なんだ、大きな猫じゃないか。
芝村裕吏
第1話 夏の大砲
熱気を抱えた夏風の調子もよろしければ二本木のこの辺りまで、正午を告げる大砲の音が聞こえてくる。
西南の役で焼けた城址に古い大砲があり、時刻を告げるために使われているのだという。
誰が何を考えて毎日時刻を知らせようと思ったのかは分からぬが、まったくの役立たずということもなく、飯を食べるかとか、外に出ようとか、そういう合図がわりにはなっている。かえって聞こえない日はずるずると食事を逃してしまうほどだ。
大砲の音が聞こえたその日は、百斤ほどもあるボーブラを七輪で焼いて食べた。駅も目の前の春日で採れたボーブラは甘く、噛めば滋味溢れ出るものがある。鰹節を削り散らし、醤油などたらせば立派な馳走というものだ。
味と量に満足し、しばし目線を旅立たせた後七輪を片付け、暑さに追い立てられるように二階の部屋に戻った。二階の方が暑いのだが、自室ならば褌も緩められるというものだ。窓から身を乗り出し、ボーブラを焼くのに使った団扇で顔を扇ぎ、涼をとった。サイダーの一つも飲みたいが、生憎持ち合わせはないときている。
二階の窓からみれば、もう夏というのに後輩の近藤君が走ってきている。
懐も渋い彼のこと、遊郭に用があるようには思えないので、きっと僕のところに御用があるのであろう。そこで褌を締め直し、兵児帯を巻いたあたりで、下で下宿屋の女将と話をする声が聞こえた。
「よう来なはった。どぎゃんしたとね」
階段から顔を見せてそう言うと、近藤君は顔を真っ赤にして口を開いた。
「先輩聞いてはいよ、化け猫が出たてたい」
「なんてや、化け猫てや」
「そうたい化け猫たい」
地の言葉で書くとかくのごときやり取りがあった。
訳せば先輩聞いてください。化け猫が出たんですよという。
御一新も随分しての話なので、いささか時機を逸した感がある。それで、二回聞いた。間違いないという彼の言葉を門前払いにする。
ーー近藤君、今は現代だよ。
僕は意訳するとそんなことを言った。熊本も既に科学都市として歩み出そうというところだ。今更化け猫が出ても鍋島もなければ相良もない。そもそもどちらも熊本には関係ないじゃないかと諭した。
近藤君は言うに事欠いて別の猫かもしれないじゃないですかと言ってきた。別の猫は銃で打たれて死んでいると思いつつ、これ以上言えば男らしくないので黙ると、近藤君は化け猫は錦山神社にて見かけられたという。
錦山神社といえば本妙寺。本妙寺と言えば加藤清正公だ。清正公と猫が昵懇とは思えず、どうにもこの話は近藤君の勇み足のような気がしてきた。
−−しかし近藤君、君は化け猫の事をあまり知らないようだが、彼女達も故なく人地にお邪魔してくるわけではない。妖怪というものは腹が減ったとかそういうものでは動かぬものだ。だからこそ三角の港に化け猫がよってたかるようなことがない。清正公は虎と戦っても猫と戦うことはしなかったであろう、以上から故なきかの地に顔を見せるとは中々考えにくい。
僕はそう言ったが、言った先で少々物を考えた。化け猫は本当に化け猫であったか。
ーー近藤君、自称化け猫の大きさはどれくらいだろう。
ーー当世熊本で話題になるには、まず二間はないといけないでしょう。二本木まで聞こえてくるなら三間ほどもないと噂にならぬのではないでしょうか。
ーー間をとって二間半として十五尺、僕の背が概ね六尺としてその倍以上。しかして色柄はどうだろう。
ーー白猫なら神の使いとありがたがる者もいるでしょうし、黒猫なら夜に紛れて気づかなかったでしょうから、まあ雉あたりが妥当なのではないでしょうか。
ーーそりゃ虎じゃないのか。
ーーええっ虎?
近藤君は腰が砕けたように壁際に去った。まったく意気地のないことだが、僕はかえって敵愾心が湧き上がった。おおよそ男子として幼い頃に虎退治を夢見ない者もおるまい。遠いマレーまでいかなくても夢が適うとなれば、これを放っておく手はない。
即断即決即実行が熊本人の考える自らの美点である。それで、早速警察署に行って銃の所持許可を貰って来た。
そのまま銃砲店に行き、許可証を見せて銃をくれと言った。どれも高いので閉口したが、舶来のラッシャンモデルという銃を気に入り、これを買った。弾六十発に国産の銃床までつけて随分な価格になったが、日々のサイダー代に事欠いても武具の金はちゃんとしまって置くのが熊本人というものだ。ついで花畑の実家まで走って馬を借りた。少々年はいってるが、銃の音にも驚かないという。
ーーよし近藤君、虎を退治しよう。
準備を整え、兵児帯に銃をさして馬で戻ったところ、近藤君の姿が見えない。下宿屋の女将によると晩飯のために帰ったという。僕は憤慨して錦山神社に馬を走らせた。近藤君には正体というものがない。
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