ということだ。
たちまち話題は妹の指輪のデザインがどうとか、式の日取りや、橘さんとの会食をいつにするかというものに変わってしまい、春男のプレゼントは新聞に挟まっている安売りチラシ程度にまで落ちてしまった。
春男がトイレに行ってくるよと席を立った時も3人は何も言わなかった。
春男がむしゃくしゃした思いを抱えたままトイレに向かって廊下を歩いていると−−単に居間にいたくなかっただけで本当にトイレに行きたかったわけではないが−−誰かが2階から降りてきた。
誰だろう?
「また父さんと母さんの姉ちゃん贔屓が始まったんだろ」
春男の心が聞こえたかのように階段から降りてきた男が言った。
「嫌んなるよね。姉ちゃんはいつだって自分が主役じゃないと嫌なんだよ。兄ちゃんよく我慢してるよ」
春男は相手が弟だと知った。
「ありゃ当分かかるよ。兄ちゃん、久しぶりに戻ったんだから、家の中見て回らない? 案外綺麗にしてんだぜ、兄ちゃんの部屋も」
居間から妹と両親の笑い声が聞こえた。家族が1人欠けていることなど感じさせない彼らの声に押され、春男は弟に続いて階段を上っていった。
春男の部屋、妹の部屋、両親の部屋、物置に書斎を巡りながら弟はベラベラと喋り続けた。
「姉ちゃんは要領がいいっていうか、ズルいじゃん。昔からさ。父さんも母さんも昔から姉ちゃんばっかり依怙贔屓してさ。覚えてる? 兄ちゃんが誕生日プレゼントに買って貰ったぷよぷよ通! 姉ちゃんがどうしても遊びたいっていうから2コン貸してさ、対戦モードにしたじゃん? 姉ちゃん、自分が負けそうになったからってスーファミからソフト引っこ抜いてさ。スーファミもソフトも壊れちゃっただろ? でも怒られたのは兄ちゃんだったよな? 妹を勝たせないお前が悪いって。そんなんばっかりだったじゃん。兄ちゃんは高校入ったら「小遣いなし! バイトして稼げ! 稼いだ金は家計に入れろ!」で、姉ちゃんには「女の子がバイトなんて危ないから」ってお小遣い倍だよ? しかもそのお金、兄ちゃんのバイト代から出してたんだ。信じらんねーよ。高原先生も兄ちゃんに言ってただろ? 兄ちゃんがそうなったのは幼少期の家庭環境のせいだって」
春男は弟に高原先生との会話まで話したか不思議に思ったが、弟が春男の顔を見て「ほら、この間、電話した時にそう言ってたろ?」と言うと、確かに電話で話した記憶があると思った。
「それ」が起きたのは今から2年前の春だった。2000年代に入ってから一番強烈な春一番と気圧の変化が、春男の心から何かを剥がしとっていった。
幼少期からずっと心に張り付いていた瘡蓋のようなものを。
その時、春男はコンビニでお弁当が温め終わるのを待っていた。
なんの前触れもなく強烈な悲しみに襲われ、春男は心臓が張り裂けそうになった。頭蓋骨の中で脳みそがぐるりと逆さまになり、血液がゼリーのように固まって血管を詰まらせようとしていた。少なくとも、春男はそう感じた。
このままでは死んでしまう。
春男はそう直感した。
死んでしまう。
死んでしまう。このままではここで死んでしまう。
彼はコンビニの店員の前で泣きわめいた。
店員が「お客様、大丈夫ですか?」と慌てふためいているまでで記憶が途絶え、気がつけば病院で点滴を受けていた。
救急車が来るまで泣き続け床に蹲っていたと後から聞いたが、春男にはその間の記憶が何もなかった。
会社は彼を休職扱いにする条件として、高原先生という会社と契約しているカウンセラーと週2回の面談を行うようにと言った。
高原先生はとても良い先生で、春男の話を親身に聞いてくれた。
順調だった。だが、家族面談の段階で風向きが変わった。
「お前がおかしくなったのは会社のせいだろう。ブラック企業ってやつじゃないのか」
