二 「甘くない話」
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○
滝浜医科大学は、高校からさらに北へ、バスで二十分ほど行ったところにある。
けれども、今日はバスを使わなかった。
「でも、かかるお金が全然違うよ」
「わかった! お金はわたしが出すから!」
「それは悪いよ」
「いいから! 絶対バスはダメ!」
潤朱門さんは(見たところ)誰とでも仲良くできているわけで、だからその性格は決して暗くない。むしろ明るく、社交的でさえある。その意味においては、今日の彼女もいつも通りといえばいつも通りなのだけれど、「明るさ」の質が、大きく変化していた。「火が燃えてるみたい」という、
その印象を裏付けるようにして、携帯でタクシーを呼ぶ彼女の白い頬や耳には、入学以来初めて見るような濃い赤みが差していた。夏にもかかわらずこんなにお互いの体を近づけていたらそれは――というかむしろ僕の左腕は潤朱門さんの体に密着している――暑くもなるだろう。実際にどの程度彼女の体温が上昇しているかなんて、神経機能が止まっているからわからないのだけど、ますます、このような事態になってしまったことを謝りたい気持ちになった。
眠っているのをいいことに、勝手に人の携帯を見ようとしたら、やはり責められても仕方がない。もちろん、僕にはそんなつもりはなかった。しかし、潤朱門さんからしたら、「目が覚めたらクラスの男子が自分の携帯を触っている」状況を、そういうふうに解釈することこそ、もっとも自然な筋道だろう。
それに、事情があったとはいえ、僕は自分の体のメンテナンスの時期を、遅らせてしまっていた。ある程度の衝撃で、僕の関節は簡単に外れるようになっていたのだ。
電話を終えた潤朱門さんに、このようなことを説明すると、彼女は「もういいから」と苦しそうに言って、さらに顔を赤らめた。
●
高校生の男女が手を繋いで歩いてたらどう思われるだろう? そりゃ恋人同士だと勘違いされるにきまってるでしょうが。
しかも繋がれているのは右手と左手ではない。左手と左手である。すなわちわたしは、天村の腕に抱きつくかたちをキープしたまま病院へ赴かなければならなかった。
人のたくさん乗っているバスに乗るのはどう考えてもアウト。車で二十分かかる距離を仲睦まじく歩いていくのは論外必至。ここは、運転手にこそ見られてしまうものの、タクシーで妥協するしか他に方法は無かった。
ゆえに一番の問題は、教室からタクシーへの移動だった。誰に目撃されるのが最も嫌かと問われたらもちろん同じ高校の生徒だ。「それじゃあ外で待とうか」と脳天気に提案する天村をわたしは厳しく咎め、誰か来ないかとビクビクしながら教室で待機した後、わたしたちは盗れる者盗った空き巣のように、なるべく素早くかつ見つからないよう最新の注意を払って階段を降り、靴を履き替え、正門でなく大通り沿いの北門に呼んだタクシーへ飛び乗った。
「この義手のこと、みんな知ってたの?」
タクシーが動き出すや否やわたしは天村に訊ねた。「義手」の部分をあえて強調した。効果はどれほどかわからないが、運転手がわたしたちに下世話な好奇心を向けてきたり、あわよくば話しかけてこさせないようにするための先制言い訳だ。副次的に初めて会う人に対し彼の腕のことを了承せず伝えてしまうかたちになったが、仕方のないことなんだと天村には勝手ながらこちらでのみこんだ。「みんな?」と問い返す当事者様も見たところ気にしてなさそうだった。
「クラスの子とかさ。ほら、わたし県外から入学してきたでしょ?」
「いや。ほとんど、というか誰も知らないと言ってもいいと思う。もちろん先生は知ってるよ。そうじゃなきゃ、今日の水泳は見学できなかったわけだし」
言われてそういえばと思い出す。天村は隣のクラスの男子、確か
「あの子が義足だっていうのは、わたしでさえ知ってたのに」
「青柳が義足になったのは去年で、僕はずっと昔だ。それに、あいつはよく人の話題に上りやすい」
確かにそうだ。だからわたしは「青柳」という名前を知っていた。
「気にしてるみたいだけど、潤朱門さんは悪くないよ」と天村が続ける。「こっちがメンテナンスを遅らせてたせいだ」
どうやら彼は、一連の肩関節脱臼事件の責任が自分にあり、そのことを本気ですまないと思っているらしい。
事件の引き金を引いたのは天村に違いない。わたしは彼に謝られたとおり、確かに携帯の中身を見られたと誤認した。パスワードでロックされてるから、そんなことあるわけなかったのに。
あらためて、水泳の時間にムキになってしまったことを激しく悔やむ。なぜわたしはあの時、よりにもよって人前で自分の力を試そうとしてしまったのだろうか。あれが無ければ急な眠気に襲われることも、寝起きの姿を人に見せてしまうことも、こうして病院に向かう必要もなかった。
おそらく苦しんでいるように見えたのだろう、天村が大丈夫?と声をかけてきたので、
「何が?」とわかっていないふりをする。
「いや、体調が悪いのかなと思って」
「別に。大丈夫じゃないのはそちらでしょう」
そうだ。今現に謝っているのは天村の方だけれども、逆にわたしが天村に責められていたとしてもまったくおかしくなかっただろう。彼の身体にいかなる事情があるにせよ、携帯の中身を見ることの代償として肩を外されるというのは常識的に考えたら分不相応じゃないか。
わたしは天村にその点についてどう思っているのか聞いてみたかった。けど、わたしが疑問をぶつけることによって彼の考えが変わってしまうのも怖くて、つい別のことを訊ねてしまう。このときもしわたしが今抱えている左腕に神経が通っていたら、殴り続けられる壁のように重く響く心臓の音を彼はその肌で感じていたことだろう。
「ねえ」
何、と窓の外の景色を眺めていた天村が、こちらを振り向いた。
「天村は、護身術とか合気道とか、そういう習い事をしてるの?」
滝浜高校にある格闘系部活動は、空手部と柔道部と剣道部の三つのみである。ただ、たしか天村は文芸部だったはずだ。だったら、学校の外で何かしているに違いない。なぜなら、実際に「学校の外で何かしている」わたしの攻撃を、天村はことごとく見切り、かわし、いなしていたからである。
「ああ……でもあれは、こう、体の動きの流れをしっかりと追いさえすれば、案外誰にでもできることだと思うけど」
要領を得ない回答にイラッとくるがそれは表に出さず、わたしは淡々と彼の発言の奇妙さを指摘した。
「その『さえ』って部分が、普通はできないと思うのだけれども」
「え?」
「えって」
「なるほど・・・・・・」
「なるほどって」
「それについては、これから、ちゃんと話すよ」そう言って天村は窓の外を見た。「ほら、もうすぐ着くし」
ほどなく、わたしたちは病院に到着した。結局、運賃をふたりで分割して支払い、タクシーを降りる。もちろんその間もわたしはずっと動かない左腕を抱えたままだった。仲が良いのか悪いのかよくわからない、謎に満ちたカップルを乗せてしまった、運転手の心中やいかに。
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