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     ●


 かけがえのないものが嫌いだ。

 かけがえがないということは、とりかえしがつかないということだ。

 とりかえしがつかないということは、ひとつしかないということだ。

 そうわたしはひとつしかないものが嫌いだ。

 

 だからわたしは、「わたし」が嫌いだ。


     ○


「以前のわたしは、自分の能力を誇示することに抵抗が無かった」

 そう言って潤朱門うるみかどさんは、過去の出来事を語り始めた。

「だからわたしは小学生のときからずっと、クラスのリーダーみたいなものだった。どうすれば集団をうまくコントロールできるのかが、肌でわかっていた。クラス一丸となって取り組む行事に不満を漏らす少数派に、多数派の和が乱されないようにしながらまとめていく術を、なんとなく、けど深く、心得ていた」

 やっぱり、僕の見立ては正しかったのだ。潤朱門さんはたしかに、僕のクラスの見えない中心だった。バラバラの個人をひとつにまとめあげていくのが潤朱門さんの才能で、けれども今の彼女は、なぜかその力を人に見せないようにしている。

「中学二年生になって、わたしにはそれまでで一番親しい友人ができた。初めて同じクラスになった女の子で、リーダーであるがゆえに細かい雑務の多いわたしの気苦労を察して、いたわってくれる、いわゆる『人の気持ちに敏感な』子だった。そういう接し方をしてくれる子はそれまでで初めてだったから、そのときのわたしにとっては、まさしく、文字通りの意味で『かけがえのない』友だちだった」

 潤朱門さんは、割合淡々と話しているため、本当にこれが「後悔」の話なのか、いまいち判別しがたい。いぐるみがこの場にいたら、今の彼女の心の色を、なんと形容するのだろうか。

「わたしたちの高校に合唱大会ってあるでしょ?」と、潤朱門さんはそこで僕に訊ねる。

「十月の半ばだったっけ? 体育祭のすぐ後だよね」

「わたしの中学にも似たような行事が、似たような時期にあったんだよね。一年のうちの最後のイベント。クラスの、特に女子は、はりきっていた。『最高の思い出にしよう!』みたいな、照れくさいことを言っても許されてしまう空気が、わたしたちの間にはあった」

 手に持ったカップを撫でながら、青春だね、と八重やえさんが茶化す。青春以外のなにものでもないですよ、と潤朱門さんがそれに皮肉っぽく乗っかる。

「わたしの友だちはピアノを習っていたから、伴奏の係に抜擢されたんです。するとその子は、わたしを指揮者に推薦した。わたしは音楽の才能なんてからっきしだけど、クラス対抗の合唱大会、それも中学生レベルのなんて、たかが知れてるから、伴奏に合わせて手を振ってるだけで十分役割が果たせたんですね。実質、合唱の指導をしていたのはその友だちだった。家から重たいキーボードをかついで持ってきて教卓に置いて、クラスのみんなを後ろに並べて。わたしに指揮の振り方も、丁寧に教えてくれた」

 潤朱門さんは、そこで一息ついた。喉でも乾いたのか、テーブルに手を伸ばしかけたけれど、自分の分は既に無いことに気づいて、すぐに引っ込める。八重さんが「やっぱり黒蜜いる?」とポットを指し示すが、潤朱門さんは、いやいいです、と手を振った。

「でも、なかなかうまくいかない。というのも、クラスのひとりの男子が、あからさまにやる気の無い態度を見せていたんです。そもそも練習に参加しないし、たまにいると思いきや、みんなが歌う中ひとり携帯をいじっている。歌おうとする気配がまったく見受けられない」

 ここまでは、よくある話のように思える。

 八重さんが手を挙げた。

「そんなときこそ、茜ちゃんの出番じゃないの?」

 そうだ。潤朱門さんは、そのような場面で実力を発揮する人ではなかったか。

「わたしもそう思いました。合唱の指導においておよびでない分、そこで友だちを助けようって。でも、わたしがいつも和を乱す相手にそうするようにその男子を懐柔しようとすると、ますます態度が悪くなる。何を考えてそんな態度をとっているのか、その男子に関してだけはわからなかった。その子は新学期に転校してきたばかりだったから、きっとコントロールするには、まだ理解が足りないんだろうとそのときのわたしは考えました」

 だけど、と僕は言った。「それじゃあ、問題は解決していない」

「そう。その子の態度がどんどんと目に余るようになってくると、他の男子たちも感染されたようにやる気をなくしていった。練習に参加するのはほとんど女子だけになって、男女のグループの間の仲は険悪になり、いつの間にかクラスは一日中ギスギスした雰囲気になってた。それでもわたしの友だちは、その状況をなんとかしようと奮闘していた。友だちは原因の根本が男子のひとりにあるのをもちろん知ってたし、わたしがどうにもならないのも分かってたから、気を使って、わたしのいないところで、その男子を何度も説得してたらしい」

