第7話
時が経つのは早いもので、テストまで残り三日を切っていた。テスト休みで全ての部活が活動を停止しているため、運動部の元気の良い声も吹奏楽部の楽器の音色も聞こえない校舎は静寂に包まれている。「はぁ、」と熱を逃すように吐き出した息は何にも消されることなく落ちていく。
今日は一段と気温も高くそして蒸し暑かった。あちこち窓は開いているものの、ほとんど風はなくて時折気まぐれに吹く風に絡まった糸が
ずる、と肩からずれ落ちるリュックの紐をかけ直す。だらだらと放課後の廊下を図書室へと向けて歩く足は何度か止まり、教室に引き返そうかと数秒思案してまた歩き出す。そうこうしているうちに教室より図書室の方が近くなって進む選択肢しかなくなった。
テスト前の貴重な時間、本来なら真っ直ぐに家に帰るところだけど、今日は妹が友達を連れてくると言っていたのを帰り際に思い出した。ならばそのまま教室で勉強していまえばよかったのに、勉強するなら図書室だとふらりと立ち上がって今この状況。
ただでさえ暑いのに当たり前だけど動くともっと暑くて、何度教室に引き返そうかと立ち止まったことか。その度に図書室なら集中して勉強ができそうだし、集中すれば暑さも忘れられるはずだと自分を励ました。
だけど同じことを考えている人は多いだろうなぁ。人が多かったら帰ろう……そういえば美鈴ちゃん、目の下のクマがすごかったな。毎日遅くまで勉強してるみたいだけど、大丈夫かな。無理して体を壊さないといいけど。
「あ、湖浜さん」
前方から歩いてきた人物に足を止める。彼は確か、後ろの席の「ありがとう」を丁寧に伝えてくれる人だ。彼はわたしの名前を呼んでくれたのに、わたしは彼の名前を知らなくて開いた口をゆっくり閉じた。
「湖浜さんまだ帰ってなかったんだな」
「う、うん。えっと……」
名前、名前がわからない。わたし、これで今までどうやって光くんの名前を呼ばずに会話をしていたんだろう。光くんのコミュ力のおかげなのか、無意識だったからなせた技なのか。どちらにしても、いつも「ありがとう」を伝えてくれる彼の名前を知らないことに罪悪感のようなものを感じて、うろうろと彷徨わせていた視線を真っ直ぐ彼に向けた。
「あの、ごめんなさい……その、あなたの名前、知らなくて」
ぽつりとこぼした失礼な内容に、彼は一瞬ぽかんとしたあとハハ、と小さく笑った。
「俺、
「そっ、それはわかってます。あの、いつもおはようって挨拶してくれて、丁寧にありがとうって伝えてくれるの、嬉しいって思ってまして」
緊張から思わず敬語になってしまった。コミュ力の高い光くんと話すうちに人見知りが少しマシになったような気はしていたけど、もともと持っているものだ。そう簡単には治らない。下がっていく視線に彼、天空春くんが目元を柔らかく細めた。
「俺もだよ」
「え?」
「俺も思ってた。挨拶もありがとうも、湖浜さんいつもちゃんと丁寧に返してくれるじゃん」
「そ、うかな」
「うん。じゃぁ改めて、後ろの席の天空春です。よろしく」
「え、あ、こ、湖浜寧羽です。よろしくお願いします」
すっと差し出された手に恐る恐る自分の手を差し出す。きゅっと握られて軽く上下に振られた手に肩の力が抜けた。
「それで、湖浜さんどこ行くの? こっち昇降口の方じゃないよな」
「えっと、図書室に行こうかと」
わたしの返答に天空くんの瞳が悩ましげに上を向く。
「あー……今は図書室には行かない方がいいよ」
「? どうして」
「俺さ、さっきまで図書室でテス勉してたんだけど、まぁ、なんっていうか……うるさくて出てきたんだよね」
「うるさい?」
図書室が? 図書室では基本私語は慎まなければならない。だから利用者は静かに読書や勉強をしているし、図書委員として図書室に在中している間も、うるさくしている人にはまだ遭ったことがなかったから、天空くんの言葉に首を捻った。
「まー、行くんだったらこっそり覗いてみたらいいよ」
「わ、わかった」
「じゃあ、また明日」
「うん。また明日」
ひらひらと手を振って帰っていく天空くんに小さく手を振り返す。こんなにちゃんと話したのは初めてだったけど、天空くん話しやすくて良い人だったな。
「今は図書室には行かない方がいいよ」彼の言葉を思い出して、進もうとしていた廊下を見つめる。どうしようかな、もともと人が多いようなら帰ろうと思っていた。天空くんは行くなら覗いてみたらいいと言っていたけど、何故か騒がしいらしい図書室にわざわざ向かう理由はない。わたしは一つ息を漏らして「帰ろ」と呟くと踵を返した。
————ぐいっ!
