第6話
どうしよう。
ぞろぞろと生徒たちが下校を始めるなか、ぽつんと途方に暮れる。勉強の約束をしていた相手は既に教室にはいなくて、鞄もないみたいだし帰ってしまったのだろう。
「……せめて断りの連絡はほしかったな」
ボソッと呟いた声は誰に届くこともなく消えていく。約束、忘れちゃったのかな。灯乃光くんは何も言わずに約束を違えるような人ではない。少なくともわたしが今まで見てきた灯乃光くんはそんな不誠実な人ではなかった。
……そうなるとやっぱり忘れてしまった可能性が高い。それならそれで仕方がないけど、万が一がある。灯乃光くんが約束を覚えていて、ただ単に席を外しているだけの可能性。だとすればわたしはどうすればいいんだろう。
「寧羽ー、行こうぜ。ん? あいついなくない?」
帰り支度を終えてやってきた美鈴ちゃんは、教室内を見渡して首を傾げる。
「うん。帰っちゃったかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
つまりわからない。
「は? いやいや帰ったはないだろ。約束したんだろ?」
「うん」
「ならその辺にいるだろ。あいつが寧羽との約束ほっぽりだすわけない」
とは言ってもこの状況、どうするのが正解なんだろう。約束をした手前、もしもを考えると迂闊に動けない。こんなことなら詳細にいろいろ決めておけばよかった——と、ふと今朝の会話を思い出した。
「そういえば、近くの図書館で勉強しようって言ってたような……」
「あー、じゃあ先に行ってるのかもな。よく考えたら
あいつがそこまで考えているかはわかんないけど、そう言ってとりあえず図書館に行くかと嘆息して美鈴ちゃんに頷く。
「ていうかさ、連絡先交換してないのな」
「? うん、してないよ。あっ、もしかして美鈴ちゃん連絡先知ってる?」
「いや知らんけども。……あいつ抜けてんのかチキンなのかどっちだ」
「チキン? お肉?」
「い、いやっ、なんでもない」
部活が休みだからか、いつもより少しだけ静かな校舎を進む。靴を履き替えて校門を抜けた辺りで「寧羽ちゃん」と優しい、まるで風が運んできたような柔らかい声に呼ばれて足を止めた。
振り返ると灯乃光くんが壁際に立って片手を上げていて、小走りでわたしたちの元まで来るとへら、とした笑みと共に安堵の息を漏らした。
「よかった。ちゃんと会えた」
「か、帰っちゃったのかと思ってた」
「え! 帰らないよ、せっかく寧羽ちゃんと一緒にいられるのに」
「……だって教室にいないし、他の人にも誘われてたし」
もごもごと語尾が小さくなっていく。なんだかこれじゃあ、拗ねてるみたいじゃないだろうか。恥ずかしくなって地面に視線を落とす。
「ごめん。今日は予定があるからって断ったからさ、捕まる前に早く学校出たかったんだ」
「そ、そうだったんだね。勝手に帰ったって勘違いして、ごめん」
お互い謝罪をしているはずなのに、見上げた灯乃光くんはどういうわけか嬉しそうで、向けられる笑顔のあたたかさに感じていた寂しさが埋められていく気がした。
スッとわたしと灯乃光くんの間に美鈴ちゃんの手が伸びてくる。
「はい解決。行くぞ寧羽。こいつとここにいるといろいろ目立つ」
「え、あっ、うん」
言われて周りを見れば、確かにちらほらと視線が集まっていた。最近慣れもあってかあんまり深く考えていなかったけど、モテモテな灯乃光くんと一緒にいれば注目を集めるのは必至で、それによる憶測や噂話が飛び交うのもある意味仕方がないのかもしれない。
わたしたちの会話に「行くってどこに?」と疑問符を浮かべている灯乃光くんに声を潜める。
「図書館で勉強しようって言ってたでしょ? だから行ってみようって話になったの」
「あぁ」
「ほら早く行くぞ。灯乃、おまえはなるべく気配を消しながら歩けよ」
「藤和さん無茶振りがすごい」
チッと舌打ちをして前を歩く美鈴ちゃんの背中を追いかける。隣を歩く灯乃光くんの「気配を消すってどうすれば……」という真剣な呟きにくすくすと笑ってしまった。
◇◇◇
図書館の自動ドアを進むとふわっと本の匂いがして心が落ち着く。図書館や本屋さんの独特の静かさは心地がいい。
高校からそう遠くない場所にあるこの図書館は結構な広さで天井も高く、高い位置にある本棚には中階段で二階に上がれるようになっている。同じ敷地内には複合施設やレストラン、子供が遊べる公園もあってゆったりとした時間が流れている静かで賑やかな場所。ここでよく美鈴ちゃんと受験勉強をした思い出の場所でもある。
奥の空いている席に座って一息つく。隣の席には美鈴ちゃん、向いの席には灯乃光くんが座った。
「来て早々、勉強したくない気持ちに襲われている」
「ノートすら開いてない段階で?」
二人の会話に苦笑を漏らしつつ、机の上に勉強道具を広げた。苦手科目を重点的にやろうと数学を出したけど、確かに気は重い。
「寧羽ちゃん数学? じゃあ俺も数学にしよう」
「…………数学、そっか数学。そうだよな、当然数学もあるよな」
弱々しい口調で鞄から教科書を取り出す美鈴ちゃんに頑張ろう、と声をかけて机に向かう。ときどき教え、教わりながらわたしたちはテスト勉強に励んだ。それから一時間が経っただろうか、隣で立ち上がる気配に顔を上げる。
「ちょっと休憩。お手洗い行ってくるな」
「うん、いってらっしゃい」
ぐいーっと伸びをして離れていく背中を見送る。スマホで時間を確認すれば、ここに来てから一時間半が経とうとしていた。
「寧羽ちゃんも疲れてない? 俺たちも休憩しようか」
「そうだね。あの、勉強教えてくれてありがとう。なんだか自分ができる子になったみたい」
「もともと寧羽ちゃんはできる子だよ。基礎はちゃんとできてるし、応用は問題を繰り返し解けば大丈夫」
褒められて疲れていた頭が回復した気がする。やる気すら満ちてきて、喜びから笑みがこぼれるわたしに灯乃光くんの大きな瞳が慈しむように細められる。ドキッと心臓が跳ねて「どうかした?」と訊ねると、灯乃光くんは「んー」と一度目を伏せて柔らかく微笑んだ。
図書館の大きな窓から差し込む陽光が彼を照らす。キラキラと輝くその姿に何か胸の奥から溢れるような、懐かしいような不思議な感覚が体を巡る。なんだろう、どこか近くて遠い記憶。その中に答えがあるような気がするのに上手く掴めなくてもどかしい。
「寧羽ちゃん?」
名前を呼ばれて思考の波から引き戻された。
「あ、ごめんね。ぼーっとしてた」
「大丈夫? 飲み物買って外の空気吸った方がいいかもな。一緒に行こう」
「そう、だね。喉渇いたかも」
なんとも言えない胸のつっかえに首を傾げる。さっきのはなんだったんだろう、思い出せそうで思い出せない感覚がじれったい。灯乃光くんの言うとおり少し外の空気を吸いに行こう。そう思って上げようとしていた腰を椅子に落ち着けた。
「あの、さっき何かこう、うーん、いいことあった?」
すごく的を得ない質問だと思う。けれどわたしにもわからないのだ。彼の愛おしむような、こちらが錯覚してしまいそうな眼差しの理由が。友達ってそんな風に見つめ合うものだろうか。わたしの言わんとしていることが伝わったのか、灯乃光くんは一瞬ぽかんと口をあけた後「ああ」と再び顔を綻ばせた。
「嬉しいな、と思ったんだよ。こうして寧羽ちゃんと一緒にいられて」
「? 最近は一緒にいること多いよ」
「そうだね。でも以前より距離が近くなれた気がしない?」
距離……灯乃光くんは初対面から距離が近かったような気がするけど。でも、そうだな……確かに出会った頃を思うと顔を見て普通に話せるようになった。離れたいとか逃げたいって思うこともなくなったし、友達という関係が嬉しいと思うようになった。それどころかいつの間にか彼の姿を目で追いかけている自分がいる。
「ふふ、光くんはいつも近かったよ」
今こうして一緒に勉強する姿を最初の頃の自分が見たらびっくりするだろうな。
「…………」
「?」
突然動きを止めて何も言わなくなってしまった灯乃光くんに小首を傾げる。わたし何か失礼なことを言ってしまっただろうか? もう少しで「おーい」と彼の眼前で手を振りそうになったとき、ガタッと音を立てて灯乃光くんが立ち上がった。
「あ、あの、どうし……」
「もう一度、もう一度言って」
「え?」
「さっきのをもう一度」」
さっきの? って?
「い、いつも近かったよ」
「違う、その前」
「?? ご、ごめん。わたしなんて言ったかな……」
話の内容はもちろん覚えているけど、自分がなんて言ったかまで具体的には覚えていない。わからなくて困惑していると灯乃光くんはぐっと机の上で拳を握った。
「名前」
「?」
「名前、呼んでくれたよね」
「な、まえ……ん?」
「なんだよその呼んだっけ、みたいな顔! 絶対呼んだよ!」
「ちょ、ちょっと光くん落ち着いて」
「う、」
しゅ〜〜っと風船が萎むように顔を覆って席に着いた灯乃光くんは「ほら」と小さくこぼした。髪の隙間から覗く耳が真っ赤に染まっている。どうしたんだろう急に。名前なんていつも——
「いつも呼んでるよね、名前」
「呼ばれてない」
顔を覆ったまま、首を振られて即答された。
「え、いや、でもいつも…………いつ、も」
「…………」
呼んで、ない? あれ、呼んでないもしれない。じゃあいつもなんて…………そこまで考えてわたしも顔を覆った。
「すいませんごめんなさい。無自覚です。他意があったわけじゃないです」
そうだわたし、いつも「あの」とか「えっと」とかで会話をしていた気がする。基本的に自分から話しかけることがあまりなかったのもあるけど、灯乃光くんがいつも話しかけてくれていたから気にならなかった。言われるまで本当に。心の中ではいつも名前を呼んでいたのに。
「ごめんなさいぃ」
申し訳なくて穴があったら入りたい。
「寧羽ちゃん」
「は、い」
「顔が見たい」
つんつん、と顔を覆う手をつつかれて恐る恐る手をどける。ほんのり赤く染まった灯乃光くんの顔がいつもの包み込むような優しい笑みを浮かべている。
「あの、本当に意地悪とかじゃなくて」
「うん、わかってる。最初は名前知らないのかなとか、呼びたくないのかなとか、いろいろ考えてたんだけど。でも寧羽ちゃんを見てたら、きっとそうじゃないんだろうなって。寧羽ちゃん、ちゃんと俺に笑いかけてくれるし話してくれるから。だから俺が呼ばせるんじゃなくて、いつか寧羽ちゃんの口からぽろっと俺の名前がこぼれたらいいなって思ってた」
「い、言ってくれたらよかったのに」
「待った甲斐があったよ。すごく、すごく嬉しい」
そう言って本当に嬉しそうに笑うから、またわたしの心臓はドキドキと煩くて顔が熱を持ったみたいに熱くなる。
「寧羽ちゃん」
「うん」
「寧羽ちゃん」
「うん」
「名前、呼んで」
「…………」
「寧羽ちゃん」
「……ひ、光くん」
「もっと」
「うぅ」
「おい、私が席を外してる間に何があった」
不意に降ってきた声にビクッと身体が大きく跳ねる。
「み、美鈴ちゃん。おおおかえりなさい」
「おいおまえ寧羽になにをした」
キッと灯乃光くんを睨みつける美鈴ちゃんに、灯乃光くんはニコッといい笑顔を返す。
「嬉しいことがあった」
「あ?」
「美鈴ちゃん?! 何もされてないよ」
「嘘だ。さっきと違う、なんか空気感が違う!」
空気感ってなに?! とつっこもうとしてここが図書館なのを思い出した。周りを見れば数人の迷惑そうな視線とぶつかって「ひぇ」と背筋が冷える。
「み、美鈴ちゃんここ図書館だよ! 静かに!」
声を潜めてぐいぐいと腕を引っ張れば納得のいかない顔をしたものの、素直に椅子に座ってくれてほっと息をつく。
「本当に寧羽になにもしてないだろうな」
「こんなところでなにするって言うんだよ」
「…………チッ」
灯乃光くんを睨みつけ大きな舌打ちをして、美鈴ちゃんはそっぽを向いてしまった。どうしたものかと視線を彷徨わせていると、頬杖をついた美鈴ちゃんが溜め息と共に「悪い」と頭を抱えた。
「過剰に反応し過ぎた。ごめん、二人とも」
「えっと、わたしは大丈夫だよ」
「藤和さんが俺にも謝るなんてめずらしいね」
「うるさい。私だって、たとえ気に食わない相手でも悪いと思ったら謝るわ」
本当に悪かった、と再度謝る美鈴ちゃんに灯乃光くんと目を合わせてどちらからともなくふは、と吹き出した。
「おい笑うな。つーかやっぱり空気感変わってね? 息ぴったりだムカつくんだけど」
「許してあげるから外行こうよ」
「は、なに? 喧嘩する?」
「違うわ。外の空気吸いに行こうって言ってたところだったんだよ」
「喉も渇いたし、飲み物買いに行こう美鈴ちゃん」
行こう行こう、鞄を持って立ち上がる。美鈴ちゃんの手を引けば面食らったような顔をしたあと「ああ」と眉根を下げて相好を崩した。
「それにしても藤和さんは俺に対して当たりが強くない?」
図書館の入り口近くに設置してあるベンチに座って外の風に当たる。ペットボトルのキャップを外して、流し込んだお茶の冷たさに渇いた喉が潤されていく。
「当たり前だろ。おまえは最重要警戒対象なんだから」
「え、なんで俺そんなに警戒されてるの?」
わたしを挟んで交わされる会話。灯乃光くんの質問に美鈴ちゃんは「うるさい」とまたそっぽを向いてしまった。さっきの様子といい、今といい、美鈴ちゃんには何か地雷があるのかもしれない。誰しもが持っているであろうなにかしらの地雷が、美鈴ちゃんにとっては灯乃光くんだったりするのだろうか? でも普段は普通に話していたりもするし……
最重要警戒対象、その言葉の意味を考えながらわたしはもう一度ひんやりと冷たいお茶に口をつけた。
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