第5話
「……すごい雨だな」
「うん、すごい雨だね」
どんよりと灰黒く重たい雲が空を覆っている。教室の窓には雨粒が激しく打ちつけられていて、連日降り続いている雨にグラウンドも地面が溶けてなくなりそうなくらいべちゃべちゃだ。
「これは今日の体育は中止だな。体育館も雨漏りで修理中らしいし」
「え、そうなんだ。そういえば今日って晴れたらマラソンだったよね。……なんというかわたし的には雨様様かも」
「それな」
うんうんと深く頷いて「でもこうも雨が続くとさすがに参るな」と美鈴ちゃんは締め切った窓から空を覗き込んだ。
静かにしとしとと降る雨は別に嫌いじゃないけれど、続けば気分的に落ち込んでしまうのもわかる。どんよりとした空のおかげで午前中なのに辺りは薄暗く、校内も朝から電気が点けられている。嫌いじゃないとはいえ、やっぱり晴れている方が好きだしそろそろ快晴の空が恋しい。
「なあ、そういえばもうすぐ夏休みだよな」
思い出したように振り向いた美鈴ちゃんに、教室に掛かっているカレンダーを見る。カレンダーを捲って七月の部分を見れば中旬あたりに誰が書いたのか、赤ペンでぐるぐると花のような印が付けられていた。でかでかと書かれた“夏休み”の文字が印の正体を告げている。
「寧羽は何か予定はあるのか? 旅行とか行く?」
「ううん、特にはないかな。美鈴ちゃんは?」
「私もこれといってないけど、行きたいところはたくさんあるぞ! 買い物もしたいしプールや海にも行きたいな。キャンプも楽しそうだし」
「キャンプかぁ」
指折り話しながら瞳を輝かせる美鈴ちゃんに、挙げられた項目を想像してみる。夏休みはどこも人が多そうだな。プールや海は特に。キャンプは少し楽しそう。ゆったりとした時間に自然の中で食べるご飯は絶対美味しい。たまにキャンプ動画を見たりするけど、自然の緑に空や海の青に囲まれて普段とは違う調理器具を使って作るご飯は本当に美味しそうで、夜中に見ると完全に飯テロ。お腹が鳴る。
「寧羽はどこか行きたいところはないのか?」
「うーん、そうだなぁ。夏休みってどこも人が多いし、できればずっと家にいたい」
ひたすらダラダラと過ごしたい。そう怠惰な願望を口にすれば「寧羽らしいな」と美鈴ちゃんは微苦笑した。
「でもさ、せっかくの夏休みだし、私は寧羽と遊びに出かけたらしたいんだけどな」
「え、え?」
「寧羽は私とは遊んでくれない?」
「うっ」
こちらを窺う美鈴ちゃんは、瞳にからかいの色を滲ませ、口元を緩めている。わざとらしく「そっか、嫌か」なんて落ち込む姿にわたしはぶんぶんっと勢いよく頭を振った。
「い、嫌じゃないよ。夏休みいっぱい遊ぼう!」
「はは、うん」
「楽しそうだね。何の話?」
ふと会話に入ってきた柔らかな声に振り返る。ふわりと笑顔を咲かせた灯乃光くんは、このどんよりとした天気の中でも輝いていて、髪型ひとつ乱れていない。美鈴ちゃんはスッと目を細めた。
「突然現れるな、あともう少し存在感を消せ」
「すげー無茶振り」
心底面倒くさそうな顔で抑揚のない言葉を放つ美鈴ちゃんに、灯乃光くんは苦笑を浮かべる。
「それで? 何の用だよ」
「用、というか楽しそうだったからなに話してるのかなーって」
「別に、夏休みも近いなって話してただけだよ。ほら、散れ」
「…………藤和さん、夏休み前に期末だよ」
「ぐっ」
シッシッ! と手で追い払うような仕草をする美鈴ちゃんに、仕返しとばかりに灯乃光くんは冷ややかな笑みを浮かべた。美鈴ちゃんの表情が凍りつく。
「お、まえ、今言わなくてもいいことをわざわざ」
「事実だろ」
「くっ、もう! 早く向こう行け」
「ところで寧羽ちゃんは夏休み、何か予定があったりする?」
「おい」
「え? えっと特には……あ、美鈴ちゃんと遊ぶ、ます」
ついさっきまで、怠惰を決め込む予定だった夏休みに組み込まれた新しい予定。まだどこに行くとか何をするとか決まっていない白紙の予定だけど、約束があるだけで色が付いたように夏休みが楽しみになっている自分がいる。人混みも暑いのも苦手だけど、たまにはいいかもしれない。
「そうなんだ。俺も寧羽ちゃんと遊びたい」
