五 「鮮新世」

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     ○


 「付き合う」という提案に、素朴な疑問を抱いた。確かに、僕が潤朱門うるみかどさんと仲良くしているところをきさぎに見せるというのはひとつの手だろう。けれども、それなら単に仲が良いというだけではだめなのだろうか。野菜ジュースのパックにストローを刺し直しながら、僕はどういうことかと訊ねた。

「そう言われても、これが一番、効果的な作戦だと思うけど。とにかくわたしは、針桐はりぎりから信頼を得なきゃいけない。けど、なぜかわたしはあの子に警戒されている」

 ところで、と潤朱門さんは、手のひらを上に向け僕の方に差し出す。

「こんなところに都合よく針桐が心を開く数少ない人物のうちのひとりがいる。運のいいことに、その人物はわたしの手下であることが既に湯之寺ゆのでらさんによって証明されている」

「そういえば、そんな理不尽な証明が、かつて世界のどこかで成されていた気がする」

天村あまむらが針桐に、わたしがいかに徳の高い人間であるかを説くというのもひとつの手だとは思う。しかしこれには、わたしがそう言わせている、というふうに邪推されるかもしれない、というリスクがどうしてもつきまとう」

 邪推というか、至極まっとうな推測で、しかも真実だ。

「だからここはいっそ、付き合ってるってことにしてしまった方がいい」

 ここだ。僕は疑問を口にする。「友だち同士、ではなくて?」

 潤朱門さんは、自らの重心をいくぶんか棚にあずけたまま、膝を伸ばし、足を交互にあげている。

「友人よりも、恋人、って言った方が嘘くささがなくなると思わない?」

 彼女曰く、正直さや誠実さを示すために大事なのは、物理的ないし精神的な負担を自らに課すことなのだそうだ。たとえば、感謝は口だけよりブランド食器セット付随で述べた方が、お金がかかってる分より気持ちが伝わるし、謝罪はお辞儀より土下座の方が、プライドを捨ててる分ずっと誠意が感じられる。そう言われれば、そういう気がする。

「同じように、友人関係よりも恋愛関係をほのめかす方が、わたしたちにとって苦痛でしょ? だからその分、疑われにくくなる。そんな負担を負ってまで、嘘をつくはずがないって」

「そこがわからない」僕は言った。理屈の部分は理解できたのに。「苦痛っていうのは、潤朱門さんは実は僕のことが苦手で、それにもかかわらず付き合ってると嘘をつくのは本来避けたいってこと?」

 すると潤朱門さんは動かしていた足を止め、眉をあげて一瞬だけ固まったと思ったら、首を前にかしげ、折り曲げた人差し指の関節を唇にくっつけてくっくっと小さく笑い始めた。教室でいつも彼女が笑っているところを見ているはずなのに、その姿に始めて遭遇したように思えた。

「自分がわたしから好かれていないはずがない、と? 別に、嫌いだとは言わないけどさあ」

 上手く伝わっていなかったようだ。「いや、苦手に思われてても不思議だとは思わないよ。僕はこの間から結構、潤朱門さんを困らせてばっかだし。そうじゃなくて、もし苦手に思ってないんだとしたら、恋愛関係を取り繕うことのどこに、苦痛が伴うのかってことを聞きたくて」

「そんなのきまってるでしょう。天村は、同じクラスの子と付き合ってるのが周囲に知られることに、抵抗を感じないとでも言うのかしら?」

 言っていることが飲みこめない。「抵抗って、どういうこと?」

「恥ずかしいとか、気まずいとかさ」

「どうして?」

 何度もしつこく疑問をぶつけすぎたのだろうか。すうっと潤朱門さんの笑顔が消えた。今度は頬に手を当てて、ううんと唸りながら悩んだような表情を見せる。

「・・・・・・。なの? 情動が弱いっていうのは」

「そういうものっていうのは?」また疑問形になってしまった。申し訳ない。

 僕の問いに答えるかわりに、潤朱門さんはさっきよりも含みのある笑顔を浮かべて、

「これからもし天村に好意を抱く子が出てきたら、そいつは苦労するぞ」

 と脅かしてくる。その言葉で、僕は一年前のことを思い出し、「そういえば、前に僕と付き合ってた子も、苦労していた」とつぶやいたら、彼女はえっと今日一番の大きい声をあげ、その声を体にしまいなおすようにあわてて両手で口を押さえた。

