一 「心の色が見えない」
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○
「聞いてるか。おい、聞いてるか、
その時、僕は、飛行機を眺めていた。
ペイントの塗りつぶし機能でワンクリックして作成されたような、なんの工夫もない水色一色の空だった。そんなシンプルかつ巨大な空間になんの頓着もしていないがごとく、飛行機は、真面目に一直線に、白い機体を進ませていた。
目が、自然と軌道を追いかける。形から点に移ろいながら水色の中に消えていく飛行機に、思わず体が吸い込まれそうになる――。
「おい素雄、人の話を聞け!」
頭を小突かれ気が付くと、
「そろそろじゃないのか。あと何分だ?」
そういえばと、時間を確認する。
「大丈夫、あと五分になるまで、あと三〇秒」
ならいい、と言って青柳はメガホンを握り直した。
七月に入り、高校最初の水泳の授業が始まった。「初回だから」と言った先生の理屈はよくわからなかったけれど、僕たち五組と六組の男子は、いきなりの三〇分間泳に挑まされている。半時間力の限りひたすら泳ぎ続け、後で泳いだ距離を先生に自己申告するというものだ。僕と青柳は、見学ということで、ふたりで計時係を任されていた。
「残り三秒、青柳、どうぞ、」
「あと五分!」
メガホンを構えた青柳が、波打つ水面に声をぶつける。
けれども、マラソンなんかと違って、泳いでいる男子たちにラストスパートを意識する雰囲気はほとんど見受けられない。さすがに皆、疲労困憊なのだ。しばらくプールに入っていなかった人が、急に長時間泳がされ、息継ぎが必要な有酸素運動という考えて見れば結構特殊な競技を強いられる。陸上とも球技とも使う筋肉が違うし、たった一回の授業時間程度で順応できるものでもないだろうから、体にかかる負担は相当であるに違いない。水泳部以外の大体の男子はとっくにクロールから平泳ぎに切り替えていて、とにかく足だけは床に付けるまいという最小限の目標のみをなんとか完遂させようとしながら、一生懸命に頭を浮かせて口を開き、できる限り体に酸素を取り込まんとあえいでいる。
「素雄、なんとかならないのか」
青柳が問うてきたので、僕は少し考えて、
「……まあ、なんとかしてみるよ」と曖昧な口調で答えた。
「何の話かわかって言ってるのか?」
「何の話だっけ?」
「飛行機だよ」
「そうだったのか」
青柳は、ははっと短く笑い、
「適当な返事をするんじゃない」
と、僕の肩をメガホンで叩く。
咎められていたのは、飛行機が視界に入った途端、少しの合間、心ここにあらずな状態になってしまう、僕の悪い癖のことである。
物心ついたときには、とっくにこの習性が身についていた。だから、なぜこんなことになるのか、自分でもよくわかっていない。だから、どうすれば治るのかもわからない。知らない間に、飛行機に心が奪われている。はっと我に返ったとき、初めて、そのことに気がつくのだから、これはもう対処の手段の皆無が疑われるべきではないだろうか。
「努力だ、努力。なんとかしようと思わなきゃ、治らないさ」
水中を必死に回遊するクラスメイトたちを見つめながらそう言った青柳は、今度はその視線を、もはや飛行機の通っていた痕跡を残さない、もとの水色の空に向けて、
「ああ、俺も早く泳ぎたいなあ!」
と叫んだ。メガホンを持っているのと反対の手で、自身の右脚のつけねに無意識に触れている。
「それは、実際、なんとかなると思うけど」ただの気休めに聞こえないよう、声のトーンに配慮する。
「そうか?」
「なるよ。来年の水泳の授業は、バタ足くらい余裕だよ。現代の医療工学は、青柳が思っている以上に、とんでもないことになってるんだ」
「ドルフィンキックはできるかね?」
「できるよ。もっとも、青柳の努力次第なところはあるけれど」
「俺次第か。じゃあ、安心だ」
そう言って青柳は、手を右ももから離し、腰に当てて、快活な笑顔をつくった。
青柳の右脚は、義足である。
中学時代の彼のことを僕は知らない。けれども、サッカー部のエースで、人当たりも顔も良い青柳は、たいそう女性にモテたという。
これは、青柳自身に言わせれば、因果関係が逆なのだそうだ。上のような事情があったからモテた、というわけではなく、モテたいからサッカーを猛練習したし、コミュニケーション能力も鍛えたし、適度に肌のケアも欠かさないようにしたらしい。
「俺は恋愛に一途なのだ」
とは青柳のよく口にする言葉である。一見、ひとりの彼女を大切にするという宣言にも聞こえるが、ほんとうのところは、常に恋愛をしていることそれ自体が重要なのであって、その恋愛の対象は問題としては二の次なんだと彼はのたまう。
青柳の尊敬すべき点は、実際にそのための努力を惜しまないところで、だからこそサッカー部のエースにだってなれたのだけれど、中学三年の夏にさしかかった頃、つまりちょうど一年前くらいに、事故で彼の右脚はオリジナルからレプリカへとすげ替えられた。僕と青柳は、彼がリハビリのために病院を訪れた際に偶然知り合った。これは確か一月のことだったはずだけれど、そのとき既に彼は補助器具を使っていないどころか、ほとんど健常者と見まごうばかりの歩行技術を身につけていた。「早くサッカーできるまでに回復して、モテレベルも取り戻さないとなあ」と、病院内にあるカフェで青柳が悔しそうな顔をしながら、ブラックコーヒーをいかにもおいしそうに嗜んでいたことを思い出す。
「素雄はコーヒー飲まないのか?」
「僕は苦いのダメなんだ。家族みんな甘いもの好きなせいだからかな」
「みんな?」
「コーヒーなんて、砂糖いくらいれても無理かもしれない」
「そこまでとはいわないけどさ、正直、俺だって苦手だよ。こういうのは努力で飲むものだ」
なんと、充実したモテライフを送りたいばかりに、彼はリハビリの先生も腰を抜かし立てなくなるほどの速度で歩行訓練を終え、ついでに我慢してコーヒー好きを装っていたのである。
まだ事故からほんの一年、サッカーのような極端に足に負担がかかる運動が可能になるのはもう少し先の話だけれど、とはいえ水泳くらい、青柳なら余裕でできるようになるだろう。
「素雄は、今日はこの後病院か?」
思い出したように青柳が訊ねてくる。今は六時間目だから、この後はもう放課後だ。
僕は、今度こそストップウォッチの数字に配慮しながら、
「うん、本当はもっと前にいくつもりだったけど、ちょっと向こうが忙しくしてたみたいで。だからちょっと、ガタがきている」
「そりゃ怖いな。大丈夫なのか?」
「まあ、慣れたもんだよ」
「そりゃすごいな」
「残り三秒、青柳、どうぞ、」
終わり! と慌てて青柳が声を張り上げた。
時間泳の後の授業の残り十分は自由時間になっていたのだが、水にすっかり体力を洗い流された男子集団は、墓地の土中で蘇ったゾンビの群れのごとく、のそのそとプールサイドへと這い上がってきた。体からしたたり落ちる水も腐った肉を思わせて、ますます陰鬱さがかもしだされている。ああ、頭が酸欠でクラクラする、と誰かが死にそうな、あるいは既に死んでいそうな声を漏らした。
「次! よーい!」
暗いムードをかき消すように、打って変わって活力に満ちた高い声。
半分に領地分割された五〇メートルプールの向こうでは、女子がタイム計測をしていた。スタートの合図とともに、数人の女子がプールの壁面を両足で蹴る。
たちまち、そのうちの一人が、他を圧倒する速度で水中を突き進んでいく。後方の水を叩く足も、前方の水をかき分ける腕も、動きはゆったりとしたものなのに、その動きに不釣り合いな推進力で彼女はぐんぐんとゴールに近づき、あっという間に反対側の壁面にタッチした。
「すごい茜ちゃん、三〇秒切ってる! 水泳部でもないくせに!」
と、計測をしていた子が、嫌味めいた冗談を言うと、泳いでいた子は大きく息づきながらゴーグルを外し、差し出されたストップウォッチを覗きこんで、「ホントだ!」と素直に喜んでみせた。後からゴールした他の女子たちも、集まってすごいすごいと囃し立てる。
「
青柳が感心した顔をする。
僕は、その光景を見て、あれ、と意外に思った。その理由はみっつある。
潤朱門
派手すぎず、かといって清楚すぎず、今どきの高校生の雰囲気を邁進しているわけでも、古風だったり我が道を歩んでいたりしているわけでもない、絶妙にバランスのとれた外見をしていた。「よく見れば美人」、と、そういうことでもない。正確に述べようとするならば、なんというか、美人なのは自明なのに、誰もとりたててそのことを話題にしようとしない、という感じだろうか。もちろん、その話題のされなさには、たとえば嫉妬のようなネガティブな要素は微塵も見受けられない。
その不思議なバランス感覚は、彼女の行動にもあらわれている気がする。あらゆるクラスがそうであるように、六組にも中心的な人物・グループというものが存在している。潤朱門さんは、ある時には彼ら彼女らと同じグループのように仲良くはしゃいでいたと思いきや、まったく別のグループに混じってお昼ごはんを食べながら共通の話題で盛り上がっていることもある。これは、潤朱門さんが高校入学に際し他県から引っ越してきたがゆえに、誰も同じ中学の友人がいないという事情を考慮すると、驚愕すべきことではないだろうか。
よくよく教室の力学を観察していると、実はこのクラスは、彼女を見えない中心として動いているようにさえ錯覚してしまうことがある。特に、先月あった文化祭で、僕はその疑念を深めた。高校初めての行事で、企画においても製作においても当日の運営においても、何の滞りもなく、クラス展示が学年賞をもらえたのは、ひょっとしたら展示リーダーでなく、副リーダーを任されていた潤朱門さんのおかげだったのかもしれない。
滞りなくとは言ったものの、そこは思春期極まる高校一年生。もちろん小さないざこざは無数にあった。大抵はいわゆる「働かない男子」が発端となる。そこから男子と女子の対立が生じ、続いて行事に乗じ男子に好かれようと試みる、悪く言えば「媚びる女子」とそうでない「働く女子」との間で文化祭とはあまり関係の無い二次的対立が生じ、そのおかげでむしろ男子はほっておかれて作業は遅々として進まず、それに気づいた誰かが思い出したように再び糾弾をする――というありがちな円環地獄にうちのクラスが陥ることがなかったのは、後から振り返ってみれば逆に不気味なことだった。頻発する火種は教室全体に燃え広がる前にいつのまにか、全て丁寧につぶされていた。そしてこの涙ぐましい火消しを遂行していたのが――おそらく――潤朱門さんだった。
しかし、そのことに、クラスの誰も気づいてはいないようだった。潤朱門さんは、さっき述べたように地味だというわけじゃあない。多分「地味」というのは、結局のところ、存在感の発露の仕方のひとつにすぎないのだ。地味ですらないということが、おそらく彼女の存在感をぐっと希薄にしているのだ。
不思議なバランス。
不思議な存在感。
ロボットのような。
あるいは幽霊のような。
こういった理由で僕は、潤朱門さんのことを陰ながら気にかけていた。なぜこの不思議さに、誰も気が付かないのだろう。とはいえ、僕が彼女に注意を向け始めたも、
そんな潤朱門さんのことを、隣のクラスの青柳が知っている。これが、意外に思ったみっつの事柄のうちのひとつめである。
部活動で一緒とかでもない限り、高校で別クラスの人のことを覚える機会というのは案外やってこないものだ。ましてや相手は不思議な潤朱門さんである。なのになぜ青柳は彼女のことを知っているのか。
まあ、この謎についてはすぐに合点がいった。青柳は、とある方面において努力を惜しまぬやつなのだ。学校の綺麗な女子の名前くらい、チェックしていて然るべきである。
ふたつめに妙に感じたのは、潤朱門さんが水泳で好タイムを出したということ。
容姿においても、コミュニケーションにおいても、独特だとさえ言いがたい繊細な度合いに位置づく潤朱門さんは、やっぱり、勉強においても運動においても、目立った成績・場面を見せなかった。なにか目視できない特別な力が働いているかのように、もしくは自分で働かせているかのように、彼女は「突出」という言葉から、絶妙な距離をおいていた。
にもかかわらず、である。
泳ぎにおける速さの基準を、僕は把握していないけれども、「水泳部でもないくせに!」と言われるくらいなのだから、きっとそれなりのものなのだろう。潤朱門さんは、中学時代に水泳部だったり、スイミングスクールに通っていたりしたのだろうか。それとも、シンプルに、水泳の才能が彼女には備わっているのだろうか。
そうであったとしても。
みっつの意外に思ったことのうちの最後のひとつは――これが一番印象に残っている――彼女の泳ぎ方にあらわれていた。
潤朱門さんは、五〇メートルを泳ぎ切る間、一度も息継ぎをしなかった。
わからない。気にする必要は、本当はないのかもしれない。さっきまで、酸素を求めてあえぐ男子集団を見ていたから、それとの対比で、余計に心に引っかかったのかもしれない。
けれども、三〇秒弱、息を止め続けるという行為には、どうしたって我慢が伴うはずだ。そう、潤朱門さんは、我慢していた。うがった見方かもしれないが、おそらく潤朱門さんは、泳ぐのに際し、手を抜かなかった。これは、彼女にいかなる経歴があろうとも、どれだけの才能があろうとも、そのこととはまったく関係がない。
なぜ、潤朱門さんは、手を抜かずに泳いでしまったのだろう。もう少し適当に済ませれば、「突出」せずに済んだのに。
僕は、こういったことを考えながら、潤朱門さんの姿を目で追っていた。水着によって圧迫された彼女の体は、空中を進むのに最適化された飛行機の機体のように、人として洗練された輪郭を持っているように感じられた。
「おい、素雄」
名前を呼ばれて気が付くと、青柳が校舎の時計を指差していた。
「そろそろ授業終わるし、先生が、勝手に教室戻っていいってさ。俺らは体操着だし、早く行こう」
「あれ、もうそんな時間か」
「あとなあ、素雄」
何?と訊ねたら青柳は顔をしかめ、「あんまり、スクール水着を着た女子高生を、まじまじと見るもんじゃない」と苦言を呈した。
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