 健気だねえ、と八重さんがしみじみ呟いた。

「でもそれがいけなかったんです。友だちはできるだけその男子のプライドを傷つけないようにしてたみたいだけど、こういった配慮が逆に、そいつの勘にさわったんだと思います。ある朝、いつものように早めに学校に来て、合唱の練習を始めようとしたときのことです。そのころにはもう、朝練に参加していたのは女子だけだった。並ぶスペースを確保するために、机を動かそうとしたとき、友だちが悲鳴をあげた」

 潤朱門さんは、膝の上に乗せた両手をぐっと握った。手の甲の骨が盛り上がり、血の筋が浮く。

「キーボードの一面に雑巾が乗っていて、触ったら、やっぱり湿っていました。おそらく昨日の放課後は、もっと水浸しだったんでしょうね。当然キーボードは壊れて、音が鳴らなくなっていた」

「それは、ひどい話だね」と、八重さんは言った。僕のにぶい心にさえも、じわじわと、不快な感情がこみ上げてくる。

「女子たちは泣いている友だちを慰めたり、とうとう溜まっていた不満を爆発させたりと、まさに地獄絵図でした。死ねばいいのにだとか物騒なことを言い出す子もいる。わたしはわたしで、あんなに怒りを覚えたことはそれまでになかった。だからわたしは、その日、例の男子が来るのを待って、教室に入ってきたところを問いただし、そいつのせいだという確信を得ると、組み伏せて、みんなの見てる前で、」

 心なしか、声がかすれてきているような気がする。潤朱門さんはそのことを自覚しているのか、長めのまばたきをし、つばを飲み込むと、相変わらず淡々とした調子を維持したまま言った。

「両手の、親指以外の指を全部、順番に、折ってやった」

 潤朱門さんはそこで少し僕たちの反応を待ったが、僕も八重さんも、何も言わない。

「友だちがキーボードを弾けなくなったという被害に対してこの罰は真っ当なものだと、この選択が最善だと、わたしは考えたから。湯之寺さん、」

 なに? と八重さんは軽い調子で返事をする。

「この話、どう思いますか?」

「どうって、まあ、客観的に、冷静に考えたら、茜ちゃんのやったことは、罰としては重すぎるでしょう。キーボードが壊れたなら、弁償してもらえばいいわけだし。でも、心情としては、スカッとする話だとは思ったかな」

「天村は?」

「似たような感じだよ。僕は、そこまで爽快な気持ちにこそならなかったけど、潤朱門さんの気持ちも、わからないでもない」

「ふたりがそう感じるのはおそらく、その場面に居合わせてなくて、なおかつこの話がわたしの視点で語られているからだと思います。あのとき、校舎中に響き渡るような絶叫の中、わたしが粛々と指を折っていく様子を呆気にとられたように見ていたクラスメイト、別の教室からのぞきにきた野次馬、それに後からかけつけてきた先生たちは、我に返り、気を持ち直した途端にわたしのことを『異常』だと認識し、こいつは病院に連れて行かなければならないと寄ってたかって取り押さえにかかってきました。そしてわたしは病院の診断で『危険域』の判定を受け、そのまま中学卒業まで、病院の施設で過ごすことになった」

 八重さんは空になったカップを置くと、今度は、さっき潤朱門さんから引き受けた方を手に取り、

「ここ最近の生理検査は急激に安くて早くなったからね。とりあえず問題を起こした子には、検査を受けさせようって感じだな。しかし、たった一回問題を起こした子が、試しに検査してみたら『トマト』だったなんて、病院の人もびっくりしただろうなあ。ちょっと前の、検査にコストがかかってたころの『トマト』には、検査を受ける前から既に前科数犯とか、余裕でついてたからなあ」

と、懐かしがる。僕は潤朱門さんに、友だちはどうなったのか訊ねた。

「その事件から一ヶ月ぐらい経った頃、施設に面会にやってきたよ。ひと目見て、わたしに対し怯えていることがわかった。その子は、最初はわたしに目を合わせられずに俯いていた。しばらくすると顔を上げて、意を決したように、ある質問をしてきた」

 八重さんも僕も、黙って続きを促す。

「『○○くん、茜のことが好きだったって知ってた?』だって。だからわたしがたしなめようとすると、逆にムキになってたんだって。クラスメイトのほとんどは、そのことに薄々気づいてたらしい。わたしは、そんなこと予想だにしなかった。わたしはそれを聞いて、好きな相手に喧嘩腰になるなんて、そんな子どもみたいな話があるかよって思った。だから友だちにも、そういうふうなことをやんわりと伝えた」

