第9話
「あいつとはちゃんと、友達だったんだ」
ぽつりぽつりと話し出す美鈴ちゃんに、聞き漏らさないように頷きながら耳を澄ます。
「友達だったけど、周りはそれを認めてくれなかった」
——もともと派手な見た目で同性の友達も少なかった私に、初めてできた気のおけない友達が天空春だった。昔から愛想を振り撒くのは苦手で、怖いだの睨まれただのと言われることは少なくない。私は至って真面目に過ごしていたし、特に理由もなく誰かを睨んだりしていない。それも関わりのないやつらなら尚更だ。何もないのに睨んだり怒ったりするほど暇じゃない。それでも噂は噂を呼び、いつの間にか恐れられるような人物像が作り上げられていた。腫れ物を扱うような視線と態度に辟易としていた頃、中学二年生になった私は天空春と出会った。
同じクラスになり、噂は? なにそれ? と笑い飛ばす春に私は虚を突かれたような気持ちになって、そこで初めて自分が自分自身の根も葉もない噂に絡め取られていたことに気がついた。「噂とか知んねーけど、それ地毛?」と赤みの強い茶色の髪を無遠慮に指す春に「地毛」と中学生の私は真面目に答えた。くだらない会話が心地良かった。好奇の目で見てこない春との距離感が好きだった。でも……
「なんだよ、これ」
周りはそれを認めなかった。男女にだって友情は成立する。少なくとも私はそう思っているし、実際そうだ。私は春を恋愛対象とは見ていない。春だってそうだ。
「……ここまでしなくてもいいだろ」
最初は陰口だった。その後は物が隠されて、壊された。陰口は無視してればいい。隠されたものは見つけ出す、でも壊されたものはどうすればいい? おまえたちが平気で壊したものは、私の大切な両親が汗水垂らして稼いだお金で買ってくれたものだ。ただの教科書やノートじゃない。大切な教科書やノートだ。泥まみれになった体操服をどうやって元に戻す? 普通の洗濯で落ちるだろうか、漂白剤は家にあったかな。そうやってどんどん心がすり減らされていった。
天空春はモテる男だった。整った容姿に明るくさっぱりとした性格。友達も多くて春に恋心を抱く人は多い。私がこんなに追い込まれている理由はそんな春の隣にいるからだ。友達だった。それ以上の感情なんてなかった。でも周りはそれを認めてはくれなかった。仮に友達じゃなかったとして、それ以上の感情を持っていたとして、こんなことをされる謂れはない。許せない、許せないけど、既に折れかけていた私には何もすることができなかった。
「おい、なんで言わねーんだよ」
三年に進級して少し経った頃、不機嫌を隠しもせず怖い顔をした春に呼び出された。すっとぼける私に突き出されたのは口にするのも憚られるような悪口の書かれた教科書。しっかりと持ち主の名前が書かれたそれから目を逸らした。
「誰だよ。いつから?」
「……」
「おい」
私のことを心配してのことだろうに、責めるような口調が刃物のように感じた。
「知らない」
「知らないわけねーだろ。誰かはわからなくてもいつからくらいは答えられるだろ」
「……いつからなんて知ってどうするんだよ」
どうしようもないだろ。知ったらあの日の私を救いに来てくれるのか。そんな捻くれた考えが頭を支配する。
「なんで言わなかった。言ってくれたらこんなこと、こんな酷いこと……っ、許さねぇ。誰だよ、心当たりねぇの?」
「知らないって言ってるだろ」
「なあ、俺たち友達だろ。俺、そんな頼りない? なんでもいいから話せよ」
なんでもいい? なんでも?
「——じゃ、ない」
「悪い、聞き取れなかった」
「春なんか友達じゃない」
気がつけばそう口にしていた。
「なん、だよ、それ。冗談言ってる場合じゃねーだろうが」
「ハッ、冗談? 冗談なんかじゃない。私は春を友達だと思ったことはない。友達じゃない。所詮赤の他人だろ。迷惑なんだよ、本当に」
ただの八つ当たりなのはわかってた。吐き出せない苛立ちを、虚しさを、心配して私と向き合ってくれた友達にぶつけてしまった。吐いた言葉は戻らない。それでもごめん、嘘だよ、ごめんって謝れば春はきっと許してくれた。なんだよ! って怒ってしょうがねーな、って笑ってくれただろう。
「……俺は、友達だと思ってたよ」
何も言わない私を一瞥して、手近な机に痛々しい教科書を置いた春はそのまま振り返ることなく教室を出て行った。
何をされても泣くことだけはしなかった。泣いたら負けな気がしたから。でも知らず知らず涙目は頬を伝って、それが涙だと認めた瞬間に決壊したように止まらなくなった。
友達だった。天空春はちゃんと友達だった。だけど限界だった。限界だったんだ。いつの間にか友達でいることが呪いのように重くのしかかって、おまえのせいでと思いそうになる自分が嫌いになりそうだった。春の手にボロボロの教科書が握られているのを見たら、私の弱さが握られている気がして苦しかった。春はなにも悪くないのに。私を心配してくれていただけなのに。私には重たくて支えきれなかった。
