三 「潤朱門茜の合理的な提案」

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「生物の進化というのは、無駄を省いていく過程のことなのです。余分なものは、時間をかけて片っ端から捨てられていく。 

 さて今わたしは、『無駄』、『余分なもの』、と言ったけれども、これはどういう意味で無駄だったり余分だったりするのでしょう?

 それはね、『役に立たない』ということなんですね。役に立たないものは、『無駄』で『余分』だと。しかし、これでもよくわからない。生物にとって『役に立つ』とは一体どういうことなのか、それが問題です。

 ひとつは生存率を上げてくれるということ。シマウマは、ライオンに食べられてしまうリスクを負っている。だから、足が遅いシマウマよりも、足が速いシマウマの方が、確率的には生き残りやすい。だから、『足の速さ』は『役に立つ』。

 だけど注意して欲しいのは、この『役に立つ足の速さ』というのは、あくまで『ライオンから逃げられる』程度のものだということです。単純に足の速さが進化すると言ってしまうと、際限がないけれども、シマウマが新幹線やジェット機から逃げ切る必要なんてないでしょう? 速く走るためにももちろんエネルギーがいるわけなので、今度は『速すぎる足』が無駄だということで切り捨てられます。 

 この、『ライオンから逃げられるくらいには足が速くないといけない』という要求と、『速すぎる足はエネルギーの無駄使いなのでいらない』という要求が拮抗して、『最も無駄の無い足の速さ』が効率的に遺伝を繰り返し、最終的にシマウマの速度は、ライオンからギリギリ逃げられるくらいに収束します。それより速いとエネルギーの無駄で、それより遅いと食べられてしまいますからね。進化というのは、良く言えば大変に合理的で、悪く言えば非常にケチなシステムなんですね」


 無駄だとか、役に立たないだとか、効率的だとか。

 そのような言葉を聞くと、つい三日前、金曜の潤朱門さんの話を思い出してしまう。

 週明け四時間目の、生物の授業である。体育のすぐ後だったので、前の席に座るきさぎのまだ乾かない髪から、ヘアオイルか何かの香りがかすかに漂っていた。中学のときにはかいだことの無い香りで、きさぎも少しずついろんなことに気を使い始めてるのだなあと、いつもとは逆に自分が彼女の保護者的位置に立ったような感慨深い気持ちになる。

 生物を担当する定年前のおじいちゃん、空五倍子うつぶし先生は、その柔和で優しい性格と、「柿二かきじ」という名前から、普段はみんなから柿爺かきじい、柿爺と呼ばれ親しまれている。けれども、生徒の先生に対する好感度と、授業に励む態度は、必ずしも対応するとは限らない。一番後ろの席から教室全体を見渡すと、ほとんどのクラスメイトは居眠りしているか、意識が朦朧とする中、頭をゆっくりと前後に揺らし船を漕いでいるか、あるいは頬杖をついた方の肘が机から外れ、ビクッと体を震わせているかのどれかだった。水泳の疲労と、先生のおっとりとした奥行きのある声が、教室の黒板から、窓から、床から、天井から、大量の羊の群れを呼び寄せていた。

 そんな中、潤朱門うるみかどさんはいつもどおり適度に背筋を伸ばし、板書をノートにとっている。戦場に築かれた死体の山を背後に敵陣へと駆け抜ける歴戦の勇者がごとく、彼女はひとり、空五倍子先生の放つ状態異常呪文に立ち向かっていた。

 彼女は、もう決して、学校で眠ることはないに違いない。彼女の後ろ姿から、その固い決意がひしひしと伝わってくるように思える。よりにもよって学校で、寝起きで弱った理性につけこみ、心が暴走するのは、もう二度とごめんだと彼女は言っていた。もしかすると、空五倍子先生のこの「無駄を省くこと」についての話は、潤朱門さんにとって、呪文は呪文でも、自己をもう一度律し直すための、補助呪文に聞こえているのかもしれない。


「しかし。

 この論理だけでは説明できない、生物の特徴というものがあります。

 たとえば、蛍の光のことを考えてみましょう。光るのにもやっぱりエネルギーがいるわけですけれど、それでも『無駄』だということで現に切り捨てられていないというのには、理由がある、つまり光るのに費やすエネルギー以上に、何か『役に立つ』要素があるはずだということになりますよね。

 けれども、光ることが、どう見ても、生存において役に立っているようには思えない。むしろ、捕食者から見つかりやすくなるので、光るためのエネルギーだけでなく食べられるリスクまでもが生存率を引き下げている。これはどういうことなんでしょう。天村さん、わかりますか?」

