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医科大と聞いていたからてっきり付属の病院へ向かうのかと思いこんでいた。わたしもここに何度か来たことがあるから、入り口の場所は知っている。しかしなんとなく記憶にある道を進もうとしたら天村は「そっちじゃないんだ」と病棟方面をスルーし、その奥の、人の訪れる施設にしては閑散とした別の建物へ向かっていった。「僕らが用のあるのは研究棟なんだ」と彼は言った。
正面の自動ドアをくぐり、受付を通りすぎようとした瞬間である。
「あれ、素雄くん、彼女できたの?」
受付の若い女性が乱れた好奇心を隠そうともせず声をかけてきた。わたしは咄嗟に顔を伏せる。
「いやあ、ちょっと、いろいろあって」
「え、素雄くんが、彼女連れてきたって?」
と、受付の奥からまた別の女性がでてきて、「感慨深いなあ」と腕を組んだり目頭を押さえたりした。当然わたしは小声で天村を急かす。受付ふたりがそれを見て、既に持ち上がっていた口角をさらに上へと伸ばした。
「思春期って素晴らしいわあ」
このような世にも残酷な仕打ちはほんの序の口だった。廊下ですれちがった人、エレベーターに乗り合わせた人、会う人会う人ことごとくわたしたちに声をかけ、彼の腕を抱えるわたしに好奇の眼差しをぶつける。そのたびに天村が「いやあ、ちょっと」などと曖昧な返事をするものだから向こうは邪推によって余計に盛り上がる。徐々にわたしはこの懲罰が天村の肩を外してしまった代償として十分に釣り合ってるばかりか、あわよくばお釣りさえもらえて然るべきなんじゃないかと思い始めてきた。
病院の人間であれば、まだ高校生の知り合いに見つかるよりましだと考えていた数十分前の未熟な認識が完全に上書きされた頃、天村は「湯之寺研究室」と書かれた部屋の前で立ち止まった。
すると廊下からまたしても声がかかる。精神に疲労を蓄えたわたしはそれでも身構えざるをえない。
「ああ、素雄、こっちの都合で遅くなって悪いね……あれ、女の子?」
三〇歳前後くらいの細身の男性だった。針金でも通っているかのような攻めた寝癖、目には隈、いかにも幸が薄そうな面構えをしているが、ここまでに遭遇した全ての人間に共通していたあの生暖かい瞳の煌めきが彼には感じられず、あくまで相対的に好感を抱く。
天村はまた似たような返答をした。
「いやあ、ちょっと、いろいろあって」
「そうか、いろいろか。素雄も大変だな……」
幸薄男は詳しい事情も聞かず天村にねぎらいの言葉をかけた。その口ぶりからして彼自身が、なにか様々な苦労を日々引きずっているのだろう。
「
するとキクヤと呼ばれた彼はもともと低かった声のトーンをさらに落とし、
「学会自体はよかったよ。ただ
「また何か失くしたんですか」
「・・・・・・日本に帰ってこれてよかった」
詳細をもっと聞いてみたい気持ちもあったが、ミーティングがあるからこれで、と菊屋さんは陰鬱そうに廊下の奥の暗がりの中へ消えていってしまった。
「メンテナンスが遅れたのは、主治医が海外出張していたからなんだ」
と天村は説明し、目の前のドアをノックする。
「おはいり」
男の声ではなかった。天村が機能している右手でドアを開けると、正面のソファーにヒップホップにかぶれた中学生のような容姿をした女性が寝そべってなにか論文めいたものを読んでいる。
「
「なにぃ、あいつそんなこと言ってたのか!」
ヤエさんと呼ばれた女性は持っていた紙の束を放り出しガバッと身を起こした。菊屋さんの気苦労のうちのある部分は、おそらくこうして無邪気に無尽蔵に生成されているのだろうなと思った。
「でも、アラフォーなのは、事実でしょ?」
「あのなあ、もとえもんよ。今年度から、初等教育では『四捨五入』が『五捨六入』に変わったんだよ? そういう時代の波を捉えきれてない人間が、いつまでたってもわたしのことをアラフォーだって勘違いし続けるんだ。困ったもんだよ」
「そんな教育改革、聞いたことない」
「それじゃあ情報に疎いもとえもんにもうひとつ、いいことを教えてやろう。文科省は既にいま、『六捨七入』の検討を始めている。十中八九、来年の頭から実装されるだろうから、わたしがアラフォーに差し掛かるのは、必然的にまだまだ先ということになるな」
「『四捨五入』とか『五捨六入』だったら、捨てる数と入れる数が一個違いだけど、『六捨七入』だと、捨てる数が六つなのに入れる数が三つでバランスが悪い。文科省の偉い人がそれに気づかないはずがない」
「よく見破ったな。さすがは天才湯之寺八重の甥っ子といったところだな」
「そのくらい、僕でなくてもわかるよ」
そもそも五捨六入の時点で嘘なんですがとわたしはこの会話のばかばかしさに困惑しつつ、部屋の様子を観察する。研究者の拠点らしくどこを見ても、本、本、本、本だらけだと思いながら視線を入り口に移した途端ギョッとした。ドアの脇で人体模型がこちらを向いてダブルピースをしていた。
「大体、なんでそんな格好してるの」
「これか? これは、学会のおみやげに買ってきたんだ」
彼女の格好がヒップホップかぶれに見えたのは、単純に着ているTシャツのサイズが極端に大きいからだった。黒地に、胸のあたりにでっかく「KYOTO」とラメの入った銀色の文字で書かれている。
天村が感想を漏らした。
「やっぱり、アメリカの服は、サイズが大きいね」
そうだよね?
