第3話 ②

 



 ドアノブを回して鉄製の無機質な扉を押し開ける。キィッと音を立てて開いた扉の先に広がるこの爽やかな青空も、もうすぐ梅雨がきて曇り空が多くなる。まだ少し肌寒い風と鳥の囀り、どこからか聞こえてくる車の音。風景に溶け込むそれらを感じながら、待たせていた人物の元へ駆け寄った。


「美鈴ちゃんごめんね、お待たせしました」

「お、やっときた。遅いから心配したんだぞ」

「ごめんなさい。その、自販機が混んでて」


 へら、と笑みを浮かべてみせる。美鈴ちゃんに初めて嘘をついたかもしれない。嘘と言えるような嘘じゃないのかもしれないけど、罪悪感で少し居心地が悪い。空を見上げれば真っ白な雲がゆっくりと形を変えながらぷかぷかと気持ち良さそうに青空を泳いでいた。


「腹減ったぁ、早く食べよう」

「わわ、ごめんね。先に食べててもらえばよかったね」

「いーんだよ。寧羽と一緒に食べたいんだから」


 ほら早く座れよ、と言われて美鈴ちゃんと向かい合う形で腰を下ろす。フェンスの高い屋上は基本的に出入りは自由で、お昼になると賑やかになるけど今日は思ったほど人はいなくて割と静かな空気が流れていた。もっと混んでると思ったのに。


「昨日な、ご近所さんに果物いっぱいもらってさ。寧羽と食べようと思ってたくさん持ってきた」


 そう言って見せてくれたタッパーにはカットされたりんごやキウイなどの色とりどりの果物が詰められていて、どれも美味しそう。


「弁当食べたら一緒に食べような」

「わあ、ありがとう」


 幸せそうにお弁当を頬張る美鈴ちゃんを前に自分のお弁当を広げる。いただきますと手を合わせ、口に運んだ卵焼きが甘くて美味しくて失っていた食欲を呼び戻す。美鈴ちゃんと他愛のない話をしながらお弁当を食べるこの時間がすごく楽しい。相槌を打ちながら話を聞いていると、ふと美鈴ちゃんが箸を止めた。


「……なあ、寧羽。何かあった?」


 ドキリと心臓が跳ねる。


「え、ううん何もないよ。どうかした?」

「あー、いや。なんか表情が硬いっつーか。うん、何かあったのかなって」


 自分では普段通りにできていると思っていたけど、どうやら顔に出てしまっていたようだ。美鈴ちゃんの心配そうに寄せられた眉に胸がざわりとする。


「なんでもないよ。大丈夫だよ」


 精一杯にこりと笑えば美鈴ちゃんは「そっか」と力なく微笑んだ。そんな顔させたいわけじゃないのに。話してしまった方がいいのだろうか……でもわざわざ言うことでもない。余計に心配をかけるだけだし。あんな言葉さらっと流してしまえばいい。そう思えたらいいのに、灯乃光くんの顔が頭をよぎっては複雑な気持ちでいっぱいになる。

 知らず知らず俯いていたわたしの耳に、美鈴ちゃんの芯の通った強く優しい声が届いた。


「なあ寧羽、言いたくなければ無理には聞かないよ。話したくないこともあるだろうしな」

「……」

「けどさ、話してくれたらもしかしたらさ、私でも力になれるかもしれないだろ」

「美鈴ちゃん」

「だから寧羽が話したくなったらいつでも聞くぞ。そしたら私、全力で力になるから!」


 な、と今日の青空に負けないキラキラとした笑顔にふっと力が抜ける。いつの間にか肩に力が入って自分の心を締めつけていたようだ。でも、そっか。わたしにはわたしを良く思っていない人もいるけど、こうして心配してくれて力になると笑いかけてくれる友達もいる。その事実が嬉しくて心強くて、自然と口角が上がった。


「ありがとう。美鈴ちゃん」

「おう! ってまだ何もできてないけど」

「そんなことないよ、美鈴ちゃんにはたくさん助けられてるよ」

「え、そう? そうならいいんだけど」


 照れくさそうに頭を掻く美鈴ちゃんにふふ、と笑みがこぼれた。ちょっと泣きそうになったのは内緒だ。



          ◇◇◇



「よし、そろそろ戻るか」


 立ち上がってうーん、と伸びをする美鈴ちゃんを昼食を終えて眠気に襲われた眼で見上げる。ゆったりとした時間と空気、それから程よい満腹感が睡魔を呼ぶには十分すぎる。


「わたしもう少し風にあたっていくよ」


 心地よいこの空間から離れがたくてそう言えば、美鈴ちゃんは仕方ないなという顔で頷いた。


「それじゃあ先に戻ってるな。うっかり寝るなよー」

「うん。あの、美鈴ちゃん」

「ん?」

「ありがとう。ちょっと落ち込んでたんだけど、美鈴ちゃんのおかげで元気でたよ」


 今こうして落ち着いた気持ちでいられるのは紛れもなく美鈴ちゃんのおかげだ。一人だったらきっとあのままぐちゃぐちゃと考えて、食事も喉を通らなかっただろう。

 美鈴ちゃんはきょとんとして、それからふっと目を細めた。


「ん」


 短くこぼしてくしゃくしゃとわたしの頭を撫で、屋上を出ていく。美鈴ちゃんがいなくなった屋上は少し寂しくて、気がつけば貸切状態になっていた。スマホを取り出して時間を確認する。授業が始まるまであと少し。もう少しだけと空を仰いだ。


「——本当にここにいた」


 ガチャッと無機質な音と聞こえた柔らかな声に振り返る。灯乃光くんがいた。彼はそっと扉を閉めてわたしの隣に腰を下ろす。あまりにも自然な動作に声を出すのも忘れて見入ってしまった。


「あの、なんでここに」


 ハッとしてこぼした問いかけに灯乃光くんは爽やかに微笑む。


「藤和さんにここにいるって聞いて」

「そう、ですか」


 ん? 美鈴ちゃんに聞いて、だからどうしてここに来たんだろう。わたしに何か用でもあるのだろうか。数秒待ってみたけれど灯乃光くんからは特になにもないようで、疑問の視線をぶつけてもいい笑顔を返されるだけだった。


「もう授業始まるよね」


 立ち上がって軽くスカートを払う。それもそうだけど、なんとなく灯乃光くんと二人でいるのが気まずい。灯乃光くんは何も悪くない。わたしが勝手に気まずくなっているだけだ。


「遅刻したら目立っちゃうよ」


 今のは自分でもぎこちない笑顔だっただろうなと思う。何かつっこまれる前に去ろう、そう思って踏み出した一歩は「待って」と手を握られて止められた。

 事態の把握に思考をフル回転させる。辺りを見回して誰もいないことを確認するとほっと胸を撫で下ろした。


「あ、あの」


 縋るように見上げてくる灯乃光くんの視界に入るように、握られている手を移動する。


「て、手を離していただいても?」

「! ご、ごめん!!」


 しまったという顔をして頬を染める姿にさっきとは違う気まずさが漂う。この様子を見ると寝癖を直してくれようとしたときのあの行為は、本当にただの親切で本人に頭を撫でていたという自覚はなかったのだろう。思い浮かぶ距離の近さの数々も。


「……どうかした?」

「え!」

「何か用があったから引き止めたんじゃないの?」


 まだ顔が赤い。


「こんなこと言うのはよくないってわかってるんだけど」


 え、いったい何を言うつもりなの。

 彷徨わせていた視線をわたしに重ねて口にした前置きにドキドキする。何を言われるのか、来るかもしれないダメージに緊張しながら言葉を待つ。見上げてくる瞳が揺れている。


「もう少し一緒にいたい。……このまま授業さぼ——」


 ——キーンコーンカーンコーン、キーンコーンカーンコーン。


「…………授業始まっちゃったね」

「うん」


 屋上に響く大きな鐘の音に、灯乃光くんの言葉は最後まで紡がれないままかき消される。なんというか、灯乃光くんってよく何かに言葉を遮られるな。普段は器用でなんでもそつなくこなす印象なのに。間が悪い、というかなんというか……なんとなく言わんとしたことはわかったけど。今から走っても遅刻は遅刻、目立つだろうなぁ。

 沈黙に灯乃光くんは申し訳なさそうに目を伏せた。


「ごめん、俺が引き止めようとしたせいで」


 あのまま授業を報せる鐘が鳴ることもなく引き止められていたら確実に断っていた。だって灯乃光くんと二人はやっぱり気まずい。わたしは溜め息にも満たないくらい小さく息を吐くと、さっきまで座っていた場所に腰を下ろした。


