四 「赤の女王」

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     ○


 結論から言ってしまえば。

 かつ、単純に言うならば。

 潤朱門うるみかどさんの目論見とは、「針桐はりぎりきさぎと友だちになる」ことである。


     ○


 トマト、コーン、セロリ、と、突如八重やえさんが、野菜の名前を連呼し始めた。

「もとえもんは、セロリ。わたしも、セロリ」

「潤朱門さん、意味わかる?」

 わかるわけないでしょ、と冷たくあしらわれた。心なしか、疲れてるように見える。

 八重さんの言うままに、自分のことをあらいざらい、潤朱門さんに打ち明けてしまった。とはいっても、ほとんど話したのは僕ではないのだけれど。

 僕の体や心のことを知る人は、まず父さんと八重さん。菊屋きくやさんを始めとする、メンテナンスのために通う研究棟のスタッフは、もちろんのことだ。学校の先生の中にも、事情を伝えてある人が何人かいる。

 それから、僕がまだ全身オリジナルで、正常な情動機能を持っていた時期を知る、きさぎ。リハビリを始めたばかりの小学生のときは、体が育ち盛りなため、義手や義足の交換を頻繁にしなければならなかったのだけれど、きさぎはよく一緒についてきて、トレーニングの手伝いをしてくれていた。きさぎが僕のことを後輩か弟のように扱うのは、その頃の名残、というのもあるのだろう。

 いぐるみには、僕から話した。針桐のいとこだからという理由もあったけれど、僕の心のあり方を正しく見抜き、しかもそのあり方をポジティブに受け止めてくれたので、それならば言ってもいいかなと思ったのだ。

 右脚が義足になった青柳あおやぎとは、まさしく病院で出会ったのだから、当然お互いの境遇について情報を交換するようになる。僕はよく彼から、リハビリのコツなどについて相談を受けている。大抵最後には努力次第という結論に至るのだけれど、そのたびに彼は、「よかった。それなら大丈夫だ」と安心してみせる。

 あともうひとり、中学とき、後輩の女の子に対しても話したことがあった。しかし、その子とはそれっきりになってしまった。こういういわゆる苦い思い出も一応ある。

 全ての場合において、何かしらの理由や事情が存在したからこそ、僕は僕について打ち明けてきた。今回もそのような事情は、あったといえばあった。けれども、全部話してしまう必要があったかと言えばわからない。

 八重さんは、潤朱門さんのことを、「かけがえのあるものが大好き」と言った。彼女に対し、「もらいすぎた分をきちんと返済しないといけない」とも言った。何か知っているのだろうか。そして、なぜ知っているのだろうか。

「どこの世界にも、業界用語というものはある」と、八重さんは空になった自分のカップに黒蜜を注ぐ。「どうしてかわかる?」

「業界用語を使うことで、自分はその世界の人間だということを、再認識したいんじゃないですかね」と、潤朱門さんは言った。

「お客さんに伝わってほしくないことを隠しながら会話するための、暗号みたいなものなんじゃないかな」と、僕は別の答えを思いつく。

「どちらも正解だけど、今回の場合はもとえもんが言った方に該当する。病院が相手にするのは、患者というデリケートな存在だから。うっかり重病であることを漏らしてしまったり、知って傷つくことを知られてしまったりする事案は、結構起こりやすいんだな」

「それじゃあ、トマトとかセロリとかっていうのも、病院業界で使われる内輪言葉なんですか?」

 八重さんは黒蜜を一口飲んだ。おいしいのに、と潤朱門さんに向けてすねてみせる。

「どうなんだろう。うちの病院では通じるけど、外では通じないみたいな、ローカル言語もいっぱいあるし。まあ少なくとも、ここでは、用語として浸透してる。ところで茜ちゃん、黒蜜はもういらないのかい?」

 潤朱門さんは、露骨に嫌がった。

「いらないですよ。こんな甘ったるいもの」

 そっかあ、それじゃあこれもわたしが飲んじゃおう、と、八重さんは向かいのカップを自分の側へ引き寄せた。

「これはね、三月の終わり頃に、臨床科の同僚から聞いたんだけど」

 途端、潤朱門さんの体がこわばるのが神経の通っていない左腕ごしにもわかった。

「隣の県の患者がね、こっちへ越してくると言う。カルテを見たら『トマト』だったから、同僚は、ああ何か、前のところにいられない事情ができたんだな、と、思ったらしい」

 少なくとも、誰のことを言おうとしているのかは、即座に気づく。

「だから、八重さん。その『トマト』っていうのが、まだなんなのかわかってないんだけれども」

「簡単なことだ。トマトはレッド、コーンはイエロー、それからセロリはグリーン。この色は、パーソナリティ障害を持った患者の、『潜在的反社会性』をあらわしている。というわけで、わたしももとえもんも、セロリ。グリーン、つまり、『安全域』ってこと。まあ、わたしたちはそもそもパーソナリティ障害の認定をされてないから、こういう三色区分の範疇外なんだけど」

「それじゃあ」

 僕が察したところを確認した潤朱門さんは、わたし、トマトって呼ばれてるんですね、と苦笑すると、

「要するに、わたしは『危険域』。正確な診断結果は、『準先天的反社会性人格障害』だった」

「まあ、有り体に言えば」八重さんは持っていたカップをテーブルに置く。「サイコパスってやつだな」

 思い出されるのは、またもや弋の言葉。

――赤色が、ゆらゆらしてた。

――火が、燃えてるみたいだった。


     ●


「パーソナリティ障害の診断方法は、大きく分けてふたつある。生理学的に見るか、行動面から見るかだ。前者の場合、遺伝子や脳を調べて、特定の機能障害があるかチェックする。後者の場合は、患者の身の回りにいる人から話を聞いたり、犯罪歴を参照したりするな」

「遺伝子で、そういうのがわかるの?」

と天村が訊ねる。

「もちろん、遺伝子だけじゃあわからないさ。いろんな側面から検討して、判定をするってこと。遺伝子が主に教えてくれるのは、障害の内容というよりもむしろ、その障害が先天的か否かってところだな。生まれつきか、環境か。茜ちゃんに関して言えば、『準先天的』ってところがポイントで、生まれつきサイコパスになる基盤は備わっていたけども、実際にスイッチを押したのは、育った環境ということになる」

「サイコパスっていうと、猟奇殺人鬼ってイメージがあるんだけど、潤朱門さんが、そういうことをしたわけじゃないんだよね?」

 そんなわけないでしょ、とわたしは答える。

 極悪非道な異常人格者=サイコパスという世に広く流布した観念は、よくある誤解だ。

 すごくシンプルに言えば、サイコパスとは「異常に利己的なやつ」のことであり、現代の医療基準では、サイコパスと見なされるには次の三項目において高いポイントを獲得しさえすればよい。

 ① 虚偽的な対人関係

 ② 感情の欠如

 ③ 衝動性

「まあ、大体合ってるって感じだな。それぞれの項目の中にも、さらに細かい区分があるし、今言ったように、犯罪歴が診断に加味される場合もある」

「ちょっと待って」天村が何か考えこむような素振りをしながら、右の手のひらを八重さんに向けた。「『感情の欠如』ってあったけれども、僕にはどうも、潤朱門さんには、ちゃんと感情が備わっているように思える」

 湯之寺さんはそれを聞いて笑った。「もとえもん、それは、演技かも知れないよ?」

「それでも、少なくともプールの泳ぎは、演技じゃなかった」

「プール?」湯之寺さんが聞き返す。

 わたしには、天村が何のことを言っているのかすぐに理解できた。あのとき、わたしは確かに演技することを忘れていたのだ。

「潤朱門さんがね、水泳の授業で、周りが驚くほど速く泳いだんだ。その時、いつもは見えなかった色が、見えたって言ってた」

「へえ!」湯之寺さんはいかにも大げさに驚いてみせ、「それで、何色だって?」

「赤だったって」

「なるほどねえ」

 と、腕組みをしながらニヤニヤ笑みを絶やさない。今度はふたりが何のことを言っているのかが、さっぱりわからなかった。「見えなかった色」というのは、さっき会話の中で出てきた「よく当たる占い師」と関係があるのだろうか。

「まあ、もとえもんが疑問を呈したポイントは、ふたつの意味で的を射ている。まずそもそも、『感情の欠如』と『衝動性』が、一見したところ矛盾してる。衝動性って感情が抑えられないってことじゃないの? でもそもそも抑える感情が欠如してるんじゃないの?ってな。これはまあ、『感情の欠如』というのが具体的に何の欠如を指しているのかわかれば、解ける問題だ」

「それで、何を指しているの?」

「まあ待て。先にもうひとつの意味の方を言ってしまうとだな、同僚いわく、この『感情の欠如』および『衝動性』という項目は、症例〈潤朱門茜〉というものの厄介さに、深く関わっているらしい」

 それにしても、おそらく湯之寺さんの言う「同僚」と思しきわたしの主治医は、ペラペラと自分の患者の情報を漏らし過ぎではないだろうか。ひょっとしたら湯之寺さんは、さっきのわたしがそうだったように、人に話さなくてもいいことを話させる妖力めいたなにかを持っているのかもしれない。

