羊ケ丘

 今夏の異常な猛暑を引きずってか、10月頭の北海道は予定外に暑い。この日の為に全員揃って衣替えさせられた冬服のブレザーがいっそ邪魔なぐらいだ。クラスメートたちは皆、バスの中で渡された三つ折りのパンフレットでぱたぱたと首元を仰いでいる。

 明日からの――正確に言えば今日の夕方からの班行動ならともかく、初日の全体行動ともなれば教師達があちこちで常に目を光らせていて、ブレザーを脱ぐなネクタイを緩めるなとなかなかにうるさいのだ。

 青年よ大志を抱けと大地を指す銅像の博士は、果たしてそんな教師や羊の群れよりなお大人しい学生たちを来る日も来る日も一体どんな思いで迎え入れているんだろう。



「はーい、撮るよー」

 甲高い声がして一応目線を送った。

 それから、撮影用のお立ち台の上でくるっと背後を振り返る。

 ここ羊が丘の景色はなるほど素晴らしいが、いち高校生として気になるのは、目の前の放牧場よりもその先の高い空に映える銀傘のドーム球場。

 そして、某博士の銅像よりも、バスから移動する途中に広場の中央で目にしたもうひとつの石碑だ。

 


 次のグループに追い立てられるようにしてお立ち台を降りる。

「あ、俺、便所」

「俺も」

 そう言って班員二人が連れ立って売店へ向かってしまったから、俺は一人でその石碑に足を向けた。

 それはかの球団がここ北海道に本拠地を移転したことを記念するモニュメント。監督を含む当時のメンバーの名前と手形、そして開幕試合のデータが残されている。

 まだ記憶に新しくかつ現在進行形のその活躍は事前学習で学ぶことなどなかったが、少なくとも100年以上も前の博士の功績よりは素直に俺の心を熱くさせた。

「負け投手松坂大輔。へぇ、一億ドルの男もこんなとこにこうやって名前が残ってるんだな」

 新庄の手形に自分の手を重ねてみようかどうか、迷ってたところでそう声をかけられた。聞きなれた声だ。次のクラスのバスが到着したらしい。

 振り返る前にあいつが俺の隣りに並び、恐れ多くも監督の手形に自分のそれを重ねた。

「お、けっこう似てね?」

「…手だからな。大きくは違わねぇだろ」

 覗き込んできた視線を避けて言った。俺の相棒はくすくす笑い、確かに、と呟く。

 それから、記念撮影のあと同じようにここに流れてくる集団を避けるように、俺たちはなんとなくそこを離れて放牧場を囲う柵へと移動した。並んで寄りかかり、草を食み戯れる羊を眺める。

 



「あれ、羊の群れって意外と小さいな。俺、ニュージーランドみたいなの想像してた」

「ニュージーランドに行ったことがあるのかよ」

「ないけどさ」

 羊がメェーと鳴く。




「食ったことある?」

「ん?」

「羊」

「ねぇな。…多分」

「多分?多分ってなんだ、おまえんちのコロッケは偽装品か?」

「違ぇよ、小学生の頃、家族で来てさ、なんか丸い鉄板で焼肉食ったことあるなって」

「いやそれ間違いなくジンギスカンだろ。やっぱクセあんの?」

「覚えてねー」

 もう一度羊がメェーと鳴く。




 そんなことを何度か繰り返し、その鳴き声に会話を中断される度、不自然な沈黙もとい不自然な饒舌を意識する。

 クラス行動の合間のこんな僅かな時間に、わざわざ互いを見つけるようなことをして、それは果たしてこんな他愛の無い話をするためだったのか。

 曖昧な違和感が頭の片隅にずっと張り付いたままだ。

 メェーと羊が鳴く。




「夜の移動、お前らどうすんの」

 そしてその他愛なさのまま、あいつがそう聞いてきた。曖昧だと思ってたのに確実に核心は存在していて、そこを突かれて思わず息を飲む。片隅にあった違和感は弾けるように俺の頭いっぱいに広がった。

 この後早めにジンギスカン食い放題の夕食のあと、小樽の宿まで、移動を含めわずかに2時間だが班ごとの自由行動がある。班ごと、なんてのはまぁ建前で、要はホテル前で待ち合わせて面子を揃えればいいだけのことだから実際はいわゆるカップルで動くのが相当数いるらしい。こればかりは引率の教師達も黙認で、どうやら非日常の中で抑圧されて不満の塊になってる奴らが初日のホテルで間違っても間違いなど犯さないように、毎年恒例の苦肉のガス抜き策、ということらしい。

 俺には関係のない話だと、やっと今になって素直に思えるけれど。班ごとなんて建前もこうとなったらありがたい。

 お前らどうすんの、なんて聞かれたら一応の予定を答えるしかないじゃないか。

「あー、なんかラーメン食いに行くって言ってた」

 努めて何気なく言ったらあいつは面食らった顔になる。それから大袈裟に顔を顰める。

「は?ラーメン?肉食い放題のあとにラーメンかよ。お前らほんとに色気ねぇな」

 それはまさしくその通りなのに、本気で呆れて言われたことに必要以上にムカついて、言い返す。

「うるせぇよ、そういうおまえは何かあんのかよ」

 ある、なんて答えはもちろん期待しちゃいない。というより多分、そもそも期待していたのは答えなんかじゃなかった。

 我ながらどんな筋合いだか責めるような俺の視線を受けてあいつはじっと押し黙り、くるっと柵に背を預けてからわざとらしく溜息をついた。羊の声と被ったけど聞き逃さなかった。そして呟く。

「だからおまえに聞いてんだけどね」

 それは殆ど非難の響きだ。




「あー、いた!ねぇ写真撮るから早くー!」

 遠くからあいつの班の女子が呼んでいる。はいはい、と答えて俺に片手を挙げながらあいつが立ち去る。未練があるのかないのか、遠ざかる背中からなんかじゃわからない。その背中に向ける俺の呟きは多分、羊の声に掻き消されて届かないはずだから。

「わかりにくいんだよ、ばぁか」

 舌打ちしてから言ってやる。言ってみたら気が抜けた。自分の…もしかしたら、お互いのあまりの不器用さに。

 



 …わかりにくいんだよ。

  あれで誘ってるつもりかよ!


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