「え?」
純真無垢な笑顔を向けられて一瞬の沈黙のあと、恐る恐る辺りを確認する。灯乃光くんとわたしは友達だ。けれど友達といえど警戒は怠れない。目の前で綺麗な笑みを浮かべているこの友人は驚くほどモテるのだ。今までだってわかってはいたけど、先日の屋上での一件で再確認した。あのあとは本当に大変だった。灯乃光くんが。
灯乃光くんの遊びたい発言に美鈴ちゃんが眉を顰める。
「は? 何言ってんだ。ダメに決まってるだろ」
「……俺と寧羽ちゃんは友達だよ? 友達同士が休みの日に遊んでも何もおかしなことはないだろ」
「おまえ、それ悲しくならない?」
美鈴ちゃんの同情するような眼差しに、灯乃光くんは笑顔のまま自分の心臓あたりを掴んだ。意味がわからず疑問符を浮かべていると「気にするな」と美鈴ちゃんに額を小突かれた。
「寧羽ちゃんは遊びに行くならどこに行きたい?」
「え、そう、だなぁ」
ついさっきまでダラダラと過ごす予定しかなかった超インドア派のわたしには、夏休みに行きたい場所なんて咄嗟には思いつかない。逆に灯乃光くんは行きたい場所があるのだろうか。美鈴ちゃんはプールや海にキャンプって言ってたな。せっかくだから夏休みにしかできないようなことがいいのかな。
うーんうーん、と頭を悩ませていると始業を報せる鐘が鳴り響いた。
「ご、ごめんね。特に行きたいところが思いつかなくて」
「いいよ、思いついたら教えてよ。まだ夏休みまで時間もあるし、行き当たりばったりでも寧羽ちゃんと一緒なら楽しいから」
そう言って席に戻って行った灯乃光くんの後ろ姿に、美鈴ちゃんが盛大に溜め息を吐く。
「寧羽。あいつと遊ぶのはいいとしても、二人で遊ぶのはダメだからな」
「ん?」
「わかったな? 美鈴ちゃんは許しませんからね」
え……………………え?
ぷりぷりと怒りながら席へと戻る美鈴ちゃんを見てわたしも席に着いた。始まった古文の授業に教科書を開いて文字を追っていく。
「…………」
あれ? これってもしかして、灯乃光くんと遊びに行くことになってる? そう気がついたのは授業終了の五分前のことだった。
◇◇◇
翌日、連日の雨が嘘だったかのような晴天に目を細める。いい天気、今日はすごくいい天気だ。数日ぶりに傘を持たずに歩く通学路はところどころに雨の形跡が残っているけど、それもこの天気ならすぐに乾いてしまうだろう。
ぽかぽかの暖かな陽光に誘われてふわぁと漏れ出た欠伸に口に手を当てる。すれ違った栗色の毛並みの猫ちゃんも大きな欠伸をしている。足を止めてその愛らしい姿に癒されていると「寧羽ちゃん」と名前を呼ばれた気がして振り返った。「え」と小さく声が漏れる。前足を伸ばしてくあ、ともう一度欠伸をすると猫ちゃんはひょいと塀に登って行ってしまった。
「なん、え、なんで」
ふわっと柔らかく頬を緩ませて走ってきた灯乃光くんに驚いて、一瞬幻覚が見えたのかと目を瞬かせる。
「おはよう」
「お、おはよう。めずらしいね、こんなところで会うなんて」
「運命だね」
「それは、違うと思うけど」
「…………」
嬉しそうだった表情がしゅんっと落ち込んでしまう。いや、だって通学中に通学路で会っただけだし。今まで会わなかったから幻覚かと思うくらいには驚いたけど。前に一緒に帰ったときもこの道を通る前に別れたし。そんなわたしの疑問を感じ取ったのか、灯乃光くんは「実はバスに乗ってたんだけど、寧羽ちゃんの姿が見えて降りちゃった」なんてへら、と笑った。
「え。降りたの?」
「うん」
灯乃光くんがバス通学だったことを今初めて知ったのだが、問題は何故ここで降りてしまったのかということだ。ここから学校までそう遠くはないけれど、バス停なら確かもっと学校に近いところにあったはず。運命の種明かしをした灯乃光くんは「寧羽ちゃんと一緒に登校できるの嬉しい」と屈託のない笑顔を咲かせた。
そんなことしなくても学校に行けば会えるのに。そんな言葉が口を突きそうになるけど、鼻歌混じりでご機嫌な様子に黙って隣を歩く。
それにしても今日も本当にキラキラしてるなぁ。もしもこれが漫画やアニメだったら灯乃光くんの周りにはキラキラと星が瞬いているに違いない。わたしなら絶対に輝かせる。なんて眺めていたら目が合ってにこりと微笑まれた。
「寧羽ちゃん、今日学校が終わったら一緒に勉強しない?」
「勉強?」
「もうすぐ期末だろ」
勉強かぁ。そういえば美鈴ちゃんから聞いた話だけど、灯乃光くんは入試を首席で合格したそうで、入学式の新入生代表挨拶も灯乃光くんが務めたらしい。確かにそう言われればそうだったような気がする、くらいの朧げな記憶しかないけど。まだちゃんと話す前だったから許して欲しい。それにしても学年首席って本当にすごい。才色兼備って灯乃光くんのことを言うんだろうな。……灯乃光くんに苦手なことってあるのかな。
「ダメ?」
顔を覗き込むようにして首を傾げる灯乃光くんの綺麗な瞳が不安と期待が混ざったように揺れていて、瞬時に首を横に振った。灯乃光くんの弱った子犬みたいな表情にわたしはめっぽう弱いのだ。
「駄目じゃないよ。誘ってくれてありがとう」
「本当? やった。それじゃあ放課後、近くの図書館にでも行こうか」
「いいね。あ、美鈴ちゃんにも声をかけておくね」
「あ、…………うん」
放課後に皆で勉強かぁ、ちょっと楽しみだなあ。美鈴ちゃんの予定が空いてるといいけど。なんて既に気持ちが放課後に向いていたわたしは、隣で肩を落とす灯乃光くんの様子に気づかなかった。
◇◇◇
「美鈴ちゃん? おーい、美鈴ちゃーん」
まるで石像のように固まってしまっている美鈴ちゃんの顔の前で手を振ってみるけど微動だにしない。さっきから瞬き一つしていないように見えるんだけど、大丈夫かな?
朝のHRで担任である
期末テストが近いことなんてだいぶ前からわかっていたはずだけど、恐らく認識はしていても実感として受け止めていなかったのだろう。高校生になって初めての期末テストだし、赤点は避けたい。ましてや補習なんて絶対に受けたくない。わたしも気合いを入れて頑張らなくては。
「ねぇねぇ、光ぅ、今日の放課後一緒にテス勉しよーよ」
「あ、ずるーい! 私も教えてほしい!」
「光、俺も教えて!」
「じゃあさ部活も休みだし、皆で勉強会しよーぜ」
キャッキャッ、と楽しそうな声に誘導されて顔を向ければ灯乃光くんの周りに人が集まっていた。男女問わず彼の周りには人が集まってくる。聞こえてきた会話の内容に視線が下がった。
……そっか。もしかしたら今日の勉強の約束は中止かもしれないな。あんなにたくさんの人に誘われて、わたしと勉強するよりきっと楽しいだろうし、そうなったら仕方がないよね。少し寂しいけど…………? 寂しい?
「——ね——寧羽」
「! はいっ」
胸に広がるわからない感情に首を捻っていると、いつもより真剣みを帯びた声で名前を呼ばれてびくっと肩が揺れた。無事に石化は解けたようで、美鈴ちゃんは凛々しい顔つきのまま続ける。
「寧羽
「殿?」
「我々も放課後に勉強会を決行しようと思う。このままでは正直赤点は必至。私は貴重な夏休みを補習に費やしたくはない!」
ぐっと美鈴ちゃんは拳を握る。強く意気込む様子にわたしは「……あのね、その勉強会のことなんだけど」と、念のためきょろきょろと辺りを確認して口元に手を添えると、今朝の灯乃光くんとの話を耳打ちした。美鈴ちゃんの顔がみるみるうちに険しくなっていく。
「それで、美鈴ちゃんも一緒に行こう?」
「は? なにそれ行くに決まってるだろ。美鈴ちゃん二人きりは許さないって言いましたよね」
早口で捲し立てながら横目で灯乃光くんを威嚇する美鈴ちゃんの顔が怖くて、思わずぐいっと両頬を引っ張った。
「あにふんひゃよ」
「いや、つい。ごめんね」
「……まぁいい。では本日授業が終わり次第、任務を遂行する!」
「い、イエッサー!」
敬礼を決めたところで予鈴が鳴って、席に戻る。ちらっと盗み見た灯乃光くんはパラパラと教科書をめくってなにやらノートに書き込んでいた。きっとこういう隙間時間も有効に活用しているんだろうな。わたしも見習わないと、そう思うのに伏せ目がちに視線を落とす彼の横顔から目が離せなかった。
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