「わたしも早く行動しなかったから、気にしないで」


 大丈夫だよ、そう言うとほっとしたような、嬉しい嬉しいと伝わってくる表情に反応に困った。

 本当にどうして彼はこんなにわたしに懐いてしまったのか。噂をされる。どうして、なんでいつも構ってもらえるの。どうして隣にいるの。調子に乗るな、ただの気まぐれ、バカじゃないの、釣り合ってない、いい気になるな、ムカつく。どれもこれも言われる度に思う。わたしだってわからないよって。

 友達って自然となっているものだと思っていた。だから最初は確かに灯乃光くんのことが苦手だったけど、少しずつ彼を知って今のわたしにとって灯乃光くんは友達だった。友達だと思っていた。


「今日は本当にいい天気だね」

「え、あ、うん。そうだね」


 しまった。思考の波に呑まれるところだった。灯乃光くんはニコニコと空を仰いでいて、ただそれだけで絵になる姿に感心してしまう。本当に綺麗な人だと思う。太陽がよく似合う、あたたかい人。


「梅雨がきたらしばらくこうして屋上に来られないのが残念だな」

「屋上好きなの?」

「好き。寧羽ちゃんと会えた大切な場所だし」


 真っ直ぐな言葉と向けられた笑顔が眩しくて、抱えた膝に顔をうずめる。もしやこの人は天然なのだろうか。それとも意図して言ってる? 何のために? ただ素直な気持ちをぶつけてくれているだけなのかもしれないけど、受け止める方はどうすればいい?


「……あの、どうしてわたしを気にかけてくれるの」


 膝に顔を埋めたまま、ずっと抱いていた疑問を口にする。


「屋上で会ってからずっと、わたしに構う理由がわからない」


 言葉が尻すぼみになっていく。不安が胸に広がっていく。調子に乗るな、灯乃光くんにもそう思われたらと膝を抱える手に力が入った。


「嫌だった?」


 そう問う声があまりにも寂しそうで反射的に顔を上げる。笑っているのに泣いてしまいそうな表情に胸を締めつけられて、わたしは慌てて首を横に振った。


「ち、違うよ。嫌とかじゃなくて、その、気になっただけで」

「俺は寧羽ちゃんが好きだよ。だからもっと仲良くなりたい。俺のことをもっと知ってほしい」

「……」

「そんな邪な理由」


 ふわっと笑顔の花が咲く。優しい眼差しに見つめられて心臓がドキドキと早鐘を打つ。じわりと目頭が熱くなった。好き、好き?


「そ、それはつまりわたしたちは友達ってことでいいの?」

「え」

「友達だと思っていいの」


 わたしたちの間に空いた一人分の距離を詰める。口にして自覚した。わたしは灯乃光くんの友達でいたかったんだって。友達って自然となっているものだと思っていた。周りにどう思われていようと、調子に乗っていると言われようと、わたしにとって灯乃光くんはもう大切な友達になっていた。だけどもしかしたら灯乃光くんは違うのかもしれない。友達なんて烏滸がましかっただろうか、そんなモヤモヤした気持ちが心を覆って苦しかった。今だけは彼の口から聞きたくて安心したくて縋るような気持ちで灯乃光くんを見上げる。


「う、あ……うん。もちろん」


 面食らった顔をして頷いた灯乃光くんは片手で顔を隠すように覆う。なんとも言えない気持ちが込み上げてきてふは、と吹き出すように笑ってしまった。


「よかった! よかったぁ」


 一方通行じゃなかった。わたしたちはちゃんと友達だった。湧き上がる喜びと安堵に頬が緩んで抑えられない。覆った指の隙間からわたしを見ている灯乃光くんは少し恨めしそうな顔をしてわたしの髪をさらりと撫でた。


「友達でそこまで喜ばれると複雑」

「? え」

「言っただろ、俺はもっと仲良くなりたい。もっともっと、もっと」


 彼の顔を覆っていた手が離されて、優しく細められた双眸に捕まった。こてん、と顔を傾ける姿は彼の魅力を際立たせている。


「もっと俺を見て俺を知って、もっともっと仲良くなってね」


 緩く弧を描いた唇と有無を言わせない瞳に、吸い込まれるように小さく頷きを返した。





 

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