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○
「先輩は、関節が外れたことって、ありますか?」
来週から期末テストがあるにもかかわらず、勉強そっちのけで食い入るように本を読んでいた
「ごめん、天村。聞いてなかった」
「そうでしたか、じゃあ、いいです」
「なんだよ。言ってくれよ」
「いや、どうでもいいことなので」
気になるから言ってよ、いやいや、という無駄な押し問答が少し続いた後、僕はペンを置いて復習を中断し、結局もう一度同じことを訊ねた。すると茨島先輩は、あごに手を当て文士風なポーズをとり、窓の外を眺めながらつぶやく。
「それは本当に、脈絡がないし、どうでもいいな」
「だから言ったじゃないですか」
文芸部の部室であるところの歴史資料室には、僕と、二年の茨島先輩しかいない。
とはいっても、文芸部全体の部員数は三人だけなので、出席率としてはいい方である。もうひとりいる三年の先輩は、去年の頭に本当に作家としてデビューし、忙しくなったせいで逆に部活に出られることが少なくなった。茨島先輩は、そのことを宣伝するという戦略がまったく思い浮かばないまま、新入生の部活の最終決定日を越してしまい、部員を増やす絶好のチャンスを逃したのだった。「ミーハーなやつが集まらなくてかえってよかった」と、後に先輩は自らの失敗を正当化していた。
「それじゃあどうして、そんなこと聞いたんだ」
「いえ、外れたら、どのくらい痛いんだろうと思いまして」
金曜日に僕は、「生身の人の肩が外れたら激痛が走るだろう」と八重さんに言った。けれども、ものごころついたときから生身でなかった僕は、実際のところ、その痛みというものがどんなものなのか、よくわかっていない。
茨島先輩は、腕を組んで答えた。
「そりゃあ、すごい痛いに決まってる」
「先輩は外れたことあるんですか?」
「無いな」
「どうして痛いって分かるんですか」
あのなあ、と人差し指でこめかみをつつく。
「天村は銃で撃たれたことないだろ? でも、撃たれたらとんでもなく痛いのは知ってるはずだ」
「それは、映画とかで、尋常じゃない痛がり方をしてる俳優を見てるから、僕らもなんとなくそう思い込んでるだけじゃないんですかね」
「おいおい、話ぶれるだろうが。映画とか俳優じゃなくて、関節の話をしてるんだろ?」
「先輩が、銃の話を出してきたんじゃないですか」
「ともかく、関節が外れた痛みが、並外れていないわけがない。『関節が外れる』というのは、昔から、重大な事件を指す比喩として使われていたんだ」
そう言って茨島先輩は、読んでいた本を手に取ると、その表紙を
先輩は、小説をまったく読まない代わりに、いつも戯曲の本のページをめくっている。その傾向は創作にもあらわれており、ときには演劇部に頼まれて、台本を提供することもあるというのだけれど、部に入って半年も満たない僕は、まだその場面を見たことがない。
「『ハムレット』はな、主人公が、やることなすこと裏目にでて困る話だ」
僕も、頑張って読んだことがあるので中身は知っていた。しかし、そんな単純なあらすじではなかった気がする。
「冒頭でハムレットは、父親の幽霊からとある衝撃の真実を告げられるんだが、そこでこう言うわけだ。『世の中の関節は外れてしまった!』ってな。わかるか、天村? 自分の生活の枠組みが壊れて、何か非日常的な出来事が勃発した状態を、中世のイギリス人は、『関節が外れた』と表現したんだ」
「あの、先輩。これは言いにくいことなんですが」
「なんだ。言いにくいことでも、言うといいよ」
「僕の読んだ『ハムレット』の翻訳では、『世の中の関節』の部分は、『この世のたが』になってました。確か、もとの語は "joint" だったはずなので、『関節が外れた』と表現したのは、シェイクスピアじゃなくて、それを訳した日本人だと思います」
茨島先輩は、本をそっと机の上に置き、悲しそうな顔でため息をついた。
「それは、衝撃の真実だなあ」
「すみません、先輩」
「いや」先輩は拳を振り上げる。「そもそもこれは、関節が外れたらどれくらい痛いか、という話だったはずだ。やはり結論としては、『すごい痛い』、これで決まりだ」
力説する先輩をよそに、僕は、これは本当にどうでもいい話だったな、と若干白け始めていた。そんな僕とは対照的に、先輩の話の熱はどんどんと増していく。
「ちょっと俺が、関節の外れた痛みがどんなもんか、再現してやろう」
「先輩、関節の外れた経験が無いって、さっき言ってませんでしたっけ?」
「経験が無くとも、想像で補えることができるのが、演劇人の力というものだ。俺は脚本家だけども、演劇に深く関わっているわけだから、少なくともそんじょそこらの一般人とは、演技力は比べ物にならない」
先輩は、そう言いながら椅子から立ち上がり、床の一番広いスペースの真ん中に移動すると、気をつけの姿勢をとった。
「天村、いくぞ」
そう言うや否や、左肩を押さえ、膝をつき、叫ぶ。
「くああー!」
肩が外れた、まず間違いなく外れた、と、自身の置かれている状態の明快な説明を絶叫の上に乗せながら、先輩はごろごろとのたうちまわる。眼鏡が外れて床をすべり、机の足にぶつかった。
「痛い痛い痛い! すごい痛い!」
僕は演技に関して素人なので、茨島先輩の演技の是非について、物申したい、などとおこがましいことを思いはしない。ただ、勢いはすごいな、という感想を抱いた。
「肩が痛い! 救急車! 外れてるから!」
そのとき、部室の扉がすうっと開いた。足をバタバタさせながら床を縦横無尽に転がりまわる先輩は、演技に熱中しており、そのことに気付かない。
「痛いよー!」
「天村くん、何があったの?」
部室に入ってきたのは、潤朱門さんだった。素早く茨島先輩のもとへ駆け寄り、「大丈夫ですか?」と律儀に心配している。
先輩はさすがにこれで演技をやめるのかと思いきや、
「肩が! 肩が外れてしまった!」
「えっ」
一瞬、潤朱門さんは顔をひきつらせた。その彼女の表情は先輩には、「これは大変なことになった」という困惑のあらわれに見えたかもしれない。僕には、「なぜわたしの身の回りの奴らはことごとく脱臼するのだ」というウンザリした顔に見えた。
僕は、拾った眼鏡を手渡しながら先輩に声をかける。
「先輩、僕のクラスメイトを困らせないでください」
すると、それまで苦しそうに呻いていた先輩は、床に大の字になった。よっぽど力を込めて演技をしていたらしい。顔が上気し、ハアハアと大きく息づいている。
「君……」
「はい?」
潤朱門さんは、仰向けになって息も絶え絶えに話す茨島先輩に、どう対応していいかわからない。
「俺の演技に、すっかり騙されただろ? 見たか天村……これが素人との、表現力の違いというものだ……」
「え、演技? それじゃあ肩は、大丈夫なんですか?」
こちらを振り向き、状況を説明しろとでも言いたげな潤朱門さんに、僕は言った。
「大丈夫だよ、潤朱門さん。人の肩は、そうそう簡単に外れないよ」
○
担任の先生が呼んでいた、という嘘で僕を連れ出した潤朱門さんは、まず、ピロティへと向かい、自販機でミネラルウォーターのボタンを押した。天村は何か飲まないのと聞かれたので、普段あまり選ばない野菜ジュースを思いつきで買う。
「あれは、わたしへの当て付け?」
校舎へと引き返しつつ、潤朱門さんはきつい口調で僕に訊ねた。茨島先輩に対する態度とうってかわって、隠されていた素が漏れだしている。
「まさか。潤朱門さんが来ることが、前もってわかってないと、そんなことできないでしょう?」
「それじゃあ、さっきのあれは何?」
僕は、銃のくだりも『ハムレット』のくだりも含めて、茨島先輩との議論について話した。それを聞いた潤朱門さんは、アホらしいと苦々しくつぶやきながら階段を昇る。「それにしても」
「それにしても?」
「シェイクスピアなんて高尚なもの、わたしは読んだことないけど、聞いた限りではわたしに合わなそうだ」
「どうして?」
「この間言ったでしょ? わたしはそういう、非日常的なものが降り掛かってくる話とか、特別なイベントが発生する話が嫌いなの」
そうなると、シェイクスピアどころか、世の中のほとんどの物語は「非日常的なものが降り掛かってくる」わけだから、潤朱門さんには合わないということになるのではないだろうか。
「そういうこと。わたしは物語一般が嫌い」
「映画も見ないの?」
「嫌いだけど、流行りものは見る。そうしないと、周りの話に合わせられないから」
「それじゃあ潤朱門さんは、銃で撃たれたら、どれくらい痛いと思う?」
あのねえ天村、と潤朱門さんは踊り場で立ち止まり、こちらを振り向いた。
「それもこの前言った。何度も同じ話するの、嫌なんだけど。忘れたの?」
ああ、そうか、と言われて気がつく。
「わたしに人の痛みが、わかるわけないでしょ」
たどり着いたのは生物室だった。潤朱門さんは遠慮も無しに扉を開け、近くの椅子に座る。勝手に入って大丈夫なのかと訊ねたら、彼女はペットボトルの蓋をひねる手をとめ、それは解決済みだと答えた。
「解決?」
「そう」目の前の長机を、ノックするようにして叩く。「ここならふたりきりでいるところを見つかる心配も、勝手に使って怒られる心配も無い」
「そりゃあ空五倍子先生は優しいから、怒らないかもしれないけど」
「ちゃんと、許可はとってあります。だから怒られないんです」
「そうなんだ」
窓際には空の水槽が並び、奥のガラス棚には木箱に入った顕微鏡がきれいに収まっている。外はまだ全然明るいが、日の射し方が絶妙なのか、部屋の中は不思議と薄暗い。その薄暗さが、生物室特有の生臭さと相まって、夏の川底を思わせる。
「夏の川と言えば、蛍だよね」無意識に連想が口に出た。
「その、コント漫才の強引な入りみたいなのはなに?」
「いや、今日の空五倍子先生の話を、ふと思い出したんだ。潤朱門さんも、蛍の話、聞いてたでしょう?」
「それがどうかしたの?」
「そのとき、先生、こう言ってたよね? 心の動きも、『役に立っている』んだって。つまり、潤朱門さんは、そういうのは無駄だってことで無理に心を抑えこもうとしてるけれども、それは、むしろ、不合理ってことになるんじゃないかな」
ペットボトルの蓋を開け、水を口に含み、それを飲み込むのとほぼ同時に潤朱門さんは、
「ねえ、天村」
とこちらを上目遣いで睨んだ。
「なんでしょう」
「ばーか」
唐突な無慈悲であった。生身の人間だったら、きっとショックで数時間くらい落ち込んでしまうのだろう。
「その不合理っていうのはね、進化が続かないって意味で不合理なの。生存率を維持して、子を残していくのに、役に立たないものが不合理として切り捨てられていく。で、その意味での『役に立つ』ものっていうのが、わたしの人生になにか関係あるわけ?」
「あるといえば、あると思うけど」潤朱門さんはまぎれもなく、進化の恩恵を受ける生物の範疇だ。
「それじゃあたとえば、一般に人間は甘いものを食べると快楽を得るようにできてるよね? それは糖分の摂取が、生存率に深く関わっているからなの。でも現代みたいにお菓子が簡単に手に入るようになると、今度はその機能が悪いように働いて、過剰摂取で病気を招いたりするでしょ」
「なるほど」
「進化にとって合理的なものが、個人にとって合理的だとは限らない。糖分の摂取にだってね、適度ってもんがあるわけよ」
心なしか、潤朱門さんのペットボトルを握る手に、力がこもっているように感じられる。
「なるほど」
「なるほどじゃないでしょ。ほんとにわかってるの? あんなね、糖分の集積体みたいな飲み物を、普通人に勧める? ありえないでしょうが!」
持っていたペットボトルを振り下ろし、机を勢いよく叩いた。その衝撃で、机の上に乗っていた僕の野菜ジュースが落ちかける。今度は宙でキャッチできたので、この間のスマートフォンのようにはならなかった。
潤朱門さんの怒りの矛先が、当初と変わっている気がする。そんなに、この間の黒蜜がお気に召さなかったのだろうか。とりあえず、僕は潤朱門さんに平静を取り戻してもらうことにした。
「まあまあ、砂糖の入ってないミネラルウォーターでも飲んで、落ち着きなよ」
言うが早いか、潤朱門さんは、水をゴクゴクと飲み始めた。白い喉がせわしなく動いており、水流を一生懸命食道へ送っているのがわかる。そのまま一気に三分の二ほど飲みくだすと、肩で息をしながらひじを上げてペットボトルの蓋を強く閉めた。こうした彼女の一連の動きのいちいちが、つい一週間前まで全く見られなかったということを思うと、今いる場所もあいまって、これが空五倍子先生の見せたかったものだったのかもしれないという突飛な考えが浮かぶ。
「はあ……まだ本題にも入っていないのに水が減る」
「そうだ。潤朱門さんは、何か聞かれたくないことがあったから、僕をここに呼んだんだよね。何の用だったの?」
あのねえ、と再び語気が荒くなったと思いきやそれを押しとどめ、潤朱門さんはもう一度大きく深呼吸をする。立ち上がり、机の縁を手でなぞりながらその周りを半分歩くと、窓際に向かい、水槽の並ぶ背の低い棚におしりをもたせかけるようにした。
「では本題に入らせていただくけどね、天村。わたしは君に提案があるんだ」
「提案って?」
「天村は、どうやら金曜にわたしが話したあれやこれやを忘れてるようだけど、そのときの『約束』まで、記憶から消えたわけじゃないよね?」
「それは、覚えてる」
約束というより、僕に与えられた課題、と言った方が正しいだろうか。あのとき八重さんは僕に対し、「茜ちゃんの取り組みに、協力してあげなさい」という命令を下したのだった。
「覚えてるってのは最低条件でしょ。それじゃあその上で、何か考えた?」
「いやいや。まだあれから三日しか経ってないし、僕はメンテナンスと、新しいパーツのリハビリで、この土日を全部使っちゃったんだ」
潤朱門さんは、やれやれ、という表情を見せると、僕に背を向けた。窓越しに運動場の様子を眺めている。彼女の長い髪の先が逆光を透かして、夕焼け色の薄もやをつくった。
「もうすぐ、夏休みが始まっちゃうでしょ。それまでにはクリアしておかないと、休みの間に趨勢が変わっちゃうかもしれない。それで二学期になって、もうわたしの手に負えなくなってたらどうするのよ。急がないといけないの。でもまあ、そんなことだろうと思って、こっちから提案を持ってきてあげたんだけど」
野菜ジュースのストローを外し、「提案って?」と先を促すと、彼女はこちらを振り向いてこう言った。
「天村、わたしと付き合おうか」
パックに刺そうとしたストローが外れて空を切る。そうくるのか、と思った。僕には潤朱門さんの意図がこれ以上なくはっきりとわかっていたのだけれど、それでもやっぱり「どういうこと?」と訊ねてしまった。
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