 僕は蛍と聞いて、昔きさぎと一緒に、家から少し離れた川原にある公園へ蛍を見に行ったことを思い出していた。まだ僕が生身の頃で、きさぎも今のように大人びてはいなかった。細長い草の先にとまる蛍をおそるおそる爪に乗せて、指先が光ったところを嬉しそうにはしゃぎながら僕に見せてきたきさぎの姿は、中学や高校からの彼女の知り合いには想像もつかないだろう。

 そんなことを考えていた折に当てられてしまったので、僕は、先生の望む答えをきちんと用意できない。

「すみません。わかりません」

 先生にはそんな僕を叱る様子がまったく見受けられない。

「なんでもいいので、答えてみてください。もし当たったら、わたしのとっておきを見せてあげますから」

 とっておきというのは、空五倍子先生が先週から学校で飼い始めたという、曰く珍しい昆虫のことである。先生の授業を受けたことのある上級生の言によると、一年に一、二回このようなこと、つまり外部のどこかから貴重な生物を預かる機会があって、その飼育および観察を行うことが先生にとって何より至福なのだという。その幸せを生徒にも分けてあげようと、またはそれによって少しでも授業に興味を持ってもらおうと、こうした「ご褒美」を用意しているらしいのだけれど、大抵の生徒は結局夢と現実のあいだをさまよったままだし、そもそも昆虫鑑賞という報酬にあまり惹かれていないため、先生が期待しているような効果は残念ながら得られていない。

 僕もその期待に応えることはできそうになかった。ありがちな説明を無理矢理でっちあげる。

「自分の周りが明るくなることで、何かと便利になるんじゃないでしょうか。ほら、懐中電灯って、暗い中で物を探すのに役立ちますよね。食べられやすくはなってしまいますけど、自分も、食べ物を見つけやすくなるので、これでコストは補えます」

 先生は、目を細め、ニコリと笑った。

「いい回答をしてくれましたが、違います。暗いと食べ物が探しにくいのなら、単に日が出ている内に探せばいいわけですから。あえて夜に、光ってみせるということに意味がある。つまり彼らは、見つかりたがっているのです」

 見つかってしまったらダメなのではないかとは、聞き返さない。それが早とちりな疑問であろうことはなんとなく、わかる。

「蛍は光ることで、求愛を行っています。飛んでいるオスと、草むらにとまるメスが、お互いに光を発することで位置を確認し合い、出会って、結ばれるわけです。

 ここでは、生存率の低下と、子どもを残せる確率の上昇が、綱引きになっています。光ることにエネルギーを費やしてしまっても、捕食者から狙われるリスクが高くなっても、子どもが一定の割合で残るなら、『光る力』は遺伝して、切り捨てられることはありませんよね? どんなに全速力で走って、最後にはフラフラになったとしても、バトンさえ渡すことができれば、進化は途絶えないということです。

 クジャクの羽や、鈴虫の鳴き声、また、ライオンのたてがみもそうですが、こういう、一見効率が悪く、無駄に見えるものは、実は求愛に『役立つ』。

 生存か、求愛か。生物に備わるあらゆるものは、このどちらかのためのものだと考えるのが、いわゆる進化論の発想なのです。

 これはもちろん、人間でも同じことです。怒り、悲しみ、恐怖や愛情。わたしたちの根っこに埋め込まれていると思しきこういった心の動きは、役に立ってきたからこそ、現にこうして、残っているのだと考えることができるのです」


 潤朱門さんの姿勢は変わらない。

 どのような気持ちで、彼女はこの話を聞いたのだろうか。役に立たないものは切り捨てる、無駄なものは省いていく、先生の話はそういう、ある種冷淡なものかと思いきや、彼女が必死に隠す心までもが、その役に立つ範疇にあるのだという結論に、最後は至ってしまった。

 僕はといえば、進化の話を知ることで、紐を握る手を離された風船のように、なんだか心もとない気持ちになった。

 根っこに埋め込まれている、と先生が言ったその感情の揺れ動きが、僕には足りていない。情動の波は静かで、おまけに体の多くのパーツも元の体のものではない僕は、進化という大きな時間の流れから放り出されてしまった存在、生物という枠から切り離された、エイリアンのようなものなのではないだろうか。

 そこまで空五倍子先生の話を曲解する必要はさすがにないと思いつつも、昨日までの長いメンテナンスのことを思い起こして、やっぱり、なんとなく寂しい気分になるというか、小さな違和感が胸の辺りにうずまいていることは、どうしても否めない。

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