「『感情の欠如』という項目には、さらに二種類の下位区分がある。サイコパスにはそのどちらかか、あるいは両方が欠如している」

 湯之寺さんは、まず人差し指を出し、

「共感能力か」

 そして中指を出して、ピースサインをつくる。

「良心の呵責、罪悪感、責任感といった道徳的エモーションだ」

「共感能力っていうのは?」

 天村の質問に、わたしが答える。

「サイコパスは、相手の振る舞いや表情を見て、その人がどのようなことを考えているかを、頭で理解することはできる。だけど、心では理解できないの」

 情動感染、という言葉がある。近くにいる人が喜んでるとなんとなくこっちも嬉しい気分になったり、悲しんでいるとこっちも憂鬱な気持ちになったりする現象のことだ。相手の感情をその表情や動作を通じて脳がトレースし、自分の感情が変化するというのは、程度の差はあれ普通の人間になら誰にでも起こるという。けど、サイコパスには、そういうたぐいの機能が欠けている。したがって、同情が起こりにくいぶん、利己性の抑制もまた効きにくい。

 だからわたしは、たとえ天村が生身の人間で、外れた肩の激痛に狂ったように身悶えていたとしても、少なくとも彼に対する気持ちとしては、ああ、痛がっているな、以上の何かを抱かなかっただろう。「大声を出されると困るから、いっそ気絶させた方がいいのかも」と考えていた可能性すら大いにある。

「茜ちゃん、さっきわたしがもとえもんの印象を訊ねた時、こう言ったよね。『あまりにも落ち着きすぎてて、周りから訝しまれるくらいに』って。それは、実際にもとえもんに対する印象であると同時に、この子を鏡として見出した、自分自身の特徴でもあったわけだね」

 言われて、そのことに気がついた。やっぱり湯之寺さんは、人に秘密を告白させるための奇怪な技術を有しているに違いないと確信する。

 なるほどね、と天村は頷く。「共感能力や、罪悪感が無くても、それ以外の感情の『衝動性』とは矛盾しない」

「けど、そこが難しい」

「どういうこと?」

「たしかに、茜ちゃんは、基準をクリアし、サイコパスとして『トマト』の診断をもらっている。自分を装い、人を操作し、共感することも自分の行いに罪悪感を抱くこともなく、衝動にまかせて無責任な振る舞いをし、いつも静かに笑っている、反社会的極まりない危険人物だ。いつか近い将来、重犯罪に手を染めることになるかもしれない」

 わたし自身はまったく湯之寺さんの言う通りだと思ったが、天村が反論する。

「それはさすがに、言い過ぎだと思うけれど。この三ヶ月、潤朱門さんは心を隠し続けた。僕の心でさえ目に捉えることができるのに、潤朱門さんは『見えない』とまで言わしめたんだ。そこまで完璧に自分を装えるなら、少なくとも『衝動的で無責任』というのは、違うんじゃないかな」

 湯之寺さんが、予備校教師のパフォーマンスのごとき大げさなモーションで天村を指さした。

「そこだよ、もとえもん」

「え?」

「茜ちゃんはね、遺伝子判定と脳検査で、『トマト』の診断が下った。グリーンでもなく、イエローでもなく、レッド。この意味は、もとえもんが思ってるより大きいよ。だって当たり前だけど、よっぽどなことが無い限り、人を『危険域』に区分するわけないんだから。病院側からしてみれば、『危険域』の人間が『衝動的で無責任な振る舞い』をことの方が、おかしいんだ」

 なんだかよくわからなくなってきたなあ、と天村が頭を抱えた。「でも、現に潤朱門さんは、普通の人以上に、心を抑えることができている」

「単純な発想の転換だよ、もとえもん」湯之寺さんが助手を諭す探偵のような口調で言う。

が、茜ちゃんにはあるってことさ」

 湯之寺さんは、立ち上がり、こちら側のソファーにやってくると、わたしの肩に手を置いた。

「茜ちゃんには、良心の呵責も、罪悪感も、責任感も欠如している。だけど、自分自身がとった行動によって不利益を被るような羽目に陥ると、『あ、しまった!』とは思う」

「それは誰でも、そうでしょう」と、天村が言う。

「でも、サイコパスは、再び衝動にまかせて、同じ過ちを繰り返してしまうかもしれない」

 わたしに「自分のことを話せ」と言ってきたくせに、結局湯之寺さんが、大方のことを喋ってしまった。説明する労力の節約になったので別にかまわないのだけど。

「茜ちゃんは、そうじゃない。なぜならこの子は、世にも珍しい、だから」

 もっとも、ここからはわたしの出番である。

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