304号室の天使

明樹水底

私はいつもそうするように、ロサンゼルスで呼び止めたタクシーをコンプトンで降り、運転手に軽く礼を告げたあと、そこから少し離れた所にあるエズメの住むアパートへ歩いていた。人通りは多くない。皆揃って地面に目線を這わせるような格好で俯き、上着のポケットに手を入れたまま、早足ですれ違っていった。街路樹の葉はすべて落ち、裸の枝が寂しく伸びていた。空にまだ微かに色の残る頃のことだ。


目印もない、頼りない路地を左に曲がる。すると見えてくるのがエズメの住むアパートだ。壁にはたくさんの薄いひび割れが走り、ベランダや階段の手すりなどはぱきぱきと塗装が剥げ落ちていて、言ってしまえば汚らしく、おおよそ充足した幸福な人生を送っているような人間は一人も住み着いていないだろうと思わせるような、ほの暗い建造物である。だが、私はこの街をあまり良く思っていなかったけれど、唯一、彼の住む部屋だけは心から好きだった。


304号室のチャイムを指先で押すと、ややぎこちなく沈みこみ、りん、と高い音を鳴らす。錆び付いたドアが開いた向こうから現れたエズメは、私の姿を見るとくしゃりと破顔した。「こんばんは」と、私が教えた日本の挨拶をする。いつ会っても、その美貌に似合わないくたびれた汚い服を着ていた。彼は私のかじかんだ手を取ると、自分の両手で柔らかく包み込み、今度は英語で「待ってた」と短く付け加えた。(会話はほとんど英語を用いて行われた。彼は私が少しだけ教えたものの他に日本語を知らなかった)玄関に一歩入り、後ろ手に鍵を閉めてから体を抱き寄せると、腕の中に広がる骨ばった感触が、変わらないここでの生活の貧しさを伝える。肩のすぐ上まである金髪に少し指先を通して撫でてやると、「体が冷えてる」と言って、大きな目をぱちぱちと瞬きさせながら、私の首もとに手をのばしてうるさく巻きついたマフラーを外し、手際よく畳んで靴箱の上に置いた。部屋の中でも特別暖かいわけではなく、むしろロクな暖房器具もないのでかなり肌寒かったが、それでも真冬の夜をひとつ過ごすには充分だった。紅茶を淹れると言うので、カモミールはあるかと訪ねると、エズメは頷き、台所に立つ。


この部屋はいつも変わらず、アパートの3階の奥に進んで4つめの錆びたドアの向こう側にあった。最低限の質素な家具の他にはたいして物がなく、年頃の、彼のような20歳になったばかりの青年が住むにはひどく殺風景だった。若者が好む華美なインテリアは一つも置かれておらず、床でさえなにも敷かれないまま、硬い木目をむき出しにしている。彼はいつも、人が独り生きてゆくには、これで充分だと笑うのだ。(それが貧しさゆえであることは知っていたが、お互い出来るだけ口には出さなかった)


それから、私たちは小さなダイニングテーブルを挟んで向かい合わせに腰掛け

少しずつ紅茶を飲みながら、話をした。エズメはいつもするように角砂糖を指でつまみ手際よく3つも落としてしばらくかき混ぜて、とても旨そうに飲んだし、人形のそれのように美しい歯列を白くのぞかせ、からからとよく笑った。私は彼の話に控えめに相づちを打ちながら、時々自分の話もした。そんな風にして、すっかり夜が深まるまで私たちは朝食のトーストに塗ったブルーベリージャムは甘酸っぱくて旨かったが午後に食べたブルーベリーガムは最低の味だったという話や、新しく買った枕の高さがどうにも合わずに、昼寝から目覚めると首を痛めていたという話や、市場ですれ違った老女のつけていた香水の匂いがとても好みだったが、すぐに人混みに飲まれ、何を使っているのかと聞くことが出来なかったという話、それから、ジュースを飲むときについストローを噛んでしまった、洗濯をしていたら風が吹いて靴下が一足飛んでいった、路地裏で毛並みのいい野良猫を見つけた、ブラウスのボタンがひとつ外れてしまった……などと、本当に他愛のない話をして、楽しく、朗らかに笑い声をあげた。


エズメは美しく、奔放な男だった。本来、彼はそういう性質なのだ。






「カーテンを閉めよう」


20時になると、エズメはそう言って腰を上げ、小さな出窓の前に立ち、薄いレースで出来たそれに手をかけたが、しかしすぐに力なく腕をおろし、それきりしばらく黙ってしまった。その時、ひゅう、と窓硝子のむこうを冷たい風が吹き抜ける音がしたのが、なぜだか奇妙なほどに鮮明で、私にはたしかに、ただ一度きりの断末魔のように思えてならなかった。


エズメはただ、遠くの街明かりを見ていた。それはごく自然な経緯のままに、必然的に訪れた沈黙で、そして、何もかもの終わりがゆっくりと近づいていることを、私たちに知らせるためのものだった。やや病的とも言えるほどに白い肌を柔らかく照らすのは、名も知らぬ家々の明かりだった。数え切れないほどの橙色にそっと浮き立つ、この男のほっそりとした輪郭は、たしかに不幸の形をしている。


「僕はね、シュウヤが来てくれて本当に嬉しいよ」


エズメは振り向いて、とてもしなやかな所作で肩をすくめてみせ、腰掛けたまま動けないでいる私に、いっとう綺麗な微笑みを向ける。不思議な光景だと思った。淡い逆光に包まれた金色の髪も、小さな青い硝子玉のような瞳が、破けてしまいそうに薄い瞼のむこうにコロンと隠れたり、またすぐに見えたりするのも、今まで彼と過ごしてきた中でついに今夜しか出会うことのなかった、不思議で、途方もない光景だと思った。


「エズメ、きみは今、どんな気持ちがする?」

「ねえ、セックスしよう、いい気持ちにさせてよ」


それを合図に私たちは、すぐにベッドに向かい、倒れ込んで、あっという間に裸になっていた。服を脱がせると彼の体にはいつも、出来たばかりの赤いものがたくさんあって、それはいわゆるキスマークと呼ばれているものであったり、あるいは縄の擦れた痕であったり、大きなアザや刃物の切り傷、煙草を押しつけた火傷であったりと様々だったが、つまりは全て、客につけられたものだった。


エズメは男娼だ。


彼の首筋に鼻先をうずめると、それなりに人間らしい匂いがした。少しずつ荒くなる吐息をまるで交換するような距離まで顔を近づけると、熱っぽい声が、「抱いて」と響く。









初めて男に抱かれたのは、14歳の時だったと、そう、本人の口から聞いたことがある。


「僕ね、元々金持ちだったんだよ」


あの時エズメは、そう話し始めたのだった。「重役だった僕の父親が企業の金を悪いことに使ったとかなんとか」と言ってから、まあ詳しくは教えてもらえなかったけど、家族として期待されるような子供じゃなかったから、と付け加え、そして、「それで結局捨てられて、なんだかんだ体売ってんの」。こう言葉を締めて、ぎこちないほどに明るく笑っていたのを覚えている。「僕みたいな犯罪者の息子なんて、誰も引き取ってくれないでしょ」と口にしながら、ぶるぶると体を震わせるジェスチャーをして、おどけてみせていた。彼と初めてキスをしたのもその日で、4月の終わり頃の春らしく暖かな日曜で、私は44歳だった。18歳のエズメは、今より少しだけ幼い顔つきをしていた。


それから2週間して、日本から知らせが届いた。別れた妻が死んだというものだった。昔の知り合い伝いに届いたそれは定型文じみた簡素なメールで、「とても優しい方でした。桐原さんご夫婦と、短いあいだでも仲良くさせて頂けて、嬉しかったですありがとうございました。どうかお体を大切にして下さい」と結ばれていた。ふと、別れてからもう8年も経ったのか、その8年のあいだにあのひとは患い、私には何も言わずに苦しみ抜き、そして死んでいったのか、と思った。あのメールに書かれた通りに彼女はとても優しいひとで、それ故に生活はゆっくりと破綻していき、お互いが36歳になった年、ついに二人は夫婦であることをやめてしまったのだった。私は変わらず「桐原秀也」であり続けたが、彼女は苗字を戻し、その時から若い頃と同じように「荒島」と名乗った。一人の生活が始まっても仕事の忙しさは相変わらずだったし、自分の家に帰る理由のなくなった私は、ただひたすら、労働のために毎日を生きることにした。その様子を見たあの頃勤めていた日本の会社の同僚たちは、私のいないところで、若干の好奇が混じった冗談として「頭がおかしくなったんじゃないか」などと噂していた。


40歳になり、渡米した。会社の人間や友人に短い別れの言葉をかけて、まるですべてを捨てて、空っぽになるような気持ちで、旅客機の狭い座席に乗り込み、離陸してから少しだけ、遠くなっていく日本の景色を眺めたあと、静かに瞼を閉じた。


それから程なくして、勤め先を見つけた。サンノゼにある小さな新聞社で、儲かっているとは言い難いが、真摯な良い職場だった。社員たちは40歳を迎えてから突然やってきた日本人の私にも親切な、それからかなり、アメリカらしい大味で陽気な受け入れ方をしてくれて、それがとても有り難かった。さして気も使わずに距離をぐいと詰めながら、あまり質が高いとは言えないアメリカン・ジョークを飛ばす、そういう垢抜けない大雑把さが、私にある種の解放感を与えたのだ。エイブはよく休憩時間に缶コーヒーをおごってくれて、「先輩らしくしないと」と肩をすくめていた。彼が先輩でありながら、40歳の私よりもだいぶ年下であるのを絡めた

