スピンオフ・バンカーズ
田中校
序 「バンカーズ・パラドックス」
-1/1-
かけがえのないものが嫌いだ。
かけがえがないということは、とりかえしがつかないということだ。
とりかえしがつかないということは、ひとつしかないということだ。
そうわたしはひとつしかないものが嫌いだ。
ひとつしかないからかけがえがない。ひとつしかないから、それを失ってしまったらとりかえしがつかない。自明も自明。まったくもって当たり前の結論。
しかし残念ながら、ひとつしかないということになんらかの価値を見出そうとする連中のなんと多いことか。
そいつはたとえば諸行無常をさも意味ありげに謳う琵琶法師(古い例)。繊細な手先でもって職人芸の極みに近づき続ける人間国宝や彼らの仕事をひたすらありがたがる自称目利き。あるいはその場限りの即興演奏にこだわるミュージシャンも、トランプにサインをさせる手品師だってそうだ。「これでこのスペードの6は世界に一枚しかないということになりますね」サインをした女性客が答える。「あら素敵」なにがステキだアホらしい。「あら」とか詠嘆してんじゃねーよばーか。
ほんとうに素敵なものとは、どう考えてもひとつしかないものじゃなくて、たくさんあるものの方だ。とりかえしがつくもの、かけがえのあるものこそが真に価値を有するのだ。ひとつ失ってもまだ大丈夫。一度間違えてしまっても次がある。こんなに素晴らしいことがあるだろうか。こんなに心に平穏をもたらすことが果たして他にあるだろうか!
「失いたくないと思うからこそ、それを大事にしようと思うんじゃないか」
という反論がすぐさま返ってきそうだ。辟易する。
もっともわたしはこれまでのような主張を公に述べたことがない。ないのかよという感じだがそんなことはどうでもいい。というかこんなしょうもない言いがかりに応答しなければならない労苦を思うと、それがほんとうに大事なことだったとしてもわざわざ主張する気なんてすっかり失せてしまう。ともかくこういう反論をしてくるやつは何の意志も思慮も心も脳ももたない、昆虫以下の存在に他ならないことだけは完膚なきまでに疑いようがない。昆虫に失礼だったかもしれない。失礼でした。申し訳ありませんでした。
大事にする。そんなヘヴィーな行為をしなくちゃいけないから、かけがえのないものなんていらないんだと言ってるんだよわたしは。丁重に扱うことに、気を配ることに、全神経をフル活用させて「いまこの瞬間」とやらを味わうことに、そしてそうした取り組みが結局無為に終わった後で消え去った宝物や過ぎ去った時間に思いを馳せることに、どれだけの物理的・心理的コストがかかることか。その重さが忌まわしくて忌まわしくて仕方がない――こういう思考に共感できないという方が理解しがたい。
唐突になんだと思われるかもしれない。いや大丈夫、もちろんこれまでの話とつながっている。
銀行家は、お金を貸し出す。どのような人に? 自分が銀行家の立場になってみれば想像しやすい。それは無論、貸したお金を返してくれそうな人。「クレジット」とは、御存知の通り「信用」という意味だ。
だけど銀行からお金を借りたがっている人というのは、たいていその逆である。すなわちお金を借りたがっている人というのはおしなべてお金に困っており、お金に困っている人というのは総じてお金を返済する能力が不足している。裏を返せば、確実にお金を返してくれるだろうと思われる人ほど、銀行からお金を借りる必要に迫られていないということになる。まさしくここには
重要なのは、バンカーズ・パラドックスと最初に言い出した学者が、何を想定してこんな造語を生んだのかということなのだが――。
これは、友情の謎をめぐってつくられた言葉である。
「銀行家」を「あなた」に、「お金を借りたい人」を「助けを求めている友人」に置き換えてみればいい。
あなたは、どういう人を友人にしたいと思うだろうか?
銀行家がお金を返してくれそうな人を好むがごとく、当然、友人にするには自分を助けてくれる人がいいにきまってる。しかし、「助けてくれる人物」を必死に求めているような奴ほど、友人にふさわしくない人間はいない。なぜならそいつは、人を助ける能力が不足している確率が極めて高いからだ。言い換えれば、そいつは「信用」できないからだ。
馬鹿な奴からすぐにこういう反論が返ってくる――可能性がある。
「ともだちというのは、損得で測れるものじゃあないんだ。そういう尺度を超えて、『こいつじゃなきゃダメなんだ』と思い合える相手こそ真の友人というものなんだ。友情を損得でしか考えられないなんて、かわいそうな人だ」
わたしの貴重なエネルギーをわざわざ消費し、昆虫様と比較することすらおこがましいこういった間抜けにあえて再反論するとしたら、こうなるだろう。
かわいそうでみじめなのは貴様の方だ。
「こいつじゃなきゃダメなんだ」だって?
人の話を聞いてなかったの?
だからさあ、かけがえのないものに価値なんか無いんだって。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます