第3話 ①
六月、
澄み渡る青空を見上げて息を吸う。朝の清々しい空気が気持ちいい。よし今日も頑張るぞ、と気合を入れて登校したわたしは到着早々、目が合った女子生徒にきつく睨まれるのだった。
「…………」
ぽと、と下駄箱にしまおうとしていた靴が手から落ちる。今までも敵意のこもった視線を受けることはあったけど、まさか朝一番で強めに睨まれるとは思わなかった。不意をつかれた衝撃に気持ちを落ち着かせるように息を吐く。まあ、そういうこともあるよね、と気を取り直して落とした靴を拾おうと手を伸ばした。
入学して二ヶ月でここまで多くの女の子たちから嫌われてしまうとは想像もしてなかったな。もちろん普通に接してくれる人もいるけど。……はあ、と我知らず溜め息が漏れる。
「おはよ、寧羽」
「! 美鈴ちゃん、おはよう」
肩を叩かれて跳ねるように顔を上げると、片手を上げた友人がなにやら微妙な表情をして立っていた。
「さっきの、前に灯乃を呼びにきたやつだよな」
「え?」
「さっきおまえ睨まれてたろ」
「み、見ちゃった?」
「遠目だったけどな。雰囲気は違ってたけど、同じやつだろ」
「そう、だった、かな?」
淡々と靴を履き替える美鈴ちゃんの隣で記憶を辿る。言われてみればそうだったかも、くらいではっきりとは覚えていない。いつだったか放課後に灯乃光くんを呼びにきた女の子、その女の子がさっきの子だとして何故わたしは睨まれたんだろう。一緒にいたから? それくらいしか理由が思い当たらない。
灯乃光くんはモテる。ものすごく。そしてわたしはそんな灯乃光くんに何故だか懐かれていて、彼にそういう意味で好意を持つ人たちから良く思われていない。そう、良く思われていないんだ。
考え込んで動きを止めてしまっていたわたしの頭を「ま、気にするな」と軽く叩いて美鈴ちゃんははにかむ。つられて笑みを浮かべると今度こそ靴を履き替えてリュックを背負い直した。
「なあ一時間目ってなんだっけ」
「英語だよ」
「うわ、小テスト今日? 無理休みたい」
うわあ、と頭を抱える美鈴ちゃんを励ましながら教室へと向かう。いつの間にか心を覆っていたモヤモヤしたものはいなくなっていた。
◇◇◇
「寧羽ちゃん、おはよう」
ふわりと柔らかな笑みを浮かべる灯乃光くんは今日も爽やかで眩しい。「おはよう」と返すと灯乃光くんはまた嬉しそうな顔をする。それこそ尻尾が付いていたらブンブンと振り回すくらいの。
最近では朝恒例の大声で名前を呼ばれるイベントは普通の挨拶へと変わった。図書委員になって二度目の同じ当番の日に伝えたのだ。大声で名前を呼ばれるのは注目されるから得意じゃないこと。ぽつぽつと言葉を選びながら話すわたしに灯乃光くんは「ごめん、寧羽ちゃんを見つけると嬉しくてつい」と眉をハの字にさせた。次の日から灯乃光くんはわたしを見つけると嬉しそうに駆け寄ってきて普通におはよう、と声をかけてくれるようになった。それでも灯乃光くんと話していると注目はされてしまうのだけど、それは仕方がない。彼はモテるのだ。
「おい私は」
「藤和さんもおはよう」
隣でじとっと灯乃光くんを見る美鈴ちゃんは「おまえには寧羽しか見えてないのか」と呆れた顔をする。
「そうかもしれない」
「即答かよ」
そんなわけないだろう。と心の中でツッコミながら教室へと向かう。後ろを歩く二人の会話は英語の小テストに変わっていた。最近はこうして三人でいることが多くなった。最初は灯乃光くんが顔を出すだけで嫌な顔をして文句を言っていた美鈴ちゃんも、諦めたのか溜め息を吐くだけにとどまっている。わたしはわたしで誰かの視線に慣れつつあった。睨まれたりするのはさすがにまだ胸がヒュッとなるけど。
教室に着いてそれぞれ自分の席へ鞄を置きに行く。「おはよう」と後ろから声をかけられて振り返ると真後ろの男の子と目が合った。
「お、おはよ、う、ござい、ます」