ジョークであることを知っていたから、そのたびに私はわざとらしくお辞儀をして、おどけてみせる。日本人特有のこの動作は、その場に朗らかな笑いをもたらした。アンガスは陽気で、よく笑う男だった。横に広い大きな口をぱかぱかと開け、私の肩を無遠慮に叩いては、「今夜、飲みに行こう」と、そればかり言う。連れられて行くビストロやバルは旨かったし、彼の話はいつも面白かったから、私は毎回のように快諾した。クレミーは寡黙な男で、休憩になるとデスクに座って小難しくぶ厚い本のページをめくっていることが多い。積極的、快活、とはほど遠い人物だったが、しかし、私たちはみんなクレミーが好きだった。彼の思慮深さや、寡黙さの中から時折見せる英断に一目置いていたし、なにより、話してみると意外と面白いやつだからだ。私たちはよく、彼の机に置かれた経済誌や哲学書なんかをポルノ雑誌にすり替える遊びをして、呆れられていた。ギリアンは少々夢見がちで不思議なやつだったが、絵を描くのが得意で、額に入れた風景画をオフィスの壁に飾っては、褒められて照れくさそうにしていた。ハンクは顔立ちの整った色男、しかも派手好きでとにかく女に言い寄られたが、その実硬派で、向かいのビルに入った小さなパティスリーの娘に恋心を抱き、よく私に思春期の少年のような相談を持ちかけてきた。マドックは昔コメディアンを目指していて、本人は「挫折したよ」と言うが、やはり誰かを笑わせることは好きらしかった。彼の立ち回りのおかげでみんなの緊張がほぐれることがたくさんあった。ミルトンは演劇が好きだから少ない給料を握りしめては当日券の列に並んでいて、ネヴィルは女優のおっかけをしていて、フィランダーはいつも小洒落た格好をしたキザなやつで、ランダルは、レックスは、ティフは、ヴェルノは、……、…、…、…


ああ、私はとにかく、人に恵まれている。西日の差し込む小さなオフィスで、それぞれの持ち寄った雑多な観葉植物、擦り切れたソファ、少し折れてしまったブラインド、書類の山、インクの匂い、印刷機の音、そういうものに囲まれながらデスクで背中を丸めて、反骨とジョークと詩情に満ちた独自の「新聞」を作り続ける、そんな毎日が、3年間続いたのだった。



出会いは、突然にやってくる。



43歳の初夏。良く晴れて、長袖では暑い日のことだ。私はサンタモニカのサードストリートをふらふらと歩き、時々立ち止まってはストリートパフォーマーの芸当に拍手をしたり、また、ほんの少しのチップを渡したりしていた。とくになにかの目的があるわけでもなく、ただ、海風を浴びに来たようなものだ。我ながら気の抜けた休日の過ごし方だとは思ったが、この国に移り住んでからというもの、それが性に合っているとさえ感じていた。若者たちの喧騒の間を縫って、一件のカフェを訪れた。小さな鈴のついたドアを開くと、ちりん、と軽快な音を立て、同時に、幅の良い店主が声を上げる。その明朗な調子に応え、私が笑顔を見せると、勝手にぺらぺらと、いわゆる「本日のおすすめ」とやらを語り出した。


「バナナジュースなんてどうだ、こんな暑い日にぴったりだ」

「じゃあ、それで頼むよ」


二つ返事で決めると、きっかりの3ドルと50セントを払う。程なくして、不健康そうなぐらいに鮮やかな黄色をしたバナナジュースを手渡され、それがとても冷たく、火照った手のひらに心地よかったので、私はとりあえず、ウッドデッキのテラス席へと移動することにした。


そこに、彼はいた。


オフホワイトのYシャツに、ブルーのスキニージーンズ、ターコイズのついたユニセックスなサンダル、ややつばの広いベージュの帽子。午後の木漏れ日が黄金にちらちらと舞い散る中で、彼はテラスの一番奥の席に、細くて長い脚をすらりと組んで、座っていた。肌が白いな、と思った。白人の中でも際立つそれは、輝くような初夏の景色の鮮やかさの中で、不思議と冷たそうに見える。半袖からのびる、脚と同じように細い腕、そしてその先にある指は、よく冷やされて水滴を纏った、黄色い…バナナジュースを持っていた。


結局隣に座ってしまった私は、もしかしたら、他の席も空いているのにわざわざ隣に、と気味悪がられているのではないかと少し後悔したが、それでもこっそり盗み見ては、ストローを咥えて、ゆっくりと飲んでいた。帽子のつばの陰から少しずつ見える青い瞳、それを縁取る、邪魔そうに見えるほど長い睫毛、風になびく金色の髪、きゅっと結んだ薄桃の、意志の強そうな唇。美しい人間というものがいるのだなと感心して、ヂュ、とバナナの甘さを吸い込んだ。


「それ、僕と同じだね」


突然響いた声に慌てて顔を上げると、彼がこちらを見て笑っている。初めて正面から見るその顔は、やはりいかにも精巧なビスクドールのように、つん、と澄ました美貌をたたえていた。


「あ、そう、だね。同じだ」

「ここのバナナジュース、僕、好きなんだ」

「あの、ごめん、もしかしてバレてたのかな」


こくん、と首をかしげながら、なにが?と聞き返され、瞬時に「しまった」と思った。まさか、「きみを見ていたことが」とは答えられない。私は頭をかきながら、どうしようかと少し思案する。しかし、ややあって彼が次に口を開いたとき、完全に面喰うことになった。


「知ってる。おじさん、僕のこと見てたでしょ」


あっけらかんと言い放たれては、どうすることも出来ず。


「降参、降参」


私はそう言いながら、ひらひらと両手を振って見せた。彼は、整った顔をくしゃりとさせ、よく笑ってくれた。




「私は、シュウヤ・キリハラ。きみの名前を教えて」

「僕はね、グザヴィエ・オードラン」



……


それが私とエズメの、最初の出会い。グザヴィエ・オードラン。それが偽名だと知るのは、少し先のことだった。






3ヶ月ほど経ったある日、時刻は深夜の1時を少し過ぎた頃だっただろうか、私はロサンゼルスのダウンタウンでの取材を一通り終え、未だネオンの残る繁華街で車を走らせていた。カーオーディオから流れる陽気なラジオDJの声が曲名をコールし、流行りのバラードが響き始める。センチメンタルな低音域はしっとりと鼓膜を震わせ、薄暗い車内で小さくリズムなど取りながら、気分良くハンドルを切っていた。


色とりどりのきらびやかなネオンが途切れたのに気づくのと、雨粒がフロントガラスを叩いたのは、ほぼ同時だった。ふと辺りを見回すと、車はとっくに荒れたドヤ街に入っていたし、ナビの現在地アイコンはクッキリと「スキッド・ロウ」を示していた。どうやら経由地の設定を間違え、そっくりそのまま経路を辿ってしまったらしい。そうでなければ決して通らないのに、どうしたものか、と眉をひそめる。貧困層、それからマフィアによる、強盗、殺人、強姦、薬物売買、の多発地区。早く抜けるしかない。それも、出来るだけ時間のかからない方法で。昔よりは幾分マシになったようだが、それでも近寄らないほうが無難であることは確かだ。強くなるばかりの雨足に、私はワイパーをHIに設定し、ざあざあと激しく鳴る暗闇を走った。抜け道を求めて路地を左に曲がったとき、ヘッドライトが目の前の人影を照らし出した。僅か数メートル先で、二人の人間がもみ合っているのが視界に飛び込んでくる。慌てて急ブレーキを踏む。ギギッ、と鋭い音を立てて、濡れた地面でもなんとか停止することが出来た。どうやら、一人がもう一人をほぼ一方的に殴りつけているらしかったが、私の車が引き返さないのを見て、跨っていたほうが暴行をやめてこちらに向かってきた。ただ、判断が遅れただけだった。この国では、私がかつて住んだ日本と違い、治安の悪い所ではとことん凶悪な事件が多発することも、そういうものに巡り会ってしまった時は、関わろう、助けようなどと思わず、少しも手を触れずに通り過ぎるべきだということも、すべて知っていたはずなのに、それでも、すぐに判断できなかった。男が乱暴にサイドガラスを叩く音を聞いて、自分の良心を憎んだ。


「わかった、わかったから、すぐにいなくなるよ」


だから車から離れて、バックさせてくれ、と声を絞り出しながら、ギアをRに動かした時だった。地面に突っ伏していた、つまり殴られていたほうが、ゆらりと体を起こしたかと思うと、手負いの獣のような果敢な動作で、あっという間に道の脇に落ちた角材を振り上げ、サイドガラスに張り付くようにして怒鳴っていた男のこめかみに叩きつけたのだ。体が真横に、まるで吹っ飛ぶように倒れると同時に、思いきり顔面を叩く。ガゴ、ガゴ、という鈍い音と、突然の反撃に上がるひきつれた悲鳴が何度もあって、そして、私が唖然と口を開けているうちに、男は逃げ去っていった。あとに残されたのは、私と、ヘッドライトの強烈な光に照らされ、どしゃ降りの雨に打たれながら、猛々しく肩で息をする「グザヴィエ」だけだった。


「シュウヤ」


彼はそう言って、悲しそうに微笑む。偶然にもこんなところで再会して、私は狼狽していたが、とにかく彼を乗せてやらなければと、とっさに考え、シートベルトを外し、ドアを開けた。





「大丈夫かい」


スキッド・ロウを抜け出して少し走ると、ちょうどいい路肩があったので車を止め、助手席の彼に問いかける。窓に這う雨粒が街灯に透かされ、無数の逆光のシルエットを形作っていた。「グザヴィエ」はしばらくのあいだ沈黙を貫きながら、フロントガラス越しに前を睨んでいた。


「なにか、変なこと、されなかった?」


言葉を濁してはいるが、変なこと、とはつまり、そういうことだ。彼はやや億劫そうな様子で、はあ、とため息をつく。


「心配しなくても、さんざんされたあとだよ」

「………警察に言わなきゃ」


頭が混乱した。こういうとき、どうすればいいのか。性被害に遭った人を前にしたとき、どんなことを言えばいいのか、今までの人生すべてを顧みても、想像の及ばないところだった。だから私は、決してこれ以上傷つけず、そして状況に相応しいであろうことを、と咄嗟の判断で声に出したのだが、やはり彼は、きちんと足を揃えて座り、耐えるように、青い瞳に暗闇を映していた。


シートベルトの下の薄い胸が、静かに上下する。


「いいよ、それは」

「どうして?きみが酷い目に遭ったのを、私はそのままにしておけないよ」

「べつに気にしなくていい。これは僕のことだからシュウヤが考えなくてもいい」


きっぱりと言い切られると途端になにも言えなくなる。しかしこのまま引き下がるのも、納得がいかない。八歩塞がりで、依然として私に視線をよこさない彼の「名前」を呼んだ。


「グザヴィエ」


グザヴィエ。ねえ、グザヴィエ……何度も呼びながら、私は本当に胸がばらばらに砕けるような気持ちでいた。あの日、サンタモニカのサードストリートの小さなカフェで話した少年が、旨そうにバナナジュースを飲んで笑っていた少年が、今は知らない人のように冷たい顔で、隣に座る。


「グザヴィエ。きみの好きな歌はなんだい。プレーヤーの中にあるやつなら、なんだっていい。なにか聞こう」


彼が何も答えないので、私は、出来るだけ悲しくも明るくもない曲を選び、再生のアイコンを押した。鈴を転がすような軽やかなイントロに続いて、優しい女の歌声が流れ出す。穏やかで平凡な、休日の午後を歌った歌だ。雨音ととろけるように混ざり、皮肉にも、なんとも抒情的でセンシティブな光景になってしまった。1つ目のサビが終わるまでは、そこに二人の言葉はなく、ただ、張りつめた沈黙が続くだけだった。


「僕、男娼なんだ」


ふと、彼が口にした。零れるような小さなその声は、とても寂しく響いた。


「今までにこういうことが全くなかったわけじゃないよ。黙って突っ込まれて喘いでればいいのに、酷いこと言われたからって怒ってるの顔に出しちゃって、だから逆上されてボコボコに殴られてただけ。たまにあることだから、ほんと気にしないで。まあ、今回はちょっとヤバかったから助かったけど」


男娼。この少年が、男娼。つまり体を売っているのか、たしか歳は17だったはずで、そこまでぐるりと思考を巡らせるが、ぎこちなく微笑む横顔を見れば、悲しいことだが、腑に落ちてしまう。事実、そういう子供は、この国にもたくさんいるのだ。


「グザヴィエ」

「なに?」

「こんど、美味しいランチを食べに行こう。お金なら私が出すから大丈夫。チーズをたくさん挟んだサンドイッチにしようか、それとも、オリーブとトマトのスパゲッティにしようか。いい店を知ってるんだ、よく同僚に教えてもらうから」


ややあって、くっくっ、と楽しそうに笑ってくれた。


「…………あー、気が抜けた」


私は、そうかい、よかった、と肩をすくめ、アメリカ人のよくするやり方を真似て、短く口笛を吹く。


「あのさ、"シュウヤ"っていうのは、本名なわけ」

「もちろん、そうさ。あ、もしかしてグザヴィエって偽名?」


すると彼は口の中でもごもごとなにか言った。まだ少しためらっている様子だったので、おどけてけしかける。


「もっと、おっきな声で言ってよ。どうか私の耳に届くようにね」

「エズメ・オリアーダ!"グザヴィエ"なんて、セックスするときに使う名前だよ!」


ついに、あはは、と笑い声を上げて、同時に、泣きだした。少しだけ頬を拭う動作を見せたが、すぐに諦めて脱力し、次から次へとひっきりなしに涙を零しながら、ほっとしたように笑っていた。


「ほら、僕ってなかなか綺麗な顔してるでしょ」

「そうだね。きみは美しい人だ」


だから男娼にはむいてるんだ、それ以外に出来ることなんてなんにもない人間だしね、そう続けて、エズメは鼻をすすって微笑む。


「ほんとに、今までこういうことは何度かあったんだ。だけど、なんでだろうね、ほんとになんでだろう、シュウヤの声聞いてたら、泣きたくなっちゃった。僕たち、まだ会うの2回目なのに。不思議だね」


「……エズメ。きみはこの曲、好き?」

「うん、好き。初めて聞いたけど、なんだか思い出の曲になりそう」


真新しい涙の跡をたくさんつけたエズメの顔は、こんな夜でもやはり、美しかった。唇の端が薄く切れて血が滲んでいたので、スーツの胸のポケットから絆創膏を取り出し、「貼るよ」と言うと、いつも持ってんのそれ?おじさんくさい、と笑われた。


