幕間

Criminal Side

 静かな暗闇の中を、あたしはひとりきりで歩いていた。


 心音がいつになく早く感じられるのは、緊張しているから。やけに喉が渇くのも、気を抜くと肩のあたりが震えてしまうのも、多分そう。ここまで神経が張り詰めたことは、今まででただの一度だけしかない。


 あたしはについて何かしら予感めいたものを持っていた。正直言って引き返したい。帰りたい。全部放り出して、家のベッドで寝ていたい。でも、そんなことはできるわけがなくって。あたしはだから、彼女の部屋へと続く階段に足を掛ける。


 RC造のマンションの階段はしかし、あたしが一段上る度に、木でできているかのようにコツコツと乾いた音を発てる。はじめはどうにかして静かに歩こうと努力していたあたしだが、すぐに無理だと悟って、早足で歩くことにした。上からの照明の光が、ひどく眩しかった。


 302号室と書かれたドアの前に立つと、あたしはインターフォンのボタンを押した。部屋の主が近所のスーパーから帰ってきたばかりだということはわかっていた。


「どちらさまですか」


 インターフォン越しの声はあからさまに不機嫌そうだった。


「あたしよ」


「……入って」


 より不機嫌な声でそう言うと、彼女は鍵を開けてあたしをリビングルームに案内した。相変わらず小綺麗で整頓された部屋だが、テーブルの上にはまだスーパーのビニール袋が置いたままになっている。


 入っているのはシリアルと、人参、ネギか。取り急ぎ冷蔵庫に入れる必要があるものだけを片付けた、といったところだろう。上着もまだ椅子に掛けたままになっている。


「連絡もしないで来るのはよしてちょうだいっていつも言ってるでしょ」


「急ぎだったの」


「こっちにも都合ってものがあるんだから」


「わかるけど」


「大体、二十一世紀にもなって携帯電話を持ってないってのが信じられない」


「ごめん」


 彼女ははあと盛大にため息をついた。最早怒るのもばからしいというような態度だった。


「ま、これくらいにしとく。こうやってここに来たってことは、朗報を持ってきてくれたってことなんでしょうからね。座って」


 今度はあたしは黙って何も言わなかった。勧めに従って、椅子に座ることもしなかった。


 五秒、十秒。ようやく、先に椅子に腰掛けた彼女が、訝しげにあたしの顔を見上げた。


「あなたまさか――」


 その、まさかだった。


「もう少し待って欲しいの」


「待った。二ヶ月も待った。これ以上は待てない」


「まだ二ヶ月じゃない。あたしにも向こうも、心の準備ってものが――」


 どん、と彼女はテーブルに掌を叩きつけた。叩きつけた手の方が痛そうだと、あたしは場違いなことを考えた。


「あなたは『必ず別れる』と約束した。忘れたの?」


「忘れてない。――けど」


「今すぐ別れなさい。あなたには、あの人は似合わない」


 またも沈黙。今度は、視線を交錯させて。


 先に目を逸らしたのはあたしの方だった。


 息苦しさのあまりに思わずネクタイを緩める。


 否。


 本当に息苦しさを覚えたわけではない。これは演技だ。落ち着かない様子できょろきょろと室内を見回したのも、おぼつかない足取りで座っている彼女のすぐ側まで近づいたのも、すべて。


「どうするの? あたしはこれ以上待てない。もしあなたがどうしても別れないって言うんなら」


「待って!」


 肩に手を当てて、叫ぶように言う。もう片方の手で外したネクタイを握り直すのを忘れてはならない。


「だから言ったでしょ。もう待てな――」


 彼女が座ったまま振り返ろうとしたのと、あたしがネクタイを彼女の首に巻き付けたのはほとんど同時だった。


「え、な、え――?」


 状況が飲み込めず、驚きの表情を浮かべて硬直する彼女。だからあたしは、目を閉じてネクタイを強く握りしめる。


「さよなら、清乃」


「あ……ゆ……」


 それが彼女の最期の言葉となった。

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