「え」
確かに警戒心なんてものは欠片もなかった。でもまさか、学校でこんな目に遭うなんて誰が想像したのか。
図書室行きを諦めてぼんやり昇降口に向かって歩いていたわたしの体は、ちょうど階段に差しかかったところで後ろから誰かに腕を掴まれ、強引に近くの教室に引っ張り込まれた。予想もしていなかった出来事に頭が真っ白になる。
「な、なななななっ」
「いきなりごめん! 寧羽ちゃん」
「へ?」
パッと手が離されて振り返ると、聞き馴染んだ柔らかい声の主が申し訳なさそうに眉を下げていた。
「……ちょっと、状況が読めません」
相手を確認して呆然とするわたしに、光くんは周りを警戒しながら教室の引き戸をそっと閉める。
「驚かせてごめん。急いでたから、つい」
つい、で後ろから腕を掴んで空き教室に引っ張り込まないでほしい。まだ心臓がドキドキしてる。早鐘を打つ心臓に、胸に手を当てて若干恨めしい気持ちで光くんを見れば彼は再度「ごめん」と呟いた。
「説明を要求します」
「うん、実は」
「……」
「……」
「あの」
言いかけて何故かすぐ口を閉じてしまった光くんは、その形の良い唇に自分の人差し指を当てた。静かにしろってことかな? なにがなんだかわからないけど大人しく口を噤む。しっかりと閉まっている出入り口を凝視して警戒する光くんに、息を潜めて様子を窺う。すると複数の足音が近づいてきていることに気がついた。近づく気配と一緒に会話もしっかりと聞こえてくる。
「もう光どこ行ったんだろー」
「まだ教えて欲しかったのにぃ」
「戻ってくるかもしれないしうちらも戻ってみる?」
「見つけたら今度は離さないんだからー!」
「…………」
「…………」
そういうことか。
視線だけで訴えれば、にへらと困ったようか笑みを向けられてわたしも困ってしまう。とりあえず空き教室で二人きり、こんな場面を見られてはいけない。女の子たちの足音と声が完全に聞こえなくなった頃、わたしたちはようやく思い切り息を吐いた。なんの試練だったの。
「……捜してたよ」
「ハハ」
「…………」
疲れた顔で座り込む光くんが少し可哀想に思えて、リュックの中のポーチから飴を一つ取り出して彼の手のひらに乗せた。
「これは」
「飴だよ。疲れてるみたいだから糖分補給に。甘いの嫌い?」
「ううん、好き。ありがとう」
嬉しそうに包みを開けると光くんは飴を口に放った。
「それで何があったの?」
「うーん、それがさ。図書室で勉強してたんだけど、教えて欲しいって言われて教えてたらいつの間にか囲まれてて、収拾つかなくなって逃げてきた」
へら、と笑う光くんに先程の天空くんの言葉が頭をよぎった。
『あー……今は図書室には行かない方がいいよ』
『俺さ、さっきまで図書室でテス勉してたんだけど、まぁ、なんっていうか……うるさくて出てきたんだよね』
合点がいった。なるほど、そういうことだったのか。光くんに勉強を教えてもらいたい人たちが集まっていたから、図書室はいつもより騒がしくなってしまっていたのだろう。
「事情はわかったよ。でもそれで何故わたしを道連れに?」
今日最大のミステリーだ。
光くんがモテることも勉強を教えて欲しいと人が集まってしまったことも不思議なとこなんて何もない。ただ、何故わたしが現状に巻き込まれたのかがわからない。
「本当にごめんなさい。寧羽ちゃんを見つけて話がしたかったんだけど、悠長にしてる暇なくて咄嗟に連れ込みました」
しゅん、と心底反省している様子に彼の手のひらに飴をもう一つ乗せる。
「驚いたけど怒ってはないよ」
「本当に?」
「うん」
よかった、と安堵の表情を浮かべて手のひらに乗った飴を嬉しそうに軽く握った。
それにしても光くんのこの状態を見るに、今図書室に行ってもあっちはあっちで勉強できる空気じゃなさそうだなぁ。……やっぱり帰ろう。今日はもう帰ってしまおう、それがいい。
誰かに見つかってしまわないように、気配を探りながら帰る旨を伝えようと光くんに視線を向けると、何故か乱雑に置かれている椅子を二脚、向かい合うように設置していた。「寧羽ちゃんも座りなよ」と手招きされて渋々ながらも大人しく座る。教室の前を誰かがパタパタと走り抜ける音がしたけど、室内を見ればわかるようにここは使われていない空き教室だ。めったに開けられることはないだろう。再び訪れた静寂に光くんはそっと口を開く。
「寧羽ちゃんの声が聞ければそれでよかったんだけど、やっぱり足りない。もう少し一緒にいて?」
いつもより少し抑えられた声と向けられる微笑に心臓がドキッと跳ねる。不可解な心臓の動きに戸惑いながら頷きを返せば光くんはよりいっそう嬉しそうに頬を緩めた。
「寧羽ちゃん、もう帰ったと思ってた」
「……図書室に行こうと思ってたの。勉強しに。でも途中でやめて帰ろうとしてたところ」
なぜ、というのはあえて口にしなかった。暗にあなたのせいです、と責めるようでそれは本意ではない。光くんは何か考え込むように顎に手を当てて、それから名案を思いついたと言いたげにパアッと表情を明るくさせた。
「寧羽ちゃんがよかったらここで一緒に勉強しない?」
「え」
「ここなら恐らく見つからないし、人が来たらわかる。隠れる場所もあるし……なにより俺が寧羽ちゃんと一緒にいたいので」
「……」
そんなふうに言われて断れるだろうか。一緒にいたいとか声が聞きたいとか、光くんのなかでわたしって相当仲のいい友達なんじゃないのか、そんな自惚れたことを考えて振り切るように頷く。相好を崩す姿にじんわりと胸が熱くなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます