第1話 ②
「ごめんね、わたしがもっとテキパキとできれば」
「いや、寧羽は一ミリも悪くないよ。悪いのは私の貴重な時間を邪魔したこの男だ」
「藤和さんが諦めて俺も参加させてくれればよかったんだよ」
「なんで私が諦めないといけないんだよ」
プリントにシャーペンをトントンと打ち付けて灯乃光くんを威嚇する。それでも一向に動こうとしない灯乃光くんを横目に美鈴ちゃんはついに諦めたように長い溜め息を吐いた。
「もういいや、これじゃ終わらないし。寧羽、頼む」
「あ、うん」
一つ一つ解答欄を埋めていく。さっきまで教室には数人残っていたけれど、今はもうわたしたちだけのようで凄く静かだ。ちらりと横を見れば灯乃光くんはプリントに視線を落としながら、時折「そこ計算違うよ」「それさ応用で——」と教えてくれている。指摘を受けると美鈴ちゃんは悔しそうにプリントを睨みながら数秒思案して、やがてまた悔しそうに灯乃光くんを一瞥しては彼ではなくわたしに教えてほしいと瞳で訴えた。どうあっても灯乃光くんには教えを乞いたくないのだろう。
「寧羽ちゃん数学得意なの?」
不意に投げかけられた質問に首を横に振る。
「得意じゃないよ。むしろ苦手な方で」
だからこうやって人に教えるのは緊張する。今回は既に授業で答え合わせを済ませた後だから気は楽だけど。美鈴ちゃんは授業中もプリントに答えを書き込むことはしなかった。追加で出された課題プリントも頭を抱えながらもちゃんと解こうと頑張っている。その姿を見ていると、苦手だけど苦手なりにしっかり教えようと気合が入る。
首を振ったわたしに灯乃光くんは意外だと目を丸くした。
「教え方すごく丁寧でわかりやすいから、てっきり得意なのかと思った」
「え、そっ、そんなことは……」
「いや、寧羽の教え方すげーわかりやすい」
「そ、そう、かな」
「おう」
大丈夫かな? 伝わってるかな? って心配だったから褒められて素直に嬉しい。どうやら苦手なりにちゃんと役目を果たすことはできているようだ。
「わからないところがあったら俺にも教えてよ。数学に関わらず」
「う、うん。わたしで力になれれば」
ふわりと柔らかな笑顔を向けられて、つられて頬が緩む。と、わたしと灯乃光くんの間ににゅっと手が伸びてきて視界が遮られた。美鈴ちゃんだ。
「寧羽、終わった」
「わあ、お疲れ様!」
美鈴ちゃんは伸ばしていた手を引っ込めると憮然とした顔を灯乃光くんに向ける。
「もう終わったから帰っていいぞ」
「せっかくだから皆で一緒に帰ろうよ」
「寧羽とは帰るけどおまえとは帰らない」
ピシャリと言い退けた美鈴ちゃんに灯乃光くんは苦笑する。
「二人とも本当に仲が良いよね。中学も一緒だったの?」
「ううん、高校からだよ」
「つっても、受験勉強は一緒にしたよな」
「? 前から友達だったとか?」
「いや」
美鈴ちゃんは緩く首を振って、筆記用具を片付けながら懐かしそうにハハッと笑う。
「どしゃ降りの日に傘吹っ飛ばされたんだよ」
「そ、その節は本当にすいませんでした」
今思い出してもあのときの出来事は申し訳なさすぎて頭を抱えてしまう。容赦なく降り注ぐ雨の中、呆然と立ち尽くす美鈴ちゃんの姿は忘れられない。
「いや、私も悪かったからな。それにあのときぶつかってなかったら、今こうして友達になれてたかわからないだろ。そう思うと感慨深いな」
確かにそうだ。ぶつかってしまったことは反省だけど、あの日の出会いが今に続いている。そう思うとあの出来事が特別なものに思えてくるな。
「あのときのハンカチ、今も持ち歩いてんの」
「あ、うん。あるよ」
床に置いていたリュックからハンカチを取り出す。薄い黄色のタオル生地の端には向日葵の刺繍が咲いている。灯乃光くんが息を呑んだ気がした。
「あー、それだ。ハハ、懐かしー」
「今度は間違えないようにチャックが付いてるところにしまってあるよ」
「なら安心だな」
頬杖をついてニッと笑う姿はあの日出会った美鈴ちゃんの印象とは全然違う。あのときの控えめに笑う姿も好きだけど、今の豪快に笑う姿も好き。
「——寧羽ちゃん、向日葵好きなの?」
ぽつりと落とされた声に顔を上げる。
「そのハンカチの刺繍、向日葵でしょう」
灯乃光くんの長い指先がハンカチに向けられて、そこに視線を落とす灯乃光くんの瞳は優しい色を帯びていて、ここではないどこかに思いを馳せているようなそんな表情に返事をするのが遅れてしまった。
「そ、そうなの。母が刺繍が得意で」
「そうなんだね。すごく綺麗だ」
自分の宝物とも呼べるものを褒められて嬉しくなる。母が縫ってくれてものだから尚更。
「これは御守りなんだ」
「御守り?」
「うん。ずっと小さい頃から向日葵はわたしにとって特別な花なの。美鈴ちゃんをずぶ濡れにしてしまったとき、間違えてこのハンカチを渡してしまったんだけど、ちゃんと返ってきた」
家に帰って普段使いのハンカチが顔を出したとき、もう戻ってくることはないだろう向日葵に酷く落ち込んだ。だから美鈴ちゃんがハンカチを返しに来てくれたとき本当に本当に嬉しかった。
「美鈴ちゃんに感謝だよ。美鈴ちゃんと友達になるきっかけをくれたこのハンカチにも」
「よ、よせやい。照れるだろ」
言葉通り照れくさそうに目を逸らす美鈴ちゃんに微笑をこぼし、ハンカチへと視線を落とす。そこに咲く向日葵を指先で撫で、幼い日の大切な記憶に思いを馳せる。あのときのあの男の子は元気にしてるかな。また会えるといいな。
顔を上げると優しい目をした灯乃光くんと視線が重なって、そういえば向日葵が好きなのかと訊かれたことを思い出した。
「好きだよ」
え? と灯乃光くんの目が大きく開かれる。
「向日葵大好きです」
もう一度刺繍を指で撫でた。もうずっと持ち歩いているものだから糸が少し色褪せてしまっているけれど、わたしの記憶の中の向日葵は今もまだ色鮮やかに咲いている。
「俺も、だよ。俺も好き」
ふわりと花が咲くような笑顔が窓から差し込む夕日に照らされた。どこか懐かしさを感じて心の奥をくすぐられるような不思議な感覚。近くて遠くて手を伸ばせば掴めそうなのに届かない。
「一応言っておくけど、今の好きは“向日葵が”だからな。灯乃、おまえじゃないからな」
「わ、わかってるよ!」
じとりとした目で見られて灯乃光くんの頬が赤く染まる。こちらを窺うように向けられた瞳は視線が重なると背けられてしまった。なぜ。
ぱちぱちと数回瞬きをして、逸らされた灯乃光くんの横顔を見つめる。普段これでもかというほどわたしを真っ直ぐに捉える瞳が今はそっぽを向いていて、それでもチラチラとこちらを窺う姿がなんだか可愛い。髪の隙間から覗く耳は頬と同じようにほんのりと赤く染まっていた。
「あの、さ、寧羽ちゃ——」
「光くん、ちょっといいかな」
意を決したようにこちらに向けられた瞳がいつものようにわたしを捉える。言いかけた言葉は廊下から教室を覗き込むようにして彼の名前を呼ぶ女の子に遮られてしまった。
灯乃光くんの顔が教室の後ろの出入り口へと向けられる。
「うん、なに?」
「は、話があって。できれば場所を変えたいんだけど」
もじもじと所作なさげな様子で灯乃光くんの返事を待つ女の子を頬杖をついて眺めていた美鈴ちゃんは、徐に立ち上がると帰り支度を始めてしまった。
「寧羽、帰ろうぜ」
「あ、うん」
流れる微妙な空気に席を立つ。リュックを背負ったところでこちらを見上げる灯乃光くんと視線がぶつかった。形の良い唇が残念そうに「またね」と紡いで微笑む。またね、そう返す前に彼は教室の前で待っている女の子の元へと歩いて行ってしまった。その背中を見送って、まるで見上げた夜空に浮かぶお月様が雲に隠されてしまったような、なんともいえない寂しさのようなものを感じて振り払うように
「腹減った。コンビニ行こう」
「いいけど、まずは職員室だよ。プリント提出しないと」
「あ、そうだったわ」
さっき、灯乃光くんは何を言いかけていたんだろう。真っ直ぐに向けられた綺麗な瞳が不安そうに揺れていた。「向日葵好きなの?」そう訊いた灯乃光くんの表情が寂しそうで、泣き出してしまいそうなほど弱々しく笑うから理由はわからないけど思い出すと胸の辺りがざわざわする。そうだ、屋上で初めて会ったときも灯乃光くんはそんな
「なあどうする? どっちがいいと思う?」
「え、あっ、ごめん。なんだっけ」
「だからな? アイスにするか肉まんにするか迷う!」
「アイスか肉まん……両極端だね」
気になることはあるけど、また明日も灯乃光くんは笑顔でおはようと声をかけてくれるのだろう。今朝まで嫌だった恒例のイベントがほんの少しだけ待ち遠しい。
それから課題プリントを無事に提出して、わたしたちはまだ寒さの残る五月の風を感じながら学校を後にした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます