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サイコパスは異常に利己的な存在だと言うけど、わたしからしてみたら、彼らは「利己的な存在」としてあまりにも、ぬるい。
たとえば本当に利己的な人間は、自分がそのようなやつであるということを、絶対に他人に知られないようにするだろう。
だってもし知られてしまったら、周りはわたしを警戒する。すると自らを守るために、わたしを遠ざける。そうなったらわたしはわたしの利益のために、彼らをだますことができなくなってしまう。
本当に利己的であるならば、その人は自分が利己的であることをひたすらに隠し、他人が自分に優しく振る舞ってくれるようコントロールし続けるべきだ。ほとんどのいわゆる「利己主義者」はそこが徹底できていない。だから、ぬるい。
しかし、たとえそのように他人を利他的に振る舞うよう操作できたとしても。それがどれほど首尾よく達成できたとしても。
たったひとりだけ、そのコントロールを完璧に無視できるやつがいる。
それは、過去の自分だ。
店で気になる服を見つける。わたしはそれを手に入れたいなと思う。財布を覗いたらちょうどそれを買える分のお金があったから、わたしはわたしの利益のために、その服を買う。
数日後のわたしが、そのことを悔やむ。あのとき服を買ってしまったせいで今欲しいものを買うことができず、買った服も実際に着て日の光のもとで色を見てみると案外しっくりこない。
これは例としてはあまりにも些細なものだけど、過去の自分にとって利益になっていたことが、今の自分にとってそうでなくなるということは、誰にだって経験のある、ごくありふれた事態に違いない。
けどわたしはそれがどうしても許せない。なぜあんなことをしてしまったんだろうと強い悔恨の念に駆られてしまう。でも、わたしはもうあのときの自分に対しどうすることもできない。手は届かないし、声は伝わらない。
だからわたしは、後悔の仕方を変えてみようと思った。「なぜあんなことをしてしまったんだろう」と問うことをやめようと試みた。だって、そんなのわかりきってるから。あのときのわたしは、きっとあのときのわたしにとっての最善を尽くしていたのだ。
その代わり、過去にとっての最善の行動が今のわたしに害をなしたとしても、納得のできる「論理」を求めた。過去・現在・未来のわたしが、常に同意してくれる普遍的なルールを作成して、それでわたしの行動を縛ってしまえば、たとえそれで後悔したとしても、その程度はやわらぐのではないかと考えた。わたしは、もうそうなってしまって二度と変えることのできない過去を、納得のできない結末を、どうにかして受けいれたかった。
最終的にわたしのつくりあげたルールとは、「とりかえしのつかないことをしない」というものであった。利益になることをしようというんじゃなく、不利益になることをしないという消極的な論理。何かを求めてアクションを起こすのでなく、何も起こらないのが一番平穏で安全だという論理。無駄を省き、「役に立たない」ことは避けなければならないという論理。そして、ひとつしかないものを大事にすることにエネルギーを浪費せず、かけがえのある、すなわち、交換可能なものを重んじるという論理だ。
このルールを破ってしまったとき、わたしはまた終わりの見えない後悔にさらされることだろう。だからわたしはわたしのためにこの理性を遵守しなければならない。もうあのとき味わった、体が焼け崩れてしまいそうなほどの自責に二度と苛まれないために。
○
つまるところ、
「それじゃあ、あとは、きさぎだけだな」
僕はその言い草に不満を覚える。「それだと、僕がもう頭数に入っていないんだけれども」
「わたしは茜ちゃんの下僕だという前提Aと、もとえもんはわたしの下僕だという前提Bによって、論理必然的にもとえもんは茜ちゃんの下僕という結論になるでしょ」
「その前提は、ふたつとも、今初めて教わったなあ」
「なに言ってるんですか」と、潤朱門さんが呆れた顔をする。「完全に
「そういう思い込みは捨てて、まっさらな目で世界を見ようじゃないか」
八重さんは立ち上がり、人差し指を頭上にかかげた。
「曇りなき
もしもさっき述べられた前提が正しいのであれば、そういうことになってしまうんだろうと、僕は思った。
潤朱門さんがおずおずと挙手をする。
「ありがたいと言えばありがたいんですけど、まだよく理屈がわかりません」