「早くよくなりますように」

「うん、ありがと」


手早く貼り付けてしまうと、エズメはふと真顔になって、こくん、とサイドガラスにもたれかかり、濡れそぼるそれに頬を寄せ、こう言った。


「シュウヤと話すのは楽しかったから、

 だからこんなところで、こんな風に会いたくなかった」


降りしきる銀色たちはやはり、二人の空間から温度を奪い続けていく。


「ねえシュウヤ、お願いだよ。僕を救おうなんて考えないで。これは僕からの、お願い、なんだ。僕を救えるのは、この世界で僕しかいない。そうじゃなきゃだめなんだ。僕は僕の力で、ここから這い上がって、また、明るいところを歩くんだ。それが僕のたった一つの夢だよ」


静かな声だった。私は目を閉じて、ひとつ、深呼吸をする。目の前の、エズメ・オリアーダという少年との約束を、しっかりと胸に刻んでおく必要があると思ったからだ。それが未来永劫のものになるであろうことも、確信していた。


そしてこの時私は、「今日、彼と二人で夜明けを見よう」と決めた。


「ああ、私はきみを救わない。その代わり、きみが立ち向かうのを、もう一度まっすぐに歩けるようになるのを、そうして瞳をきらきらさせて私に笑いかけてくれるのを、この目で、見届けるんだ。絶対だ」


カーオーディオに繋いだプレーヤーに触れ、別の曲を選ぶ。こんどは、とびきり明るいやつがいい。思わず体が動くような、底抜けのやつにしよう。


「約束するよ、エズメ」


ギアをDに動かし、そっとアクセルを踏み込む。すると、深い暗闇の中に光が差し込み、ゆく先が照らし出された。相変わらず雨は降り止まず、道路のコンクリートで跳ね返っては、激しい音を立て続けていた。


「だから、今日は二人で、夜明けを見に行こう。最高の場所があるんだ、とにかく見晴らしが良くて、静かなところ。遠くの街まで見えるんだ。これも、同僚に教えてもらったんだけどね。それからこんど、やっぱり私たちは、美味しいランチを食べに行くべきだ」


ゆっくりと進み出し、徐々に速度を上げていく。ふふ、と笑う声が聞こえて。


「………スパゲッティがいいな。オリーブとトマトの」


エズメの声には、カフェで話したときのようなしっかりとした輪郭が戻っていた。私の好きな、明朗で芯の強い、少し大人びたそれは、そのとき確かに、二人の見る同じ未来に向かって響いていた。



――それから1年して、エズメと私は恋人になった。









私は、エズメを抱いた。


湿った体を重ね合わせ、安いキャンドルだけを灯した暗い部屋の、きしきしと音を立てる狭いベッドの上で、声を上げながら、体の中に性器を入れる、紛れもなく、セックスと呼ばれるものだった。このセックスがエズメと私にとって幸福なのか、あるいは不幸なのか、それは分からない。私たちがまだ死を選ばなかった頃、彼は「シュウヤとするのは気持ちいいから好き」と時々、口にすることがあった。「客を相手にする時と違って苦痛ではないから」という意味であることを、すぐに悟った。彼は折れそうに痩せた、まだ少年のようであるとさえ言える体で、名も知らぬ男たちの利己的な醜い欲望を、虚ろに受け止め続けていたからだ。そんな時は決まって、様々な言葉を飲み込んで、たった一言「嬉しいよ」とだけ応え、それを見た彼はいつも、朗らかそうな笑顔を浮かべていた。だから私は、このセックスが彼にとっての苦痛ではないことだけを、ただそれだけを願っていようと思う。それ以上も、それ以下も望みはしない。長い時間をかけて、ゆっくりと、優しく、彼の体を愛撫して、何度も、本当に何度も名前を呼んだ。エズメという名前は私にとって、小さな透きとおる宝石のようなものだった。同じように小さな箱の中に入れて、いつも机の引き出しの一番奥にしまっておいて、真夜中、世界のうちで自分以外の誰もが寝静まった頃に、そっと取り出して、誰にも知られずに、微かな夜の光に透かして眺めたりだとか、指でなぞって存在を確かめたりだとか、あるいは口の中に入れて舌で転がしたりだとか、そういう、愛しい、尊いものであり続けた。

それはガーネットの赤でもサファイアの青でもなく、アメジストの紫でも、ペリドットの緑でもなく、つまりどんな色でもなく、もっと別の、私の他に誰も見たことのない色の宝石だった。彼に、自分を殺してくれと頼まれた時だってそうだった。





行為を終え、裸のままベッドに横たわる。途方もなく優しい時間を、私もエズメも無言で過ごしていた。ざらついた壁にキャンドルの炎の影が長くのび、ふるふると揺らめいては、静謐で部屋を満たす。それから、夢のように秒針の音が鳴っていた。


「僕、冬は嫌いじゃないよ」


ふと、エズメが口を開くので、横になったまま左隣に体を向けると、彼は仰向けになって天井を見ていた。筋肉も脂肪も極端に少ないせいでとても薄く、それでも僅かにふっくらと曲線を描いた腹部が、呼吸にあわせて静かに上下するのを見ると、全ての人間と同じように、彼の中にも、血、肉、臓器、が沢山入っているのだと、そう思う。