「橘さんが言ってたんだけどね。社員に訴えられるのを防ぐために、会社が雇ったカウンセラーに社員を検査させて、ぜーんぶ幼少期のトラウマってことにしちゃうケースがあるんだって」
「あんたは本当に昔から手がかかる子だったけど、お父さんもお母さんもできることは全部してきたよ。それを今更、家庭環境に問題があるみたいなことを言い出すなんて。あんたは昔から神経質過ぎるのよ」
結局、家族は誰も面談に参加せず、会社は「ご家族が協力してくれないと、問題解決する意思がないと判断するしかないですよ」と言い、間も無くして、そう判断した。
正社員からパートになったのは上司や同僚の力添えがあったからだが、働ける時間も手取りも減った。
実家への仕送りが出来なくなると電話で伝えた時、母から返ってきたのは「まるで私たちがあんたのお金に期待してるみたいな言い方ね。そんなにお父さんとお母さんを悪者にしたいの。本当、男の子なのになんでこんなに弱虫に育ったのかしら」というため息交じりの声だった。
鬱々とした気持ちが春男の背中を老人のように曲げさせる。
2階の部屋を見終わり、そろそろ下に戻ろうかと思った頃、弟が「小さい頃、2人でよくかくれんぼしたろ? 久しぶりにやってみない?」と提案した。
春男は「そういう歳でもないだろう」と断ったが弟は譲らなかった。
「小さい頃は兄ちゃんが鬼ばっかりやってただろ。俺、1度も鬼やったことないんだよ。やろーよ。1回でいいからさ」
あまりに必死に強請るので春男は「1回だけたぞ」と言って弟の要望を聞き入れることにした。
弟は1階に降りて100数えてくると言い、パタパタと階段を降りていった。
そして春男は自分の部屋の押し入れに隠れることに決めたのだ。
使われていない冬物の布団の上に寝転がり、暗闇の中で弟の数を数える声を聞いているうちにうとうときて、そのまま寝入ってしまった、というのがことの流れだ。
どうもかなり長い間寝入っていたようだ。 春男はポケットからスマホを取り出して時間を確認しようとしたが、どうやら電源を入れたまま寝入ってしまったらしく、手探りに起動ボタンを押してもなんの反応もなかった。
春男は弟に対して「押し入れなんか、かくれんぼで1番に探す場所だろうに。さっさと見つけて、起こしてくれてもいいじゃないか」と苛立ちを覚えた。
体をごろりと転がし、押し入れの襖に向かって手を伸ばす。押し入れの中は墨壺の中のように暗かったが、襖の位置くらいはわかっている。
しかし、春男の手は空気を掴んだだけだった。
何もない。
春男は中板に頭をぶつけないように四つん這いになって、先ほど手を伸ばした方向に少し進み、もう1度手を伸ばした。
だがやはり、手は空気をかき混ぜただけだった。
更にもう少し、今度は頭を襖にぶつけても構わないと思いながら春男は襖があるはずの方向へ進んだ。
だが、襖にも、壁にも触れない。 ゆっくりと波が立ち上がるように、春男の体に鳥肌が立った。
「おい!」
春男は弟の名前を呼ぼうとし、はたと気がつく。
春男には弟などいない。
あの男が春男の目をみて「兄ちゃん」と言った瞬間に、あの男は春男の「弟」になった。
もうどんな顔をしていたのかすら思い出せない。
あれは誰だ。
春男はそう思ったが、それは正しくはない。
あれは何だ。
こちらが正しい。
「おい! おーい! 誰か!」
春男は立ち上がろうとして、殴りつけられた。 頭を押さえて布団に沈む。
痛みが引いてからようやく、誰かに殴られたのではなく、中板に頭をぶつけたのだと春男は気がついた。
春男は上に向かって手を伸ばす。腕が伸びきらない内に硬い何かに手が触れる。指先で注意深くその表面を撫でる。何も見えないがそれは間違いなく木製の中板だった。
ここはやはり押し入れで間違いないのだ。体の下にある布団もそれを示している。
だが、なぜこうも広い?