それから何故か嫌がらせはピタリと止んだ。どうしてだかわからなかったけど、ようやく訪れた平穏に心が呼吸を始めた頃には私の隣には春はいなかった。
「だから今更、あいつと話すこともその権利も私にはない」
一通り話し終えた美鈴ちゃんは「ごめんな、こんな話聞かせて。帰るか」と立ち上がろうとした。握っていた手を引っ張って引き止める。視界が涙で歪む。困ったように眉を下げた美鈴ちゃんがぽたぽたと溢れる涙をハンカチで拭ってくれた。
「泣き虫。泣くなよ。全部私の自業自得だ」
「……美鈴ちゃんは一ミリも悪くないよ」
そこまで追い込まれた美鈴ちゃんを誰も悪いなんて言わない。天空くんだって美鈴ちゃんを悪いだなんてきっと思ってない。
「私が弱かったから、私が悪いんだ。嫌がらせがなくなったのも、たぶんあいつが何かしたんだろう。私には何もできなかった。……何もできなかったくせにあいつを傷つけた」
「弱くて何が悪いの? 誰だって弱い部分はたくさんあるよ」
「…………」
「みーちゃんって美鈴ちゃんのあだ名だよね? すごく可愛いあだ名だと思う。天空くんがそう呼ぶのは、美鈴ちゃんを今も友達だと思ってるからじゃないのかな」
「そ、んなわけ、ないだろ。私は気にかけてくれた春を、突き放したんだ」
美鈴ちゃんの声が震える。言いたい言葉を飲み込んで、言いたくない言葉を吐き出した美鈴ちゃんはすごく苦しそうで、それが全部自分が口にしてしまったことだから自分を責めるしかなくて、自分で自分を痛めつけている。
「寧羽も、ごめんな。私が傍にいるから必要以上にいろいろ言われるだろ。おまえと仲良くしたいやつは絶対いるのに、ガラの悪い私が傍にいるから近寄れないんだろうよ」
「……」
「灯乃のこともごめん。ついつい自分と重ねてさ、寧羽が悲しまないようにって灯乃に目を光らせてたけど、自己満足だよな」
すとん、と胸に落ちた。ああ、美鈴ちゃんの地雷はこれだったのかって。光くんを最重要警戒対象、なんて言っていたのはこういうことだったのか。
……心配してくれていたんだ、ずっと。自分が苦しい思いをしたから、わたしがそうならないようにいつも気にかけてくれていたんだ。
『どうした?』
『大丈夫?』
『何かあった?』
『なあ、寧羽。もしなにかあったら一人で抱え込まずにちゃんと話せよ』
「……っ」
胸の奥から言葉にならない気持ちが込み上げてきて、わたしは立ち上がって美鈴ちゃんの頭を抱えるように抱きしめた。
「えっ、寧羽?」
「美鈴ちゃんの悪い癖を教えます」
「は?」
「全部自分のせいにして、自分を責めて自分を傷つけるとこ」
「なんだよ、急に」
体を離すと美鈴ちゃんの瞳が不安そうに揺れていた。
「全部が美鈴ちゃんが悪いなんてことないよ。わたしは美鈴ちゃんと友達になれてよかった。あの日美鈴ちゃんに会えてよかった。いつも気にかけてくれて、守ってくれて助けてくれて、わたしは優しい美鈴ちゃんが大好きなのに。美鈴ちゃんがいてくれるから毎日学校が楽しいのに。夏休みだって美鈴ちゃんが一緒に遊ぼうって言ってくれたから楽しみで仕方がないのに」
はらはらと涙が溢れる。
「ねぇ、そんなわたしの気持ち知ってた?」
美鈴ちゃんの目尻から涙がこぼれて頬へと伝う。
「気持ちは言葉にしないと伝わらないんだよ。ありがとうもごめんなさいも」
美鈴ちゃんの気持ちも天空くんの気持ちも、お互いに伝えなければすれ違ったままだ。
「察することはできても、それ以上ではないんだよ。完璧じゃないんだよ」
本当にこのままでいいの? そう問えば美鈴ちゃんは小さく首を横に振った。
「よく、ない」
「じゃあ行こう。たぶんまだそんなに遠くにはいないよ。知らないけど」
「おい。つーか、え? 今から?」
「今から。だって美鈴ちゃん明日になったらまたぐだぐだ考えて自己完結しそうだもん」
「えぇー……寧羽にそこまで言われると凹むんだけど」
涙で濡れた美鈴ちゃんの頬を、今度はわたしがハンカチで拭ってあげる。
「大丈夫だよ。大丈夫だから、早く行っておいで」
「うう、でもさ、あいつもあいつで次の日から完全に私をシャットアウトしてたし、今日に至るまで一度も目だって合わなかったんだぞ!」
「天空くんも天空くんで主張があると思うよ」
「なんっ、であいつの味方すんの?」
「味方っていうか、うーん。ほら、もう早く行っておいで」
ぐいっと両腕を引っ張って立たせる。ここで待ってるから、そう言って背中を押せばぐっと唇を噛み締めて頷いた。駆けていく背中を見送って椅子に座る。視界に入ったカルピスに美鈴ちゃんの不安げな表情を思い出して「大丈夫だよ」と呟く。
だって天空くんが本当に美鈴ちゃんに怒っていたり嫌っていたら、最初に声なんてかけなかったと思う。
『あ、湖浜さんにみーちゃん』
あれが答えだとわたしは思うよ。仲直りの最初の一歩を天空くんが踏み出してくれたんだから、次は美鈴ちゃんの番だよ。
温くなったいちご牛乳を飲みながら、わたしは親友の帰りを待った。
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