 潤朱門さんはそう振り返ったが、中学生だって子どもである。僕が思うにこれはほとんど最初から最後まで、わりとありがちな話なのだ。ひとりの男子が行事を仕切る女の子のことが好きで、そのせいでかえって不和が起こり、クラス全体の結束が乱れる。ただ好意を向けられた当事者が、世間の言う「普通」と異なっていたばっかりに、大惨事を招いてしまった。それだけだ。

「そしたら、こう聞いてきた」と彼女は続ける。そして、僕の目をじっと見ると、

――茜は本当に、人の心がわからないの?

と、その友だちの真似でもしたのか、すがるような口調で、言った。

「きっと友だちはわたしの診断結果を、誰かから聞いたんだ。信じられなかったんだろうね、自分がこれまで仲良くしてきた子がそんな異常者だったなんて。だから否定して欲しかったんだと思う。『わかる』って言って欲しかったんだと思う。でも、わたしは正直に答えた。友だちに嘘をつくのは、よくないと考えたから。そのときのわたしは、本当のことを言うのが、一番いいと思ったから」


――ごめんね。わたしには、あいつの痛みも、あなたの心も、さっぱりわからない。


 その言葉を聞いた潤朱門さんの友だちの心を、想像してみる。「人の気持ちに敏感な」子だったと言うから、潤朱門さんの無慈悲な答えは、きっと彼女にとって余計に、重く悲しいものとして響いただろう。

「それっきり、友だちは施設に来なくなった。わたしには結局言わなかったけど、もしかしたらあの子は、その男子が好きだったのかもしれない。あの子を見てそう思ったというより、一連の事件全体を鑑みて、そう考えるといろんな辻褄が合ってくるってだけの、完全な憶測だけど。でも、あの子の最後の質問は、ひょっとしたらそのことを知っていたかどうかを訊ねる意図もあったのかもしれない。それはわからない。わたしは最後の質問を受けたときも、それに答えた後のあの子の表情を見たときでさえも、彼女の心の痛みをちっとも理解できなかったんだから」

 こうしてわたしは、「最高の思い出」と、自分を好いてくれる男子と、かけがえのない友だちを同時になくしたんだ、とわざとらしくカラリとした口調で自嘲し、潤朱門さんは過去の出来事を語り終えた。

 これまでの三ヶ月の、彼女に関する様々な断片が、徐々につながってきたような気がした。

 たしかに、先月の学校祭における潤朱門さんの振る舞いは、クラスの雰囲気を盛り上げようというよりか、行事において必ず発生する細かな人間関係の摩擦を、手遅れになる前に処理しよう、という方針によって貫かれていた。そのような尽力があったにもかかわらず、彼女の存在感が希薄だったのは、目立つことによって自分に向けられかねない悪意を、そしてを、可能な限り避けるためだったのだろう。

「それで、もとえもんに襲いかかるくらいに見られたくなかった、茜ちゃんのケータイの中身というのは?」

 八重さんが、残されていた疑問について問うた。僕にはその答えが、潤朱門さんの話と自分自身の体験から、なんとなく予想できる。

 簡単なことですよ、と、潤朱門さんが答えた。

「クラスメイトひとりひとりの、がメモされてるんです。どのようにしてあげると喜んで、どのような言葉をかけると不機嫌になるのか。誰が誰に対して、どれくらい好意を持っていて、どれくらい嫌っているのか。そしてそれはどうしてなのか。中学のときには肌感覚でやっていたことを、今度は間違えないように、言葉として記録してるんです」

「それはいい心がけだと思うよ」と、八重さんはしきりに頷く。「それで具体的に、クラスメイトの攻略度はどれくらいなんだい?」

「ほぼコンプリートできていると思います。ただ、ふたりだけ、操作の仕方がまだ分かってない生徒がいます」

 八重さんは満面の笑みをつくって、訊ねた。

「それはわたしの知ってる子かな?」

「ひとりは確実です」

「いや、ふたりとも、八重さんは知ってると思うよ」

「え?」と潤朱門さんがこちらを見る。「どうして天村が知ってるの?」

「わたしの知っている滝高一年六組の生徒は、茜ちゃん以外に丁度ふたりしかいない、天村素雄もとおと、」

 八重さんが指を順に曲げる。

針桐はりぎりきさぎだ」

 まさしく、潤朱門さんの心の色について、弋から聞かされているふたりである。

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