「天村に、恋愛経験があったとは」

「学年がひとつ下の後輩で、とにかく押しの強い子だった。僕自身は、その子に特別な気持ちを抱いてたというわけじゃなかった……というと、失礼な話だけど、実際、断りきれなかったというのが、正直なところで。いい子だったし、あえて拒否する理由もなかった」

 そういうことか、と潤朱門さんは息をついた。「相思相愛というよりそっちの方が、むしろありそうなパターンだ」

 磁気を帯びたクリップがクリップを引っ張り上げる要領で、言葉として抽出した記憶が、また別の記憶を呼び起こす。

「でも、すぐに終わったな。付き合い始めてちょっとした時、僕の体に関しても言っておかなきゃいけないことに気づいて、打ち明けたら、数日後にごめんなさいと言われた。始まりも終わりも、一方的といえば、一方的だった」

「たしかに一方的だけど」と、いつの間にか最初の位置に座り直していた潤朱門さんは、顔を傾け目線を低くし、自分のペットボトルの中の水を覗きこみながら言う。残り少ない量を、飲み干してしまおうか迷っているように見える。

「それは割と、の反応でしょ」

「僕もそう思う。だから僕の体に嫌悪感を抱いてしまったからといって、その子を責めるつもりはない。普通でいられるのは、多分潤朱門さんぐらいのものだよ」

「サイコパス様々ね」

「ただ」僕はそこで一呼吸置いた。オウム返しに「ただ?」と聞き返される。「謝られた理由というのが、今でも少し、気にかかっている」

 潤朱門さんは、何を言ってるのだ、という表情をした。

「天村がサイボーグだと知って、ドン引きしたんじゃないの?」

「それは、明らかにそうだと思う。だけども、実際に言葉として表明された理由は、違っていた」

 野菜ジュースを一口飲んで、そのときの場面を脳裏に再生する。彼女はこう言ったのだ。

「ごめんなさい。わたしは天村先輩に対する憧れを、恋愛感情だと勘違いしてたみたいです」

 乾いた声で、潤朱門さんが愛想笑いのようなことをした。

「ま、ていの良い言い訳でしょう。自分の方に原因があるってことにしてる分、偉いとも言えるし、天村の是非を問わず別れようという魂胆も伺える分、狡猾だとも言える」

「潤朱門さんは、この理由が、実は本当だったってことが、有りうると思う?」

「天村が引っかかってるのって、そこなの? 可能性の話をしてるなら、そりゃあ有り得ないとは言えないけど、それでもこの場合に関して言えば、状況を聞いた限りでは、嘘なんじゃないの」

「そういうことじゃないんだ」

 いい機会だし、僕はこれまでなんとなくでしか考えていなかったことを、なんとかかたちにすべく、奮闘してみる。「たとえば、今僕がこの野菜ジュースを飲んで、『胡椒の味が効いてておいしい』って思ったとするよね」

「野菜ジュースなのにね」

 僕は手に持ったパックを裏返して、潤朱門さんに見せた。

「でも後でラベルの成分表を見たら、胡椒じゃなくてワサビが入っていたとする。すると僕は、『あのとき抱いた感想は、間違ってたんだな』と理解することになる。この話に、変なところはある?」

「ワサビの混入以外、どこにもおかしいところはないね」

「それじゃあ次に、未来の僕は舌が肥えて、よっぽどの料理じゃないと、満足できなくなったとする。そしてこう思うんだ。『ああ、昔、あの野菜ジュースを飲んだ僕は、本当はまずい飲み物だったはずのに、おいしいと勘違いしてたんだな』」

 それはおかしいと、潤朱門さんは指摘した。

「未来の天村が同じジュースを飲んでまずいと思うことは有りうるけど、『おいしいと思った』こと自体が実は間違ってたなんてことは、有りえない。天村はそのとき、んだから」