さっき「テキサス」って言ってたし、やっぱりアメリカ行ってきたんだよね?
「Sサイズでこれだからな。やっぱりアメリカはスケールが違うよスケールが」
「Sサイズとは言っても、男物と間違えたんじゃないの?」
「おいおいもとえもんよ、それくらいわたしだって確認してるさ。店員にだってわざわざ聞いたしな」
Tシャツの文字の書いてある部分をつまんでひっぱりながら「イズディスリアリーフォーウーメン?」と店員に訊ねる様子を再現して見せている。つままれている京都府のことなどふたりともお構いなしである。わたしは、この不条理さは夢のそれなんじゃないかと無意識に辺りを見回していた。その拍子にダブルピースする人体模型が視界に入ってしまいまたギョッとした。
「ところで、もとえもんよ」
「なに?」
「その隣にいる美人さんは、わたしに紹介するために連れてきたのかい?」
それがね、今日放課後で……と説明し始める天村をわたしはさえぎった。
「わたしの手首を握ったまま、天村くんの肩が外れちゃったんです! そうなりやすくなってたみたいで!」
事実であることに違いはない。今目の前にいる京都がわたしのこの状況をなんとかするためのお方なのだというのであれば、これ以上の情報を伝える必要は特にないはずだ。天村もわたしの説明をうけて「まあ、そういうことなんだ」と続けるが、さらに「そうだ、潤朱門さん」とわたしに声をかけてきたので思わずうろたえてしまう。
「え? あ、はいなんでしょう」
「この人はね、湯之寺八重さんって言って、僕の叔母であり、主治医なんだ」
「おいもとえもん、自己紹介は、既に終わってるぜ?」
「あれ、そうだっけ?」
「『さすがは天才湯之寺八重の甥っ子だな』のくだりが、あっただろ」
というわけで、君、と湯之寺さんがこちらに顔を向けた。はいと答えると天村の左腕の下からわたしの空いている右腕を両手で握る。
「滝浜医科大学先端医療学部医療工学科教授の湯之寺八重三〇歳ですよろしく」
長い肩書の中へさりげなく嘘を紛れ込ませてきたことにわたしは触れなかった。ただ、こちらを見つめる湯之寺さんのやや釣り上がった大きな目、ニヤつく口元から覗く八重歯、すっぴんの肌に淡く乗っているそばかすや頭を撫でるのに最適な背丈は、『四捨五入』のくだりさえなければ三〇歳どころかもっと小さい数字を出されていたとしても疑わなかったであろうと言えるほど若々しい印象を構成していた。しかしまた一方では、高校生や大学生、いや、いい大人でさえどう頑張っても出せないような老獪な雰囲気も漂わせている。尾が割れた猫の妖怪のイメージが頭に浮かび、彼女のまとう雰囲気にぴったり重ね合わされた。
「ええと、天村くんのクラスメイトで、潤朱門茜と言います」
湯之寺さんは、眉を上げ、「うるみかどあかねちゃんか……なるほど」とほんの一瞬何かを考えるような素振りを見せたあと、
「まあまあ、とりあえず、お茶タイムだ。こっちに座ってくれたまえ」
と、わたしたちが部屋に入ってきたときに彼女が寝転んでいたものの向いにある別のソファーに促した。ふたつのソファーの間には低めのテーブル。その上にガラスでできたコーヒーポットとコーヒーカップがひとつずつ置いてあり、どちらにも中身が入っていた。部屋の隅にある食器棚から氷の入ったマグカップをふたつ持ってきた湯之寺さんは、わたしたちの対面に座ると、テーブルの上を指し示し、
「お茶タイムと言っても、いま飲み物はこれしかない。ミルクも砂糖も部屋の中にあるはずなんだけど、失くした。まあ、大丈夫だろ?」
とわたしの返事を待つことなくマグカップに注ぎ始めた。注がれた液体に反応して中の氷がピキピキと鳴る。失くすってなんだと思いつつも、別にブラックが飲めないわけでもないし、断ることはしなかった。
天村がマグカップに口をつけ一息ついたのを見届けると、湯之寺さんはようやく本題を切り出した。
「それでもとえもん、茜ちゃんは、もとえもんの腕のことは知ってるみたいだけど、あとはどこまで説明していて、これからどこまで説明するつもり?」
いきなり話の展開が見えない。わたしは手首を覆ったまま取れなくなった天村の左手を取り外してもらいにここへやって来た。それが全てじゃないのか。
天村は、うーん、と首をひねると、
「それ以上のことは、話してないけど。八重さん、どうしたらいいと思う?」
「じゃあ、全部言っちゃえ。その方が、もとえもんのためになると思うよ?」
