第8話
「お、終わった。疲れた……」
「お疲れ」
ひや、と頬に冷たい物を当てられて机に突っ伏していた体を起こす。飲み物を買いに行ってくれていた美鈴ちゃんが悪戯顔でもう一度わたしの頬に冷えた紙パックをくっつけた。冷たーい、気持ちいい……三日間の期末テストを終え、フル稼働していた頭がクールダウンされていく。
「ハハ、はいこれ。寧羽いちご牛乳好きだよな」
「うん、好きぃ。ありがとう美鈴ちゃん」
「どういたしまして」
美鈴ちゃんは椅子を引っ張ってくると、わたしの向いに座ってぷすっと珈琲牛乳にストローを挿した。わたしも買ってきてもらったいちご牛乳にストローを挿して飲む。疲れた頭に糖分は格別なのと、期末テストを無事に終えたことで気分は晴れやかだ。
今回のわたしはいつもよりちょっと気合が入っていただけに、疲労感もいつもより割増だった。理由は明白で美鈴ちゃんや光くんとの夏休みの約束が自分が思っている以上に楽しみになっていたから。インドア派だし、暑いのも苦手。夏はできれば外に出たくないわたしだけど、二人との約束は別らしい。
「はぁー……風が気持ちいいなぁ」
「そうだね、今日は風があって涼しいかも」
ぐたあ、と背もたれに体を預けている美鈴ちゃんの言うとおり、窓から入り込む夏の風が気持ちいい。教室にはまだちらほらと生徒は残っているものの、テストを終えて飛び出すように出て行った人たちが大半で、教室は程よい静かさを保っている。みんな遊びに行くのかな。部活も再開されてるし、今日は絶好の遊び日和だ。
ふと目についた光くんの席には鞄が置かれているけど姿は見えない。どこに行ったんだろう。そういえば光くんって部活に入ってたりするのかな。
「どうした?」
「へ?」
「いや、なんかぼーっとしてるから。暑さにやられたか?」
「うーん、気が抜けてぼんやりしちゃった」
「確かに達成感というか、脱力感があるよな。まあ、あとは夏休みを待つばかりだ」
いっそう高くなった弾むような声に美鈴ちゃんが夏休みをどれだけ楽しみにしていたのかが窺える。そうとなるとやっぱり自分が補習になってしまわないかが心配で、苦手な数学は光くんに教えてもらったから大丈夫だと思いたいけど、テストが返ってくるまで心配は拭えない。もうテストは終わってしまったのだから今更心配してもどうにもならないのだ。今はよくやったとテスト勉強を頑張った自分を褒めよう。
と、珈琲牛乳を飲んでいた美鈴ちゃんが突然ぴたりと動きを止めた。
「あ、湖浜さんにみーちゃん」
「帰れ」
弾むような、けれど少し強張りを感じる声と共に現れた人物に間髪入れず、即刻吐き捨てた美鈴ちゃんはわたしの背後に立つ天空春くんを鋭く睨みつける。いつも光くんを警戒して見せるようなそれとも違う、どこか怯えの孕んだ瞳。
睨まれた天空くんはさして気にした風もなく「相変わらずみーちゃんは冷たいな」とからかうような嘲るような、煽っているとしか思えない笑みで美鈴ちゃんを見やった。その姿に驚いて、天空くんが本当にわたしの知る天空くんなのかと疑ってしまう。だってわたしの知る後ろの席の天空春くんは人当たりが良くて、丁寧で話しやすい男の子だ。放課後改めて自己紹介をした後からよく話すようになったけど、こんな風に冷たい笑い方をする人じゃない。キッと天空くんを睨み続ける美鈴ちゃんから視線を外して、天空くんの目がわたしへと向く。
「湖浜さんいいの飲んでんね」
「え、あ、美鈴ちゃんが買ってきてくれて」
「へー、甘いもの好き?」
「うん」
「じゃあこれもあげる。甘いもの飲みたくなって買ったけど、やっぱ違うなってお茶買い直したんだよ。よかったらどうぞ」
言いながらペットボトルのカルピスを渡される。本当にいいのかと天空くんを見上げると、もう片方の手に持ったお茶を「な」と見せられた。「ありがとう」とカルピスを受け取る。さっきの冷たい雰囲気を纏った天空くんはやっぱり見間違いだったのだろう。だって今目の前にいる天空春くんはほのぼのとした微笑みを携えているのだから。
「おい話しかけんな」
しかし、隣から地を這うような低い声が聞こえたかと思ったら次の瞬間には天空くんの目がスッと細められた。半眼で美鈴ちゃんを見下ろす天空くんからは感情が見えない。