「でも、春のほうがもっと好きだな」


私がなにも言わないでいると、さらに続けた。


「花がいっぱい咲くし、綺麗な鳥が鳴くし、あと、あったかいからね」


私は黙ったまま、穏やかな疲労感の残る体を起こし、ベッドの脇の低いチェストに置かれた花瓶に手をのばした。硝子で出来た細長いそれの中からカスミソウを一輪抜くと、私の動く気配にこちらを向いた彼の髪、ちょうど左耳の上のあたり、に丁寧に茎を編んだ。色素の薄い金色に、頼りないほどに小さな白い花が咲く。


「天使みたいだ」


私の言葉にエズメは、少し気恥ずかしそうに、それから嬉しそうに、くすくすと笑った。


「エズメ、きみは本当にいい子だね」


「エズメ、私は、天使とセックスをしたんだ」


「エズメ、きみの、可愛い笑顔が好きだよ」


そんな甘ったるい囁きを何度も投げかけながら、私は彼の頬や耳にゆるく触れたり、玄関で抱き寄せたときと同じ仕草で髪を撫でたりした。カタカタと、冷えきった風が薄い窓硝子を揺らす音が聞こえていた。


「ねえ、きれいに殺してね」


内緒話をするような囁き声は、ほんの少しだけ空気を震わせて、美しく溶ける。永訣をもたらす言葉、それを口にするにしてはいたずらっぽく、甘えた子猫のように目を細めた。


「お願いだよ」


私はなにも答えられず、大げさに覆いかぶさるようにして、たくさんキスをした。シーツを掴み寄せ、冗談めかして身を守るような動作で、あはは、と高い声を上げて笑う彼に、私は鼻の奥がつんと痛くなるのを感じながら、頬に、首筋に、胸に、額に、本当にそこらじゅうにキスを降らせて、とにかく、二人でシーツをしわくちゃにしてじゃれ合った。


私たちのための楽園は、もうすぐ消えてなくなってしまうのだから。


気がついたら、エズメが泣いていた。みるみるうちに顔が歪んで、涙が溢れ出して、私に組み敷かれながら彼は、ふうふうと息を荒げ、悲しいよ、悲しいよ、と何度も繰り返す。そうだ、悲しいのだ、と思った。悲しいのだ、エズメも、私も。だって、悲しくないわけがない。恋の終わりが、こんな風に訪れて 今夜、一番好きな人を殺さなくちゃいけない。どんなに運命と言い聞かせたって、抗う術を探すことを、諦めきれなかった。だから私たちは、今、悲しいのだ。


「エズメ、絶対幸せになるんだ、きみは、絶対幸せになれるんだ。そうじゃなきゃいけないんだ」


エズメは死ぬのだ。あたたかく、凍えることのない季節を、大好きな春を迎えることのないまま、エズメは今夜死ぬ、私が、殺すのだ。(私は、エズメの父親になりたかった。親友でもありたかった。永遠に恋人でいようとも、思っていた)




殺してくれと頼まれたとき、すぐに、本気で言っているのだと悟った。


星が綺麗な夜だった。この部屋の、開け放った窓辺に椅子を並べ、オリオンを眺めていた。それが唯一、夜空に見つけられる星座だったからだ。足元に置かれた低いチェストにはホットココアが置かれて、甘い湯気を立ち上らせる。エズメは寝間着の上から巻いたマフラーに時折口もとをうずめたり、白い息をたくさん吐き出してみせたりして、嬉しそうに笑っていた。


「オリオンに行こう」


ふと、他愛のない会話が途切れて、エズメはそう口にした。意図のわからない言葉に、「え?」と間の抜けた声をひとつ零した私に、彼は振り向いて、いかにも優しげな微笑みを形作ると、僕はもう、オリオンに行かなきゃいけない、と続けた。


「ロマンチックでしょ」

「二人で旅行に行くのかい、あのオリオンまで」

「ううん。シュウヤは来なくていい。僕だけ行くんだ、たった一人で」


息がとまるような気持ちになる。おそらくこの予感は当たるだろう、と、私は上着の胸のあたりを握りしめた。


「本当に、行ってしまうの」

「本当だよ、ごめんね」


次の言葉は聞きたくなかったが、だからといって、私にはどうにもできない。エズメも私も、二人とも、今までたくさん立ち向かってきた。立ち向かって、戦って、それで、だめになってしまったんだ。


「私に出来ることだったら、なんだっていい、本当に、なんでも言って」


強い風が吹きぬけて、薄いレースのカーテンを大きく揺らす。豊かな白い布地は舞い上がりかき混ぜられて、幻想のように幾重にも重なっては、すぐにほどけて、また重なり、それを繰り返して最後には、静かに体の上に降りて、私たちを隠してしまった。そのしっとりとした微かな重みと、小さな窓のあいだで、声をひそめた。


「言ってごらん」


冷たく澄んだ夜空の、とても高いところに見えるオリオンは、ここからどのぐらい離れたところで燃えているんだろう。私は、いつになったらそこに行くことが出来るんだろう。


「…………僕を、殺してほしい」


濡れた硝子玉のような青は、しっかりと私を見つめていた。




……



それからのエズメはよく笑った。

元々の明るさとは別の、なにか大切なものがぽっかりと抜け落ちてしまった、

空洞になってしまった、そういう人間の、朗らかな笑い方だった。



………






銃口をエズメの額にあてる。こつんと骨にぶつかる感触があって、ふと、これを今から砕くのだ、と思う。私の足元に跪いたエズメは胸の前で指を組み、祈るようにつぶやいた。


「僕、やっぱりオリオンじゃなくて、もっと綺麗なところがいいな」

「たとえば、どこに」


キャンドルの火を消した部屋には、蛍光灯の白い光が満ちている。エズメも私も時間をかけてシャワーを浴びて、シャツのボタンをきちんと一番上までとめて、髪を丁寧にクシでとかして、これからどこかに出かけるみたいにきちんとした格好で、目を真っ赤に腫らしていた。時計の針は午前3時を差していて、夜明けにはまだ少し時間がある。


「わからない。わからないけど、どこか遠い国。ここじゃない、遠いところ。すごく、美しい国。輝く山と川があって、春はそこらじゅうに花が咲いて、夏は緑が生い茂って、秋はたくさん果実がなって、冬は真っ白に雪が積もる、美しい国だよ。あたたかい日は細い川に小舟を浮かべて、そこで一日中過ごそう。物語を読んだり、おしゃべりしたり、レモネードを飲んだり、サンドイッチを食べたり、昼寝をしたり、歌を歌ったりして、幸せに過ごすんだ。幸せに………………とても幸せに過ごすんだ」


名もなき遠い国に息づく、豊かな山河を想像する。青々とした野原に、木漏れ日がさんざめいている。


「エズメ、そうしたら私はきみに、抱えきれないぐらいの幸せをあげる」


引き金にそっと指を添えながら言うとエズメは、ふふふ、と泣きながら笑う。この部屋はいつも変わらず、アパートの3階の、奥に進んで4つめの錆びたドアの向こう側にあった。私はこの街をあまり良く思っていなかったけれど、唯一、彼の住む部屋だけは心から好きだった。世界で一番、愛しい人の住む場所だから。


「私を見て。私のことを見つめたまま、死んでいくんだ、きみは。エズメ・オリアーダの瞳がいちばん最後に映したものは、シュウヤ・キリハラだ」


その瞳は、やはり気高く澄んでいた。だけど今夜、大好きな青を、もう二度と確かめられなくなる。


「シュウヤ、大好きだよ、愛してた」


組んだ指に、力が入るのが分かった。


ああ、私はサンノゼの小さな新聞社に勤める老いた男で、なにか特別な人格も生い立ちもなに一つなく、きっと穏やかな音階で始まった生涯を、穏やかな音階のまま終えていくはずだった。朝に起きて、夜に眠って、それなりに女に恋をして、喜びを喜んで、悲しみを悲しんで、やがて命の閉じるときを迎える、ただ、それだけでいいはずだった。


だけど私は、エズメと出会ってしまった。


「私もだよ、なによりも、誰よりも、きみを愛していた」


私をまっすぐに見上げる目がふわりと細められ、睫毛の隙間からまたひとつ、しずくが零れ落ちる。柔らかな金色がいっそう輝いて見えて、私だってどうしようもないぐらい、顔をぐしゃぐしゃにしていた。天使だ、と思った。その背中に、翼はない。


「さよなら」


エズメの声を聞いて、私は引き金を引いた。


破裂するような、高くも低くもない短い音がして、それと同時に弾丸が彼の頭を貫き、後ろの壁が真っ赤に染まった。重さを支える術を失った体は、弾着の衝撃もあり大きくぶれたかと思うと、すぐに、どたり、と斜め後ろに倒れる。指はきつく組まれたままで。私は膝から崩れ落ち、頭蓋の砕けた死体を、ぐちゃぐちゃに潰れてしまった恋人をきつくかき抱いて、声を張り上げてわんわんと泣いた。さよならなんて本当は、聞きたくなかった。


「エズメ、エズメ、エズメ、私は、これから、どうしたらいい、エズメ、きみを失って、私は、どうやって生きていけばいい」


もうすぐ夜が明ける。新しい一日が始まる。全ての命に、平等に朝はやってくる。彼のいない朝を、彼の心音が世界から消えた朝を、私は迎えるのだ。


「エズメ、エズメ、エズメ、エズメ、ああ!」



……



この世界は、絶望で出来ている

鋭利な絶望の破片がときどき光を反射して、

一瞬きらめいたりして、

それが喜びと呼ばれている


親愛なるエズメ・オリアーダ、

世界で一番、美しいきみへ


愛していたよ



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304号室の天使 明樹水底 @minasoko

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