第13話 ①

 



 ちゅんちゅん、ちちちちち……鳥の囀りが再び木陰に座り込んだわたしたちの耳に癒しの音となって奏でられる。木陰でじっと座っているから少しばかり涼しいけど、動けばじわりと汗が滲みそうな暑さが体力を少しずつ奪っていっている気がした。


「……鞄は置いて帰るか」

「明日から夏休みだよ? 必要なもの何もないならいいけど……財布とかスマホは?」

「鞄の中だ」


 ダメじゃん、取りに行かないと! と頭を抱える光くんに苦笑する。さすがに貴重品を置いて帰るわけにはいかないし、財布やスマホなんて必需品だ。


「仕方ないな。鞄取ってこないと寧羽ちゃんと帰れないし」

「わ、」


 行ってくる、そう言って重たい溜め息を吐いて立ち上がろうとした光くんの身体がふらりと揺れた。咄嗟に支えた身体、感じる体温にギョッとする。反射的に顔を上げるとふにゃりと力の抜けた笑顔に迎えられた。


「ありがとう、びっくりしたな」

「ひ、光くん熱あるんじゃない? だ、大丈夫?」

「え、熱? 大丈夫だよ。急に立ったし、立ちくらみかな」

「……」

「えっ、寧羽ちゃん?」


 少し背伸びをして光くんの額に手を当てる。やっぱり体が熱い気がする。風邪? 熱中症? だとしたらこのまま行かせて大丈夫なのかな。普通に立っているだけでも若干ふらついているように見えるんだけど。


「ちょっと待ってて」


 樹を背もたれにするように光くんを座らせて、急いで自販機でスポーツドリンクを買って戻る。差し出せば光くんは不思議そうに首を傾けた。


「これ飲んで」

「? さっきお茶もらったよ?」

「たぶん熱中症気味だと思うから、お茶よりそっちの方がいいと思う」


 それにしてもいつからここに座っていたんだろうか。水分補給もしてなかったみたいだし……

 座っている光くんの頭頂部に手を乗せればさっきは気がつかなかったけど、太陽の熱をたくさん集めたように熱くなっていて、このまま行かせるのは不安だ。

途中でふらついて倒れたりしたらと思うと気が気じゃない。わたしはスカートのポケットからハンカチを取り出して光くんの頭に被せた。


「? なにこれ」

「日避けだよ。光くんはここで水分補給して休んでて」

「え、でも鞄取りに行かないと」

「わたしが取りに行ってくるよ。だからここで待ってて。本当は保健室に行った方がいいと思うんだけど」


 案の定、光くんはかぶりを振った。


「保健室とかすぐ見つかりそうじゃん」

「……すぐ戻ってくるから待っててね。木陰にいるんだよ」

「でも悪いし、俺行くよ?」

「ふらついてるし危ないよ。倒れたらどうするの?」

「だったら俺も一緒に行く」

「一緒だとかえって目立っちゃうよ。迷惑だったらやめるけど……」

「そうじゃないけど、悪いじゃん。わざわざ教室まで取りに行ってもらうのは」

「これくらい大した手間じゃないよ」


 それよりも階段でふらつく光くんを想像すると背筋が冷える。


「わたしは大丈夫だから、休んで待ってて。ね?」

「……それじゃあ、お願いしてもいい?」

「任せて!」


 ふ、と笑みをこぼした光くんに大人しくしててねと念押ししてわたしはその場を後にした。



          ◇◇◇



「もー疲れたぁ! 光どこーっ」

「連絡もつかないよね。誰かに捕まってたりして」

「先越されたってこと? もう絶対見つける」


「…………」


 どうしよう。意気揚々と教室に向かったはいいけど、下駄箱の近くで集まる女の子たちに反射的に隠れてしまった。壁から顔を出して覗くように様子を窺う。


「もうさ、教室かここで待ってた方が確実じゃない? 靴あるし」

「でも暑い!」

「あのさ、湖浜さんの靴もあるけど」


 …………ん?


「え、まじ? 一緒にいるかもってこと?」

「ありえる。ほんとあいつうざ」

「なんかさあ、調子に乗ってるっていうか一緒にいるの当たり前みたいな顔してるよね。しかも最近、春くんとも一緒にいない? 信じられないんだけど」

「わかる! ちょっと前までオドオドしてたくせに今じゃ普通だし! 光も天空くんもなんであんなのに構うかなぁ」


「…………」


 う、うわー。言われてるぞわたし。そんな顔してるかな? 自分の顔を両手で包む。確かに光くんに対してオドオドしなくなった自覚はある。美鈴ちゃんと光くん、それに天空くんと一緒に過ごす時間はとても楽しい。でも調子に乗ってなんかいない、はず。え待って。もしかしてわたし周りから見たらそんな風に見えてたりするのかな……ちょ、調子になんて乗ってませんよー慣れてきたとはいえ、わたしが傍にいるなんて烏滸がましいかなとはたまに思ったりもしてますし……とは言えず、壁にぴったりとくっついて気配を消す。


「湖浜さんもうざいけどさ、藤和! あいつほんとなに?」

「なんかいつも睨まれてない? うちら」

「いやいやあんたが湖浜を睨んでるからじゃん」

「だってまじで目障りなんだもーん」


「…………」


 うう、どうしよう。反対側の別の道から行く? でも教室に行くって言ってたし、このままじゃ鉢合わせるのでは? ダッシュで行ってダッシュで帰る? ていうかこれ、このまま下駄箱で待たれた場合、荷物持ってきたところで帰れない!


「詰んだ」


 ぼそっとこぼれた言葉に気持ちが落ち込んでいく。ただ鞄を取りに行くだけのことがとんでもないミッションになってしまった。


「なんかイライラしてきたわ。早く教室行こー」

「えー暑くないかなぁ?」


 ま、待って! 待って待って!


「あれ、湖浜さんじゃん」


 歩き始めようとした彼女たちに気持ちが急いて、身を隠していた死角から飛び出してしまった。声音とは裏腹に全然友好的じゃない視線が刺さる。わたしはぎゅっと拳を握って強張る顔で曖昧に笑う。

 彼女たちの顔は笑っているのに目は笑っていない。いや顔も笑ってないかもしれない。笑っているように見えるけど感じる攻撃的な雰囲気が心臓の動きを速めていく。


「湖浜さーん。ちょうど湖浜さんの話してたんだー」

「わ、わたしの?」


 ええ知ってますとも聞いてましたから。


「私たち光のこと捜してるんだけど、湖浜さん仲良いし知ってるかなって」

「もうさ結構捜したんだよー。見かけてない? 光ぅ」

「み、」


 見てない、知らないって言えば彼女たちは教室に行くんだろうな。教室に行かれたら、あまつさえそこで待っていられたら鞄を持ち出せない。だけど万が一にもここに残られたら帰ることすらできない。…………一か八か。


「み、見たよ。図書室にいた」


 教室から遠い場所。彼女たちが既に図書室に行っていたら疑われるかもしれないけど、上手くいけば鞄を取りに行ける! 強張る表情を無理矢理緩めて、努めて明るくそう言えば彼女たちは目を丸くした。な、なんだろう。何かおかしなことでも言ったかな……


「湖浜さんってもっと喋れない系かと思ってたぁ」

「藤和が傍にいないとびくびくして話せませんってイメージだよねー」

「……そ、そうなんだ」


 まあ、びくびくしてしまうのは本当だし、あながち間違いではないのだけど反応に困る。


「ていうか図書室とかもう見たよね」

「入れ違いになったのかな? ねえ、本当にいたの?」

「う、うん。いたよ」


 うーん、ただでさえ緊張感がすごいのに嘘を吐くのは難易度が高い。せめて顔を逸らさないように踏ん張っていれば、上から下まで舐めるように見ていた彼女たちは「そっか」とわかりやすい笑顔をつくった。


「図書室なら涼しいよね」

「さっきからそればっか」

「ありがとう湖浜さん、図書室行ってみるわ」

「う、ん」


 さっきとは方向を変えてすれ違うように図書室の方へ歩き出した彼女たちにほっと胸を撫で下ろす。よかった、もう早く取りに行って早く帰ろう。


「あ、そうだ湖浜さん」


 名前を呼ばれて跳ねる心臓を抑え、笑顔を貼り付けて瞬時に振り返る。さっきまでの作り笑いはどこに行ったのかと思うほどの無表情に一瞬呼吸を忘れた。


「一応訊いておくけど、光と付き合ってるとかないよね?」


 彼女のこの発言で周りの二人の眼光も鋭くなる。

 ……付き合ってる? 付き合ってるって…………だ、男女交際をしてるのかってこと? いやいやいやいや付き合ってない。お付き合いなんてしてない! けどそんな風に責めるような、圧の強い視線を向けられたら萎縮してぎこちない笑顔がさらにぎこちなくなる。


「な、ないよ」


 絞り出すように口にした答えにニコッと親しみの欠片も感じない笑顔が返された。


「だよね。でも光と仲良くしすぎじゃない? ていうか馴れ馴れしい。ほんとうざい心底気に入らない。光に構われてるからってあんまり調子に乗ってると私らも頭にきちゃうからさ」

「……」

「じゃ、教えてくれてありがとう湖浜さん」


 言いたいことは言った。そんな顔をして踵を返す彼女に他の子たちも続いていく。遠くなっていく背中に安心するけど何故だか呼吸は苦しいまま。


「…………」


 静かだなぁ。ここってこんなに静かだったっけ。


「…………」


 なんだろ、これ。なんかズキッとする。もやっと? とにかく気持ち悪い。胸の痛みと胃を混ぜられたような気持ち悪さに、その場から動けない。早く鞄を取りに行かないといけないのに、早く戻らないと光くん、本当に倒れちゃうかもしれないのに。……傷ついてる場合じゃないのに。地に足が張り付いたみたいに動かない。


「……」


 今までも何度も調子に乗ってるって言われてきたけど、調子に乗ってるつもりなんかなかった。普通に学校に来て、普通に過ごして、美鈴ちゃんたちと過ごす時間がすごく楽しくて、ただそれだけだった。わたしが何か言われるのはいいけど、わたしのせいで美鈴ちゃんまでいろいろ言われてしまうのは嫌だなぁ。

 絶対零度の視線も陰でいろいろ言われるのも、平気じゃないけど耐えられた。今まではそれほど気にせずにいられた。どれだけ傷ついても嫌だなって思ってもわたしは一人じゃないから。大切な友達がいて、笑いかけてくれる友達がいる。でも、わたしのせいでその大切な人たちが悪く言われるようなことがあるのなら、離れたほうがいいのかな……離れないといけないのかな?


『——寧羽ちゃん』


「……っ」


 ああ、嫌だなぁ。

 ふわりと笑う光くんが優しくて、溢れそうな涙を袖でぐいっと拭った。

 行こう、早く鞄を持って届けに行こう。そうだ! 靴! 外靴があることも把握されてしまったし、靴も持って行こう。このままこうしてると限りなく深い暗闇に堕ちていきそうで、根を張ってしまいそうな足を強引に動かしてわたしは駆け足で教室へと急いだ。





 

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