「潤朱門さんも、そう思う? 僕は、あのときの彼女の言い訳も、これと似たようなものなんじゃないかと考えてるんだ」

「言いたいことは理解できた。要するに、天村を振った子が『恋愛感情を抱いた』ことを、後から『勘違いでした』って言い直すのは、おかしいんじゃないかってことでしょ?」

「もとから恋愛感情じゃなかったっていう可能性は、もちろんあるよ? だけど、それを確かめることは、成分表みたいな客観的な手がかりがない限り、できないんだと思う。過去の自分がどう思っていたかってことを、未来の自分が勝手に決めつける権利は、実はないんじゃないだろうか」

 僕は結構、突拍子もないことを言っているのだと思っていた。このようなことを考えてしまう理由が、僕の体の性質にあると推測していたからだ。

 つまり、僕は普通の人みたいに、木が伸びるような成長をしない。定期的に体のパーツを、ごそっと取っ替えてしまうからである。そのとき、僕は麻酔で眠っているわけだから、目が覚めるとすでに挿げ替えは終わっている。だから眠っている間の出来事に思いを馳せると、昨日までの自分とのつながりが、物理的に希薄になってしまったように感じられてくる。

 たとえるなら、僕という人間における時間の流れ方は、樹木的でなく、地層的だ。時間は確実に積み重なるけれど、近づいてよく観察してみると、ある時とある時の間が、くっきりと、明確に分かたれているのが見て取れる。

 ――と、こういう感覚は僕に特有であり、したがってそんな僕が考えついた「勘違い」の話もまた、僕にしかわからないものだと思っていた。

 ところが潤朱門さんは、両手を頭上に掲げ、背中を反って大きく伸びをすると、「まあ、その通りでしょ」と、しれっとした顔で言う。

「そうなの?」

「そうなのって、天村が言い出したんでしょうが。というか、過去の自分っていうのはさ、他人みたいなものよ。だから、過去の自分の気持ちを推し量ろうとするのは、他人の本当の気持ちを見透かそうとうするのと同じくらい、無謀な行為だとわたしは思うけど」

 そんなものなのだろうか。潤朱門さんは潤朱門さんで特殊な人だから、彼女ひとりからの共感が得られたところで、やっぱりこういう考えは一般的なんだとはまだ断定できないけれど、それでも、自分以外の人が、僕に特有だと思っていた考えに同意してくれると、どこか、救われたような気持ちになる。

「なるほどねえ」

「いや、なるほどって。もう一回言うけど、元はといえばこれ天村が言い出したことだからね?」

「そういえば、なんで僕は、こんなこと言い出したんだっけ」

 あ!と叫んで、潤朱門さんが柱にかかる時計に目をうつした。

「話、全然進んでないし! そろそろこの部屋出なきゃいけないんだけど」

 時計は、もうすぐ五時を示そうかというところだった。夏の日は長いから、夕方の感覚がつかみにくい。

「時間制限があったんだ」

「当たり前でしょ、鍵を閉めるのは、先生なんだから」

 だったら、続きは帰りながらでもと鞄をつかむと、潤朱門さんが、待てのポーズをした。なんのために天村をこの部屋に呼んだか忘れたの、と詰め寄られ、素直に謝る。

「ごめんなさい、どうしてだっけ」

「ふたりきりでいるのがバレないようにするためでしょう。つまりこの部屋を出たら、作戦会議は終了」

「それじゃあもう終わりだ」

「だからそう言ってるのに!」

 眉間にしわを寄せ、拳で宙をノックするような動きをする潤朱門さんを見たとき、ふと、僕の心の中で、ここを出るのが名残惜しいという気持ちの波が、ささやかに発生した。

 生物室にいるときの潤朱門さんは、一言で表せば、普段よりも、。表情や口調、仕草が、教室などにいるときより洗練されておらず、その不格好さがかえって人間らしい。そういう人間らしさが、どういうわけか心地いい。

「これから平日は一日おき、同じ時間にここに集合だからね。夏休みまで、あと二週間しかないんだから。悪いけど、テスト期間とか気にしてる暇はないよ」

 それなので、生物室を出る直前、潤朱門さんがこう言った時、僕はこれから二週間の楽しみができたと、ひそかに愉快な気持ちになったのだった。

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