「みーちゃんに話してねぇんだけど」
「寧羽に! 話しかけんな! だいたいおまえその呼び方やめろって言ってるだろ!」
「やだ。俺にはこっちの方がしっくりくるし」
「おっ、まえ」
苛立たしげにぐっと拳を握る美鈴ちゃんと飄々としている天空くんの間の空気がバチバチで、軽く混乱しているわたしをよそに美鈴ちゃんはハンッと鼻で笑った。
「まあいい。私も寧羽もおまえに構ってる暇はないんだ。さっさと視界から消えろ」
「ものすごく暇そうだけど」
「休憩してんだよ! 頭使ったから!」
「ハッ、みーちゃん頭良くねーもんな」
「おまえは一々うるさいんだよ」
「お互い様じゃね?」
険悪な空気にあたふたすることしかできずに、棘のある言葉を交わす二人を見つめる。
「みーちゃんが怖い顔してるから、湖浜さんが恐怖してんぞ」
「バカか。おまえの腹黒さを察知して引いてるんだろ。というかなんでおまえさっきから普通に寧羽と話してんだよ」
「なんでって、俺たち友達だし」
な、と問われて首肯する。頷いたわたしに美鈴ちゃんは顔面蒼白になって口をパクパクとさせた。
「は? なっ、と、友達?」
「みーちゃん知らなかったんだ? ふーん」
「おいなんだその顔腹立つ!」
今にも掴みかからんばかりの勢いで立ち上がった美鈴ちゃんと、全く動じない天空くん。水と油だ。ひやひやする。いつでも止めに入れるように構えていると、美鈴ちゃんは大きな溜め息と共にガタンと音を立てて座った。取っ組み合いの喧嘩には発展しないようでほっと胸を撫で下ろす。
最初の頃の美鈴ちゃんと光くんの比ではない、殺伐とした空気とやりとりになんとかしなくてはと謎の使命感に駆られ、恐々と口を開いた。
「あ、あの……ふ、二人はお友達、なんだよね?」
内容を誤ったかもしれない。二人の視線がグサッと突き刺さる。
「どうしたらそう見えるんだよ。私が可哀想だろ」
「失礼だな。可哀想なのは俺だろ」
「……」
当たり障りのない内容のつもりだったけど、確かによく考えればこの状態の二人にする質問ではなかった。迂闊に触れると静電気どころではなく雷が落ちてきそう。でも、不思議とお互いに嫌っているようには思えない。特に美鈴ちゃんは本当に嫌いな相手とは喋ることはおろか、目を合わせることもしないだろう。わざわざ売り言葉に買い言葉を返し合う二人が本当に仲が悪いとは思えなかった。だがしかし、この状況はどうしたものかと困り果てるわたしを不憫に思ったのか、天空くんが「俺たち同じ中学だったんだよ」と話しかけてくれた。
「そ、そうだったんだ。どおりで話してるの見たことないのに、その、親しげだなっと思った」
うわー、親しげって言った辺りから美鈴ちゃんの「は?」と訴える視線が痛い。
「中学んときはそれなりに仲良くしてたと思ってたんだけど、友達だと思ってたのは俺だけだった」
吐き捨てるように言った天空くんに、美鈴ちゃんを見る。バツの悪そうな顔をして「おまえなんか友達じゃない」そう顔を逸らして俯く美鈴ちゃんを天空くんは「知ってるわ」と一蹴する。
重く、どこか痛々しい空気に呼吸をすることさえ苦しく感じた。二人の間に何かがあったことは明らかで、でも踏み込んでいいのかわからない。吹奏楽部の楽器の音色が聞こえてきて、天空くんは「帰るわ。湖浜さん、また明日」そう言って机に掛かっていた鞄を肩にかけて教室を出て行ってしまった。
机に置いたカルピスが気温差で水滴を作り、その雫がペットボトルを伝って落ちる。何をどう言葉にすればいいのか。でもこのまま美鈴ちゃんに何もなかったように接したら、美鈴ちゃんも明日からまた何もなかったように天空くんと話すことはないような気がして、わたしは椅子に座る美鈴ちゃんの前にしゃがみこんだ。
踏み込んではいけないかもしれない、わたしの出る幕じゃないかもしれない、何もできないかもしれない。頭に浮かぶたくさんの“かもしれない”を考えるのは美鈴ちゃんと話をした後でいい。
「美鈴ちゃん」
わたしは今にも泣き出しそうな弱々しい親友の手を握った。
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