突然の挨拶に驚いて小間切れになってしまった。動揺を前面に出した挨拶を聞き届けて、授業の準備を始めた男の子にわたしも背を向けて席に着く。
後ろの席の男の子は「ありがとう」を丁寧に言ってくれる人だ。前からまわってきたプリントを渡すとき、落ちた消しゴムを拾ってあげたとき、教室の入り口でかち合って道を譲ったとき、そんな日常にある様々な場面で彼は口元を少し緩めて「ありがとう」と丁寧に言ってくれる。
会話らしい会話は特になくて「おはよう」も「またね」も今までした記憶はなかった。驚いてしまってぎこちない挨拶になってしまったけど、おはようと声をかけられて嫌な気はしない。むしろ同級生との普通のやりとりに喜びすら感じる。
今度は自然におはようと返せるといいな、そう思いながら鞄の中から教科書やら筆記用具を取り出して机の中にしまった。
◇◇◇
「あ」
「どした?」
お昼休み、今日は天気が良いから外で食べようと美鈴ちゃんと二人、屋上に向かっていた足を止める。
「飲み物買うの忘れちゃった。すぐに買ってくるから先に行ってて」
「わかった。一人で大丈夫か?」
「大丈夫だよ」
片手を上げて踵を返す。走らないくらいの早歩きで購買近くの自動販売機に急ぐ。他にも何ヵ所か自販機はあるけれどここからだと購買の近くが一番近い。今の時間、購買は混んでいるだろうから普段はあまり近づかないけど、自販機も並んでたりするのかな。
「——あ、よかった。空いてる」
二台並ぶ自動販売機には二人ほど並んでいただけで、すんなりと飲み物を買うことができた。来る途中に横切った購買は溢れんばかりの人が押し寄せていたから心配していたけどよかった。ひんやりと冷たいペットボトルを片手に来た道を戻る。今日は本当にいい天気だから屋上も人が多いかもしれないなぁ。
「そういえば
「えーうそ、てか告ったんだぁ。いつ?」
「…………」
不意に聞こえてきた会話に反射的に足を止めた。階段の下で話しているようだけど、不可抗力とはいえ知った人物の名前が出た会話と、その内容にこのまま進んでもいいものか迷う。幸いわたしのいる場所は、階段の手前の廊下で死角になっているけれど、屋上に向かう為にこのまま階段を使って上がりたい。もしかしたらわたしの知っている彼とは違う人物の話しかもしれないし、と一歩前に出る。
「…………」
……やめておこう。しょうがない、違う階段を使おう。一応、念の為。
そう思ってまたもや来た道を戻ろうとしたわたしは、再び足を止めた。
「てか本当に湖浜なにって感じだよね。紗英が光を呼びに行ったときも一緒だったんだって」
「うわまじかぁ。よく一緒にいるけどもしかして付き合ったりしてるとか」
「いやないでしょ。ありえないわ調子乗んなって」
「だよねぇ、まず釣り合ってないし。さっさと空気読んで離れろよってね」
女の子の話は尽きない。さっきまで人の悪口を言っていた口で、新発売の化粧品の話をしながら去っていく。よかった、気づかれなかったしこれで遠回りしなくて済む。
「…………」
ずしん、と心が重たい。早く美鈴ちゃんのところに行きたいのに足が根を張ったみたいに動かない。特に何か文句があるわけじゃない。言い返したいわけでもない。ただ心が重たくて苦しい。
わたしだってわからない。どうして灯乃光くんがわたしを気にかけてくれるのか。あの日、入学式のあの日、屋上で初めて会った灯乃光くんは一瞬驚いた顔をして、それから今にも泣き出してしまいそうな顔でふわりと笑った。
その表情に何も言えなくて固まってしまったわたしに、何かを言いかけた灯乃光くんの言葉を予鈴がかき消してしまう。困ったように微笑む灯乃光くんと、人見知りで戸惑うわたしの最初の思い出。
どうして灯乃光くんがわたしを構ってくれるのかはわからない。でもたった二ヶ月だけど一緒に過ごして、わたしは彼を友達と呼べる場所にいると思っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます