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○
ゴオッ! と厚みのある音が階段を駆け上がってきたかと思うと、落とし穴にでも落ちたかのようにすっと消える。
僕は一年六組の教室を目指し、正確には教室にある財布を目指し、階段を登っていた。
放課後になると、一年の各教室は吹奏楽部の練習場所としてあてがわれる。音楽室が同じ五階にあるからだ。それなので、普段はこの時間に教室へ戻ると、ほぼ確実に、基礎練習中の吹奏楽部員、六組の場合はサックスパートの人たちから、白い目で見られることになる。
また、ゴオッという音が階下で響いた。前回よりも少しだけ長く続き、前回と同じように、唐突に消える。
今日に関しては、白い目をされる心配はなさそうだった。さっきから聴こえてきているのは、昇降口を入ってすぐの、二階まで吹き抜けとなっているホールで練習をする、吹奏楽部員の演奏の音である。本来この時間にホールを使用している空手部が、たまに休みになると、音楽室よりも響きのいいそちらに楽器を運んで合奏をするのだ。
したがって歩を進めるにつれ、つまり階段を上るにつれ、音は遠ざかり、静かになっていく。四階の、二年の教室で練習しているはずの合唱部も今日は休みだったため、今日の放課後の校舎はいつもと打って変わってぐっと黙りこんでいた。そのせいか、廊下を歩く自分の足音が妙に耳障りな気がしてしまい、自然と慎重な足取りになる。泥棒になった気分で、教室へ近づいていく。目的は財布だから、気分としてはあながち間違ってもいない。そのまま意味の無い忍び足を実践しながら、僕は開きっぱなしのドアごしに一年六組の室内をこれまた無意味にこっそりのぞき込んだ。
今日は、見たことのない光景を、よく見る日だなあと思った。
他に誰もいない教室でひとり、潤朱門さんが眠っている。
プールでの「突出」と同様、潤朱門さんは、これまで一度も寝ている姿を人に晒したことがなかった。授業時間も、休み時間も、日中なのだからある意味当たり前と言えば当たり前なのだけれど、潤朱門さんは常に起きていたし、眠そうな素振りをみせたことさえなかった。
泥棒気分のおかげで起こさずにすんだ。静かに歩いて、自分の席へ向かう。頭の中では、やはりなぜだろう、なぜいつもは寝ない潤朱門さんが、今日は寝ているんだろうと考えながら、椅子を引き、机の中を探ると、革の感触。ホッとした途端、つじつまの合う解釈を発見した。単純なことである。きっと、水泳で奮闘した分、溜まった疲労に耐えかねて、眠ってしまったのだ。一旦そう思うと、「水泳で奮闘した」という前提もまた推測にすぎないはずなのに、勝手に確信が深まっていった。
宝は手に入れたし、そのまま帰ってもよかったのだけれど、机に突っ伏している潤朱門さんの左の肘あたりに、一冊の文庫本が置いてあるのを見つけて、つい興味が湧く。自分の席に鞄を置いて、本のタイトルを見てみようと近づいた。人の読んでいるものがどうしても気になってしまうのは、僕だけの性分ではないはずだ。
黒板の側から、教室を斜めに刺す夕刻前の日差しが、右耳を下にして眠る潤朱門さんの顔を赤く照らしていた。まぶしくないのだろうか。
眠っている彼女の顔は、普段教室で見せるどの顔よりも、綺麗に見えた。端正な顔立ちに、何か正体のわからない危うげな要素が混ざりこむことによって、かえって精彩を放っているかのような、覚束ない、刹那的な綺麗さだ。眠っているのに、起きている時よりも、むしろ生き生きとしているような気さえしまって、違和感を覚える。
潤朱門さんの左側に周りこむと、机の上に、本ともうひとつ、スマートフォンが置かれていることに気づいた。四分の一ほど机をはみ出していて、彼女が寝ぼけて肘で突いたりでもしたら、床に落ちてしまいそうだ。
うっかり自分の体が当たってしまわないよう、配慮しながら、本の表紙を覗いた。近くで見ると、かなり古そうな本だった。紙自体の劣化もそうだし、デザインも時代を感じさせるものだった。表紙には、『青い鳥』と書かれていた。
そのとき、机の上でヴヴッと、スマートフォンが音を立てた。教室はシンとしていたから、かなり大きい音に思えた。自身の振動によってますます崖際へと位置をずらした携帯は、まずいと思う間もなく投身した。手を伸ばしたが、届かず、床とぶつかってこれまた大きい音をたてた。
拾い上げて、傷がついていないことを確かめ、もう一度机に乗せ、顔を上げたら。
潤朱門さんと目が合ってしまう。
「いや、携帯が震えた拍子に、落ちちゃったんだ。キャッチするのが間に合わなくて、でも、見たところ傷はないから大丈夫だよ」
僕が弁解をしている間に、潤朱門さんは素早く椅子を引き、立ち上がって、引いた椅子を元に戻すと、周りをキョロキョロとして、再び僕の目に視線をぴったり合わせた。
それから、潤朱門さんの右腕が、矢のような速さで僕の首に向かって伸びてきた。
手のかたちと、力の入り具合から、僕は推理する。
これは、首を絞めようとしているな。
潤朱門さんの右手は、あっという間に僕の首に接近し――
●
伸ばした右の手首が、首に届く寸前につかまれた。
予想外のことに驚きつつもわたしは次の手を打つ。
つかまれた腕を振りほどきもう一度、もっと素早く首に右手を伸ばす。
なんで対応できる?
――っといけない。内心困惑したがわたしは気を取り直し手を緩めず攻め続ける。両手を不規則な順に用いて天村の腕につかみかかる。天村はことごとくわたしの手をいなし続けながら机と机の隙間を段々と後ずさり、黒板側の壁に近づいていく。壁に背がついたら勝負ありだと、これから数秒の展開の青写真を描いた瞬間だった。
天村がわたしの左の背中ごし、おそらく窓の外に何かを見つけたまま硬直した。
わたしはその隙を逃さない。相手の左腕をとり、ぐるりと後ろに回り込んだ。そのまま肩の関節を
「ガコン」
というものすごい音がした。
その音を聞いてしまったわたしの頭の中が、一瞬にして冷気で満たされた。
理性が再起動し、わたしは考える。
これは、やばい。
「いやあ、」
と、声を発した天村にドキッとする。肩関節を極められたままというか外されたままなのにもかかわらず、自分の状況を全く意に介していないかのようで、そのことがかえって恐ろしかった。
「これは僕の変な癖でね、飛行機を見ると、なぜだか、突然上の空になるんだよね」
わたしは寝起きの悪い人間であることを自負している。だから、学校では絶対に寝ないよう気をつけていた。寝起きは、わたしの素が出てしまうから。
これまで必死に隠してきたわたしの心が、とうとう見つかってしまった。
「どうすれば、言わないでくれる?」
「え?」
「どうしたら、このことを言わないでくれる?」
わたしはあえて素の自分に戻ることにした。それから思考する。依然、体勢的にはわたしが天村の肩を極め続けている状態なのでこちらに分がある。相手も飄々とはしているが、痛みを我慢しているはずだ。幸い廊下には人の気配が無い。彼の提案次第では、もしかしたらさらに身体的脅迫をほのめかす必要があるかもしれない。
――そこまで考えが及んだ途端、その思惑への拒絶反応から急激に体中が熱くなる。口の中が乾いて、眼球が溶けそうになる。肺がこわばって息が苦しい。どうしてこんなことになってしまったんだ、あんなに気をつけてたのに! 後悔が背骨に走らせる激痛に思わずうずくまりたくなるが、どうにかこらえる。今はこの状況をなんとか納めないといけない。
幸か不幸かわたしのそんな内的状態をまったく感知しない面持ちで、天村はすまなさそうに言った。
「それじゃあ、肩を直すために、病院に行きたいんだけど」
天村の状況に似合わない脳天気な口調。そのおかげでわたしはなんとか平静を保ち続けることができた。が、それにしても。
提案が、軽すぎる。
というか、直球すぎる。
当然わたしは疑った。
「それだけで本当に今のことを黙っててくれるの? 全然信用出来ないんだけど」
「どちらかと言うと、これは要求というより、お願いなんだよ。ちょっと、手間をかけさせちゃうんだけどさ」
「もったいぶらないで、早く言ってよ」
「あの、潤朱門さんも、一緒に病院に来てくれないだろうか」
馬鹿な提案だと思った。病院に行って、わたしの口から天村の肩が外れた原因を話せとでも言うのだろうか。
「そんなのダメに決まってる。わたしはこれが誰にも知られないことを目論んでるんだから」
天村の背後に立つわたしは彼の表情を伺うことができない。何を考えているのだろう。自然と、彼の左腕を固定した両手に力が入る。
「それはわかってるんだけども、困ったことになっちゃって。今、僕の左手が、潤朱門さんの多分左手首を握ってるでしょ? 思わずつかんじゃったんだけど」
言われて見てみると、確かに天村の左手は器用にひねられ、わたしの左の手首、一番細い部分を覆っていた。
「よく肩が外れてるのに、同じ腕でこんなことができるね。わたしが逃げるのをなんとか防ごうってこと? 我慢強いこった」
「それ、とれないんだ」
「……はあ?」
「痛みは無いし、そこは潤朱門さん、心配する必要ないよ。僕の肩が外れると、自動的に神経信号が止まるようになってるから。だけど、そのせいで、関節が外れた瞬間、つまり信号が途切れた瞬間の腕の状態が固定されちゃうんだよね。だから、その左手はもう病院に行って取り外すしかなくて、そういうわけで、潤朱門さんにも、一緒に病院に来てほしいんだけど」
「……は?」
「本当に、申し訳ない」
両手で支えた天村の腕の重みが、握られている手首の感触が、突然際立ったように感じられた。
「こうなることがわかってたら、僕の腕が義手だってこと、ちゃんと前もって言えてたんだけど」
そんなのわかっててたまるかという想いと、そうだよ言っておいてよという想いが、同時に湧き上がった。
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