第15話 ①
「楽しそうだな」
弾んだ息に肩を上下させて、無表情でわたしたちを見下ろす人物に驚く。
「光くん?」
額に汗を滲ませて呼吸を整える姿に、どういうわけか彼がここまで走ってきただろうことがわかって、まだ口をつけていなかった水の入ったコップを光くんに差し出した。受け取ってごくごくと一気に飲み干す光くんの表情はまるで削ぎ落とされたみたいに色がない。いつもの柔らかな雰囲気からは想像もつかなくて別人のように思えた。
「寧羽ちゃん、隣いい?」
「へ? う、うん」
二つ並ぶ席の奥に移動して通路側を空ける。お礼と共に椅子に座った光くんはそのまま感情の持たない目を天空くんに向けた。とても迂闊に声をかけられる雰囲気じゃなくて、窺うような視線をチラチラと配る。美鈴ちゃんは新しく来店したお客さんを席へと案内していて、もうこちらを見ていなかった。
このお洒落な空間のあたたかい色をした照明の下で殺伐とした空気にカランとミルクティーの氷が溶けて音を鳴らす。沈黙が鉛のように重たくなって耐えきれず口を開いた。
「あの、ぐ、偶然だね。光くんもここのお店知ってたの?」
「いや天空からここの住所が送られてきた」
「え! それじゃあ光くんも天空くんに誘われてたんだね」
努めて明るく、呑気にそう言うと光くんは口元にうっすらと笑みを作った。やっぱり普段と様子の違う姿に言葉が続かない。助けを求めてチラッと天空くんに視線を移す。
「なんか寧羽怯えてない? 灯乃今日怖いよ」
「……」
「え、あ、おっ、怯えてないです!」
天空くんの言葉に眉を顰めた光くんに慌てて首を振る。一体全体この状況はなんなんだろう。光くんはなんで怒ってるの? 突然難解な問題を突きつけられたような気分だ。答えがわからずに悶々としていると光くんはハァ、と息を吐き出して天空くんを見据えたまま口を開いた。
「天空、これどういうこと?」
「どういうことって?」
「デートってなに?」
「デートはデートだろ」
淡々と交わされる会話に光くんの眉間にしわが寄る。けれどさっきまでの怒気は感じられなくて、どちらかというと拗ねた子供のようだ。
「なんのつもりだよ」
「友達と友達の家の店に遊びにきただけだろ」
さっきからまるで修羅場のようなやりとりに、何もやましいことはないのに居心地が悪い。
「デートって書いてあったけど」
「休日に男女が出かけてんだからデートで相違ないだろ。少なくとも俺はそう思ってるし、だから黙ってるのも悪いと思って連絡したんじゃん」
天空くんは珈琲を一口飲むと「な」とわたしに話を振ってくる。待って。今わたし状況が理解できてないうえに会話の内容に頭が追いついていないんだけど。デート? デートなの? 光くんの射抜くような視線が痛い。
「本当に天空とデートしてたの」
弱々しい声を最後に再び沈黙が訪れる。そもそもデートってなんだろう。デートの定義とは? ただ二人で出歩くことをデートと呼ぶのならこれはデートなのだろうか? 友人と遊びに行くことをデートと称することもあるし、だったらわたしは今デートをしているの? あれ? デートデート言いすぎてデートが崩壊していく。デートってなに?