「そうかな? むしろ茜ちゃんにとっては、馴染み深い理屈だと思うけど」
え? と潤朱門さんが眉をひそめる。
「いや、だってさ」八重さんは、さも当然であるかのようにこう口にした。
「茜ちゃん、喋りすぎでしょ」
少しの静寂の後、僕たちはほぼ同時に、「は?」と気の抜けた声を漏らした。
「いやいや、そうでしょ? わたしは最初、もとえもんは自分のことを全部打ち明けたのに茜ちゃんはまだ何も話していないものだから、それは不公正だと言った。でも、茜ちゃんが話してくれた内容は、もとえもんが打ち明けた内容の何倍もあったよ。情報量が、全然違う。これじゃあ平等な交換になってない。だから今度は、もとえもんが茜ちゃんに、もらいすぎた分を返済しないといけない。わたし、どっか、間違ってるとこある?」
潤朱門さんが、八重さんでなくなぜかこちらを睨んだ。「これ、何なの?」
僕は本心を答えた。
「さあ。僕にも、なにがなんだか」
「百歩譲って理屈はわかったことにいたします」と、潤朱門さんは大げさにためいきをつく。「ただ、その奥にある目的の部分がさっぱりわかりません。湯之寺さん、いったい何がしたいんですか?」
「理屈の他に、何か必要なものがある?」八重さんは、あっけらかんとしている。「それに、きさぎは、手強いよ。ねえ、もとえもん」
それはそうかもしれない、と僕は思う。きさぎは、上辺だけの関係みたいなものが、どちらかというと嫌いで、仲のいい子が本当に少ない。ごく数人の親しい人と、深く付き合うタイプである。
「そのくせに、あの子は人を惹きつける何かを持っているんだよなあ」
どういうことですか、と潤朱門さんが急くように身を乗り出した。
「小学生の頃から、隠れファンのような有象無象が、きさぎには多くついてた。本人はいたって愛想の悪い子なのに、男子からも女子からもひっきりなしにラブレターをもらう。そんな子が高校生に入って、軽音部なんかで活躍し始めちゃったら、人気はますますうなぎのぼりだろうなあ」
僕はまだ、きさぎの演奏を聴いたことがない。けれども伝え聞いたところによれば、どうやら滝浜高校の軽音部というのはなかなか実力のあることで有名らしく、部内には伝統的に「選抜バンド」なるものが存在しており、きさぎはついこの間、一年生にしてそのバンドのギターボーカルに任命されたと言う。来週末のライブは、それの初お披露目を兼ねているのだそうだ。
きさぎは、潤朱門さんのことを警戒してる節がある。もしこれから、きさぎのファンみたいな人たちがクラスの中にも増えていくのだとしたら、そのせいで、潤朱門さんがクラスのコントロールをうまくできなくなってくる可能性は、あるといえば、あるかもしれない。
「でしょ? 幸いなことにもとえもんは、きさぎと幼なじみだ。茜ちゃんとしては、もとえもんをうまいこと利用して、あの子を手なづける以外に、思いつく良策もあるまい」
なぜか八重さんは、僕やきさぎを潤朱門さんの手中におさめることに、情熱を傾けている。潤朱門さんの言うとおり、理屈はなんとかわかるけど、意味がわからない。
とは言っても、と僕は八重さんの案に補足をする。「僕を間にはさんだところで、結局最後には、潤朱門さんが直接、きさぎに対して、どうアプローチするかが問題になってくるんじゃないかな。いま言ったように、きさぎは既に潤朱門さんのことを警戒してるわけだから。それに、あいつはそもそも疑り深い。コントロールしてやろうっていうより、『友だちになろう』ってくらいの気概で挑まないと、なかなか心を開くのは難しいと思うけども」
「ふむ、なるほど」と八重さんは納得してみせる。「だってさ、茜ちゃん。そういう心構えで、がんばろう」
ガッツポーズする八重さんに対し、いやあ、と潤朱門さんは見るからに不愉快そうな顔をして、さっき話しましたけど、わたしもう、友だちはこりごりなんですよね、と息の多く混じった、心底うんざりしたような声で言った。
○
目が覚める。
頭だけ動かし、壁にかけてある時計を確認する。九時をまわったところだとわかり、今回はいつもより、長めに眠っていたなと思う。
新しく取り替えた腕や足が体に馴染み、もとのように動けるようになるまでには、ほぼまる二日かかる。だから、月曜の登校に支障が出ないよう、メンテナンスは金曜の夕方から日をまたぐぐらいまでの時間を使って行われるのだ。