意地悪そうな笑みを浮かべた湯之寺さんは、今度はわたしに真意のわからない質問をする。
「茜ちゃん、もとえもんと同じクラスで数ヶ月過ごした君の目に、天村素雄という人間はどう映ってる?」
意図の不明瞭な質問だが、人間観察に自信がないわけではない。わたしはこの四月からのこと、そして今日の放課後の出来事を思い起こしながら、言葉を選びつつ答えた。少なくともわたしはそうしているつもりだった。
「冷静というか、達観してて、集団から一歩引いた位置にいる人だと思います。これは悪い意味じゃなくて、友だちはいるみたいだし、わたしの知る限り彼のことを苦手に感じてる子はいないようだから、天村くんも、その周りも、お互いにいい関係を保ってる。けど、たとえば……学校が突然爆発したとしますよね?」
爆発?と天村が言葉を繰り返す。湯之寺さんは笑みを浮かべたままだ。
わたしは続けた。
「もしそんなことが起こったとしたら、先生も生徒も、みんなパニックになる。だけど――いや、これはほんと、勝手な想像ですからね?――だけど天村くんだけは、そのパニックの嵐の中でひとり、淡々と、みんなを落ち着かせながら安全な場所へ誘導している、そんな気がします。それがあまりにも落ち着きすぎてて、周りから訝しまれるくらいに」
こんな不用心なこと、普段なら絶対に言わないのに。締めても締めても水がこぼれ続ける蛇口のように考えを吐露してしまう自分にわたしは怖くなった。今日の放課後の事件以来、いつもと違うことが次々と我が身に降り掛かっているせいだ。さっきわたしはこの状況を「夢のように不条理」と表現したけど、まさにその不条理な空気にあてられて、自身までもが変化し、それにどうしても抗うことができない――目に見えない波に飲み込まれて漂流しているかのような気分だった。あるいは原因がわからないまま、酔いだけがじわじわとまわってきているような。
こうした状態を促しているのはわたしの意見に「おお」と感嘆してみせる湯之寺さんの声、というかこの人の雰囲気が、仕草が、口調が、いちいち波の勢いを後押しし、盛り立てている気がする。
「さすが茜ちゃん、いい線行ってるね。だろ、もとえもん?」
天村が誘導されたかのように無言で頷く。
「わたしともとえもんの知り合いに、よく当たる占い師みたいなやつがいてね。もとえもんのことをこう評した。『心の中に色が無い。けど水のような透明な何かがゆっくりと流れている』。まさにいま茜ちゃんは、これに近いことを言った。わかるだろ? しかも、本当にそうなんだ」
尖った八重歯が妖しく光った。もしかしたらこの部屋はお化け屋敷の類で、今にも左側でダブルピースする人体模型が動き出すのではないか。そんな馬鹿げたことさえ考えてしまう。
「もとえもんは小さいころ、大事故で、脳の情動機能を損傷した。感情はあるんだけど、その波が、極端に小さくなっちゃったんだな。波の発生は遅くなり、振幅は狭くなり、収まるのは早くなった。だから、茜ちゃんの言った通り、もとえもんは絶対にパニックにならない。なにか突然、突拍子もないことが起こってから、それに情動的に反応するまでのタイムラグが、健常者よりも極端に開いてるからだ」
タクシーの中で天村が放課後の攻防について言ったことを思い出す。
――体の動きの流れをしっかりと追いさえすれば、誰でもできると思うけど。
彼はそれができてしまう人間なんだ。急にわたしが首を締めようとしても、その動きを冷静に観察して、対応することができる。
「それで、本当に大事故だったもんだから、損傷したのは情動機能にとどまらなかった」
「わかりました。それが左腕ってことですね。だから、義手になったと」
リハビリやなにやら、大変だったのだろうと素朴に思った。わたしは天村がこれまでにしてきた苦労の量を想像するが、当然、うまくいかない。
「当たってもいるし、外れてもいる」
「外れてるんですか?」
「だって、もとえもんが損傷したのは、情動機能と左腕だけじゃないから。他にも、右腕、両足、いくつかの臓器や胴の骨。それに皮膚だって使い物にならなくなった」
わたしは隣で粛々とマグカップに口をつける天村の身体を不謹慎にもじっくりと眺めてしまった。その制服のワイシャツを隔てた、体の裏側にある、彼の元々持っていた、そして生まれた後から埋め込まれた組織の全体を想像した。
今目の前にいるこの人は、どこまでオリジナルなんだろう。
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