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○
バスに乗ろうと思ったら財布が無い。校舎に引き返す。昇降口に入ると、帰り際のきさぎと
「やあ、
左脚で立ち、右手の指を靴のかかとにかけていた弋が、こちらに左の手のひらを向け、陽気なあいさつをすると、その拍子にバランスを崩して、隣のきさぎに寄り掛かるかたちになった。
「おっとっと」
「こら、ヒナ、気をつけろ」
「失敬!」
「ところで、素雄」
きさぎが弋の体ごしに、こちらに顔を向け、
「今頃登校しても、遅いと思うけどな」といつものようにからかう。
「それは否めないねえ!」と肩に乗ったきさぎの両手を握る弋が便乗する。
「弋はさっきプールで僕のこと見かけたはずだし、そもそもきさぎは一日中同じ教室にいたじゃないか」
僕がそう弁解すると、ふたりは「本当に?」とわざとらしくとぼけてみせる。
このやりとりだけからは想像しづらいことだが、実は
とはいえ、その年上口調は大人びた風貌と相まって別に相手へ嫌な印象を与えるということもない。けれどもいかんせん本人が過剰に気にしている。そのきさぎと、純粋無垢・天真爛漫・明朗快活な弋
「ふたりとも、今日、部活は無いの?」
「ないんだな、それが」
弋が意味のわからないしたり顔をした。まだ彼女の両肩に手を乗せたままのきさぎが、代わりに理由を説明する。
「軽音は自主練、合唱は普通に休み」
「きさぎは、来週末にライブがあるんじゃなかったっけ?」
「だから、ライブ前最後の自主練日ってこと」
「それでね、明日土曜日だし、これから、カラオケに行って、ついでにきさちゃんちに泊まっちゃおうと思ってね。期末テストの勉強も、一緒にしたいしね」
「なるほど、それは楽でいいね」
弋の家は学校から、バスと電車を乗り継いで二時間もかかる。「田舎」で画像検索したらすぐ目に飛び込んでくるような、同じ市内にあるとはにわかに信じがたいところだ。彼女のイノセントな性格は、あの恵み豊かな自然によって育まれたものなのかもしれない。
「それで、結局素雄は、何で学校に戻ってきてるわけ?」と、きさぎが話をもとに戻した。
僕は理由を説明する。
「財布を教室に忘れた。ということは、バスに乗れないということだ」
「むべなるかな!」
こういうあえて小難しい言い回しを、弋はよくする。大体、得意げである。
「バスってことは、病院?」
「そういうこと」
「天ちゃん、そういえばいつも自転車だもんねえ」
「それにしても、財布を忘れるとは」きさぎがため息をつく。「おそろしい話だ」
「たまたま、ボーっとしてたら、うっかりね」
「素雄は、常にボーっとしてるでしょ」
「否めないね!」
いつもボーっとしてるわけではないし、今日は偶然考えごとをしてたんだ、と、言い返そうとして、ふと、弋にその考え事の内容について訊ねてみたくなった。
「ねえ、弋。水泳の授業、どうだった?」
すると弋は目をつむり、蝶の飾りのあしらわれた小さな黄色のピンがふたつ留められた前髪を、両手で押さえて言った。
「その話は堪忍!」
「え?」
やっぱり、弋も潤朱門さんの泳ぎに、気づいていたのだろうか。
「素雄、誰にだって、触れたくない話題というのがあるんだ」
「そうだそうだ!」
口をほんの一瞬固く結んだきさぎが、真ん中で分けられたワンレングスボブの黒髪を耳にかけ直すと、ためらうような素振りで、重々しく再びその口を開いた。
「ヒナが五〇メートルどころか、五メートルも泳げなかった話を蒸し返すのは、勘弁してあげなさい」
「言っちゃった! 洗いざらい!」
「いや、そんなことはどうでもいいんだ」
弋が目をまん丸に見開いたのを僕はスルーした。
「潤朱門さんのことなんだけどさ、」
「潤朱門さん?」
ふたりが同時に、きょとん、とした顔をする。
僕は、財布を忘れたままバスに乗ってしまいそうになるくらいにまで考え込んでいたその内容を、ふたりに話した。普段は目立たない潤朱門さんが、今日は活躍していたこと。それからその活躍が、彼女の「我慢」に裏付けられていたかもしれない、ということ。
話を聞き終えると、きさぎはゆっくりと息を吸い込み、そしてふう、と短く吐き出した。
「素雄は、潤朱門さんのことが、気になってるんだ」
「そうだね、気になってる」
ふうん、ときさぎは相変わらず何か含んだような返事である。いつものことなので、毎回律儀に応対するのも少し癪。そうなんだよね、とぼんやり返した。