思考の波に陥る。その間を肯定と受け取ったのか、光くんの表情が段々と青ざめていく。
「え、うそ、本当に?」
ハッとして違う、と否定の言葉を紡ごうとしたけどデートとは? に邪魔されて言葉に詰まる。そもそもそんなものに定義があるのだろうか? 友達と遊ぶことをデートと呼ぶ人もいれば、違うと言う人もいる。ちょっと二人でコンビニまで行くことをデートと呼ぶ人だっている。どこにも行かず家で会うこともお家デートと呼ぶのだから。デートなんて主観の問題であって絶対的にな線引きがあるようなものなの? デートデートデート…………頭がぐるぐると混乱を極めた頃、コトンとテーブルに何かをぶつけたような音がして顔を上げる。美鈴ちゃんが青い瓶を二本テーブルに置いた音だった。
「まぁ落ち着け。話は聞いてたけど、おまえの気持ちはよくわかるよ」
美鈴ちゃんの同情を孕んだ瞳が光くんに向けられる。
「だけど実際二人でここに来たし、寧羽の方はそのつもりはなかったにしても、春はデートのつもりで誘って一緒にいた。これは紛れもない事実だ」
「え待って。なんで追い討ちかけてくんの」
「追い討ちってなんだよ。気持ちはわかるって言っただろ。この気持ちを分かち合おうとしてるのに」
「分かち合ってないじゃん。全力で殴られてる気分なんだけど」
「正直ハケグチにはしてる」
「おい」
「でも安心しろ。ここに来てからずっと二人を見てたけど、こいつはケーキを交換して食べただけで恋人っぽい雰囲気を感じて盛大に照れた男だ。ここに来るまでも絶対になにもない」
ごほっ、ごほっ! と天空くんが飲んでいた珈琲を置いて咳き込む。
「そんで、これやるから外で話してこい。そろそろ寧羽の頭がパーンッする」
言いながらハイ、と渡された青緑色の瓶。夏を感じさせるその細い瓶の中にはビー玉が入っていて、飲み口に栓がされている。ラムネだ。瓶から顔を上げて美鈴ちゃんを見る。瓶を渡されたのはわたしと光くんだけ。向いで天空くんが不満そう顔をして美鈴ちゃんに訴えかけるような視線をぶつけていた。
「ほら行ってこい」
促されて光くんが無言のまま立ち上がる。それからわたしを振り返ると手を差し出してきた。戸惑いながらその手に手を重ねる。ドキドキと急に忙しなくなった心臓に苦しくなって離そうとした手はすぐに捕まえられてしまった。大きな手だと思った。わたしよりずっと大きな手。わたしを包み込むその綺麗で少しゴツゴツした手に引かれて、わたしはお店を後にした。
◇◇◇
プシュッと音を立ててラムネの栓が開けられる。窪みにビー玉が落ちてしゅわしゅわと水泡がのぼった。開けてもらったラムネをありがとうと受け取って口をつける。ピリピリとした小さな刺激と感じる甘さに懐かしい気持ちになる。ラムネなんていつぶりだろう。
駄菓子カフェから少し歩いた先に公園のような場所を見つけた。木製のベンチと自動販売機、手入れのされた樹が数本植っているシンプルな場所。丸太を真っ二つにしたようなベンチに二人並んで座る。前方はひらけていて、坂の上にあるこの場所は電線の遮りもなく空が広く見えた。
いまだに繋いだままの手にそわそわしていると光くんがラムネの栓を開けてくれて、手は離されたのにまだ繋いでいるような温かさを感じて誤魔化すみたいにラムネの瓶で冷やす。
「天空とデート、楽しかった?」
光くんのよく通る声が鼓膜を震わせる。
「楽しかった、よ」
ピクッと光くんの肩が揺れた。
「で、デートがどういうものなのか正直よくわからないけど、天空くんと一緒に遊んだ時間は楽しかった。でも、それは光くんと一緒にいるのも、美鈴ちゃんと一緒にいるのも同じように、楽しいから……その、ごめんなさい。もうデートってなんだろうって考えすぎてデートが崩壊してる。なんて答えたらいいのか、わからない」
頭がおかしくなりそう。勉強よりも確実に頭を使ってる。
こくこく、と半分やけになってラムネを飲むわたしに光くんは漸く目を柔らかく細めた。眉は困ったように下げられているけれど、それでも張り詰めていたものが解けたように雰囲気が丸くなった気がする。
「ごめん、困らせたよな。仮にデートだったとして、俺にはそれを咎める権利はないのに。——今はまだ」
手元で瓶をいじりながら視線を落とす姿に首を傾ける。今はまだ、その意味深な言葉が何を示すのか訊ねる前に彼の双眸がわたしを捕まえる。
「いつか頂戴ね」
「え?」
「俺以外とデートしちゃダメだよっていう権利」
真っ直ぐにわたしを見つめて離さない瞳から目を逸らせなくて、光くんでいっぱいになる。視界も、心も。
「ひ、かるくん?」
「ん? ああ、あと。今度は俺とデートして」
ね? とあざとく顔を傾けられてわたしは息を止めてただただ首を縦に振ることしかできなかった。
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