手を握り、力を込めてみるが、なかなか上手くいかない。けれどもメンテナンスを終えた次の日は、大体こんなものである。ただ、これまでにはなかった違和感を左腕に覚え、なんだろうと考えた。
すぐに合点がいく。昨日の午後はずっと、潤朱門さんが左腕にくっついていたのだ。
そこまで思考が及んだ時、病室の扉が開いた。
「おお、もとえもん、起きてたか」
そう言う八重さんも、寝起きの様相を隠さない。眠そうに目をこすっているし、髪の毛はボサボサだし、そもそもオレンジ色のパジャマを着てスリッパを引きずっている。いつものように研究室で夜を明かしたのだろう。
「疲れてるんじゃないの?」
大丈夫だ、と言って、八重さんは僕の足を持ち上げたり、すねをトントンと軽く叩いたりする。いくらメンテナンスの段階で神経がつながっていることを物理的に確認したとしても、僕自身が何も感じないと言ってしまったらそれまでなのだ。だからこうして土曜の朝は、八重さんに対して主観報告をするのが慣例となっている。
ひと通り触診が終わった後、僕は昨日のことを訊ねた。
「潤朱門さんは、結局どうなったの?」
メンテナンス中は、麻酔で眠っている。だからどのタイミングで彼女が帰ったのかを、僕は知らない。
「施術を始めて一番最初に手首を取り外したから、七時ぐらいには、茜ちゃんは晴れて自由の身になった」
かわいい子だったねえ、と八重さんは目を細める。
「僕は、苦労の多い子だと思った。何かと、大変そうだ」
「たった今、体が動かなくなってるもとえもんが、それを言うかね」と笑って、八重さんは何かを思い出す素振りをする。「茜ちゃんは、あれだな。『赤の女王』だ」
聞いたことはあるワードだ。が、それ以上のことに思い当たらない。
「あれ、もとえもん、文芸部のくせに知らないの? 『鏡の国のアリス』に出てくるだろ」
「そう言われると、出てきた気がするけれども、それが何で、潤朱門さんになるの? 『トマト』で、心の色も赤いから?」
それもあるね、と八重さんはむしろ今そのことに気づいたかのように頷いた。
「もとえもんは、茜ちゃんが大変そうだと言ったけれども、あの子が苦労してるのは、なにをどうするためだったっけ?」
僕は、昨日の潤朱門さんの告白を思い出す。
「なにをどうするっていうより、なにも、どうもしないためだ。潤朱門さんは、何も変わったことが起こらないように、いろいろと、気をまわしている」
『鏡の国のアリス』の中で、赤の女王はこう仰せられるのだ、と、八重さんはセリフを暗誦してみせた。
「同じ場所に留まるためには、全力で走り続けなければならない」
「それはたしかに」潤朱門さんのことを、的確にあらわしている。「でもよくそんな言葉、八重さん覚えてたね」
「うつぶせ先生から教わった。知ってるよね? まだ、もとえもんの高校にいるんだろ?」
すぐに思い当たる。しかし、うつぶせではなく、うつぶ「し」だ。それを指摘すると、
「あの人の授業中って、みんな寝てない? だから、『うつぶせ』先生」
かわいそうなあだ名だ、と先生に同情する。もっともその悲しい風景は今に至っても受け継がれているわけだけれど。
「それで、どうして
「『赤の女王仮説』っていうのがね、進化論の中に、あるらしい。昔聞いた話だから、内容は覚えてないけど。今度、調べてみたら?」
まあそれはともかく、と八重さんは僕の右手を握った。八重さんの寝起きの肌のあたたかみが、まだ完全に回復しきっていない手のひらの感覚にゆっくりと伝わってきた。
「要するに茜ちゃんは、今が全力ってことだ。もう持てる力は出し切っていて、にもかかわらず、前に進むことができない。あの子が前進するためには、さらに他の誰かが、手を引いてやらないといけないんだ。もとえもんは、茜ちゃんの言葉を昨日聴き届けた。だから君はあの子に手を差し伸べて、今走り留まっている場所の先へ、連れてってやらないといけないよ」
僕は、高校のグラウンドを音も立てずに疾走する潤朱門さんを思い浮かべた。その場に留まり続けるという想像がうまくできず、頭の中の潤朱門さんは、苦しそうな息の切らし方と対照的にグラウンドの周回を次々と重ねていっている。
彼女の手を引くには、まず追いつかなくてはいけない。僕は代わり映えのしない景色の中を全力で駆けていく潤朱門さんのもとに、どうしたらたどり着くことができるのだろうか。
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