春男は再び四つん這いになると、何度か荒く息を吐いてから、全力で前に進み始めた。 掌と膝が布団に沈む。
頭が何かにぶつかるまで止まる気はなかった。
やがて春男は泣き始める。
進んでも、進んでも、進んでも、何もない。
同じ場所で足踏みならぬ、膝踏みをしているだけではないかという気がしてきたので、片方の手を上に伸ばし、中板に触れた。指先をくすぐる木目の感触が確かに前進していると春男に知らせてくれる。
春男は悲鳴をあげながら進む。
「嘘だ、嘘だ、こんなことあるわけない、嘘だ」
全身汗まみれで、服が肌に張り付いている。
「助けてくれ! 助けて! ここから出してくれ! 誰か!」
狭い室内で大声をあげたように、声はくぐもる。 その感じからして、ここは普通の押し入れと同じ程度のスペースのはずだ。
だが、春男は襖にも、壁にもたどり着くことができない。
春男は泣く。
どちらかしかない。
春男の心の瘡蓋がまたしても剥がれ、バランスを失ってしまったのか。それとも、終わりのない押し入れに閉じ込められてしまったかだ。
その時、すぐ後ろから声がした。襖の向こう側から話しているような声だった。
「フルスイング?」
誰のものでもない声が聞いた。
春男は声がした方向に体を向け、手を伸ばした。 声の感じからして、すぐ側に襖があるはずなのだが、やはり手は空気をかき混ぜただけだった。
「フルスイング?」
声はまた繰り返す。男のものでも、女のものでも、子供のものでも、老人のものでもない声だ。
「フルスイングしにきたのは、だーれだ?」
誰でもいいからここから出して欲しいという気持ちが、声の主に対する恐怖を上回った。
「助けてくれ! 出られないんだ!」
突然、声が聞こえなくなった。
春男は叫ぶ。
「置いて行かないでくれ! 誰か! なあ! お願いだから!」
襖を外から掌で叩く音がした。空気が震える。
「フルスイングしにきたのは誰だ?」
声が怒鳴る。
また襖が叩かれる。
「だーれだ?」
無数の手が一斉に襖を叩く。
「だーれだ? フルスイング! だーれだ? フルスイング! だーれだ? だーれだ? だーれだ? フルスイング!」
春男は悲鳴をあげたが、襖を叩く音と外からの声にかき消されてしまう。声は1人のものではなかった。
外側に大勢の「何か」がいる。
春男は両耳を塞ぎ、体を丸めた。
騒音がピークに達した時、誰かの吐息が春男の顔にかかった。
春男の目の前に誰かがいる。
春男と同じように布団に横になり、春男の顔をみつめている。
春男には闇しか見えないが、相手の視線を感じていた。
「お前は最初からそうするつもりでここにきた」
そいつは言った。
「だーれだ?」
春男の声で。
春男が2階から戻ってきた時も、家族は特に彼に気を払わなかった。
そろって妹のiPadを見ている。橘さんの家族とのランチの場所を選んでいるようだ。
春男は居間の出入り口の側に置いておいた自分の旅行用トランクを開ける。
コットンシャツとトランクスの上にガーバーの斧がある。
春男は斧のグリップを握る。
ずっしりしているが、持ちやすい。
本当に最初からこうするつもりでここにきたのか、それともこの思いすらも、アレを「春男」と呼んだ時に「最初からそのつもりだった」と書き足されたのか。
突然弟が現れたように突然この斧が現れたのか。
春男にはわからない。
はっきりしているのは、この斧の使い道だけだ。
両手で硬く握り、真っ直ぐ振り下ろす。
両手で硬く握り、真っ直ぐ振り下ろす。
両手で硬く握り、真っ直ぐ振り下ろす。
何かがそれを望んでいる。
春男の跳躍を。
フルスイング!
※自tumblerに掲載している同名タイトルの調整作です。
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