「は! そういえば!」
腕組みをしながら記憶を呼び起こしていた弋が、首をカクッと上空へ曲げた。
「何か、思い出した?」
「見えてた、ような、気がする」
「見えてた?」
「うん、見えてた。いつもは見えなかった、色が!」
○
「見えない? 色が無いんじゃなくて?」
きさぎが、訝しがる。
「うん、まったく、見えない」
弋が眉間に皺を寄せた。
数ヶ月さかのぼり、四月の半ばのことである。そのときにはもう僕は、彼女の妙な力について納得していた。
弋には、人の心の色が見えるらしい。
彼女の言葉を使って、より正確に言い直すと、こうなる。
「教科書に、おばあちゃんにも若い女の人にも見える絵があったでしょ? あれを見る時みたいに、ぱっとこう、見方を切り替えるとね、胸のあたりに、スポーツテストのあの、ハンドボールをちょっと小さくしたくらいの、泡が透けて見えてね、それで、その中を、いろんな色がすうって流れてるの」
さすがに高校生にもなってこのようなことを口にされたら、普通は妄言としてしか受け止められない。入学式の日、きさぎに紹介されるやいなやそう切り出してきた弋にどう反応したらいいのかわからないまま、とりあえず、僕のはどういうふうに見えるかと半ば儀礼的に訊ねてみると、彼女はこう即答した。
「色は無い!」
「え、無いの?」
白紙のおみくじを引いてしまったような気がして、拍子が抜けた。心の色が見えるんだって、そういったばかりじゃないか。そんな僕の心持ちなどまったくお構いなしといった調子で、弋は、僕の左右の鎖骨の間あたりをじっと見つめる。
「でも、ゆっくりだけど、その中を流れてるのはわかるよ……そうだ、水だ。水みたい。ほら、水も色は無いけど、目には見えるでしょ?」
「……なるほど、水ねえ」
「そうだよ、澄み渡った水だよ! こんなに心が澄み渡ってる人、比叡山にだっていないよ!」
「比叡山?」
「お坊さんは比叡山にたくさんいるかもしれないけど」と、きさぎが解説してくれる。さすがはいとこだ。「ヒナ、あそこは、むしろこれから心清らかになる予定の人たちが、集まるところだと思うよ」
ともかく、弋の発言は、信じることにしようと、そう思わざるをえないような、屈託の無いものだった。「色の無い水」という表現が、まさに僕という人間のことを的確に表しているように思えたこともまた、その信用に拍車をかけた。
このとき弋は、例えば僕のように心の色が無かったとしても、「泡」のその中身自体が、無いわけじゃないんだと説明してくれた。
だからその十日ぐらい後、きさぎに会いに鼻歌交じりで六組にやってきた弋が、教室に入るなり体をこわばらせ、「ちょっと」と小声できさぎと僕を廊下へ連れ出し、
「見えない人がいる!」
と、驚いてみせたとき、最初何の話かさっぱりわからず、僕はそれが心の色の話と気がつくまでに、透明人間でも見えるようになったのだろうかだとか、そもそも「見えない」人が「いる」というのは矛盾してはいないだろうかとか、そういう無駄な思考をぐるぐる巡らせてしまった。
以来、弋は、人間に擬態した未知のプレデターでも見つけてしまったかのように、オドオドと潤朱門さんの挙動に用心している。
このことを知っているのは、もちろん、きさぎと僕だけだ。
○
現像液に漬けた写真から鮮明な絵が浮かんでくるのを辛抱強く待つようにして、視覚記憶を取り戻そうとする弋に、きさぎがそおっと訊ねる。
「ほんとに、見えてたの?」
「うーん……潤朱門さんが泳いだの、わたしのすぐ後で、そのときわたし、意気消沈しちゃってたから、ちゃんと見てなかったんだけど……」
一休さんがとんちをひねり出すときのポーズを、弋はとっていた。人差し指があてがわれた部分の髪の毛が、もそもそと動いている。
「でも、多分、あれがそうだったんだ。ああいう色した人、五組でも六組でも見たこと無いから」
「どんな感じだった?」
弋は、右手をアルファベットのCのかたちにすると、それをセーフのジェスチャーの要領で、胸の前に横切らせた。
「プールの中を、すーっと動いててね、それで、」
「それで?」
僕もきさぎも、思わず顔を弋に近づける。
「真っ赤だった」
「……真っ赤?」
「赤色が、ゆらゆらしてた。プールの水の中の、泡の、またその中で、火が、燃えてるみたいだった」
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