紅玻璃篇:第四章

 日もとっぷり暮れた、学園の駐車場。

 帰路の途中で薬が切れ、目を覚まして自分が置かれた状況の説明を聞いたななみは、学園に着いて彩乃に会うなりぺこりと頭を下げた。


「は、はじめまして! た、たた龍野なななみですっ! この度は危にゃいところを助けていただいて、どうもありがとうござましたっ!」


 緊張のせいか、あちこちカミカミになるななみに、彩乃はぱたぱたと手を振る。


「い~え~。無事でなによりでした~。みんなもお疲れ様~」


 ねぎらいの言葉をかけられ、緊張の糸が切れたところで、誓たちの身体にもどっと疲れが押し寄せた。肉体的疲労に加え、度重なる識術の使用による精神力の磨耗が激しい。

 長旅の疲れもあり、誓は肩を叩きながら気だるげに言う。

「……じゃあとりあえず、今回の任務は達成ってことで?」

「はい~。まだ正式に書類の手続きが終わるまでは油断できませんが、ゆっくり休んで下さぁい」

「宿舎に案内するわ。ななみも一緒についてきて」

「は、はい」

 仕事が少し残っているという彩乃を校舎に残して、紗夜の先導で4人は学園の石畳を歩き出した。


 古宮学園は元・全寮制の学校である。

 全国から生徒を募集する関係上、設立当初から豪勢な宿舎が建っていたというが、その様子はかつてとはかなり変わっていた。敷地や建物のほとんどは切り売りされ、かつては多くの薔薇を咲き誇った生垣は手入れが行き届かずにプランター花壇に取って代わられ、紅茶を優雅に嗜むテラスがあった場所は物干し台と化している。


「ウチも昔はお嬢様が通う上品な学校だったらしいんだけどねー。今はこの通り」

「学園も寂しくなったものね……」


 唯一、在りし日の学園を知る紗夜が遠い目でぽつりとつぶやく。

 かつての栄華も賑わいも失われて久しいが、彼女の挙措に垣間見える優雅さこそが、あるいは今となってはかつての学園の最後の名残であろうか。


「……でも」

 静かな学園にも、耳を澄ませば近隣の家庭から聞こえる子どもの声や、夕餉ゆうげの支度の音、部活動帰りの学生の話し声などがかすかに聞こえてくる。切り売りした土地に新興の住宅地が建ったせいだが、そこかしこに生活の音があふれていた。

 ななみは心地よさそうに周囲の音に耳を澄ませ、微笑んだ。


「わたし、こういう雰囲気好きです。施設も小さい子がいっぱいいて賑やかでしたから。足元のレンガも良いから踏み心地がいいし、それにあちこちにハーブが植えられてて、すごくいい匂いがしますね」


 光のない世界に生きている少女の一言に、紗夜はもちろん絆も誓もハッとさせられた。

 目が見えないことは不自由なことだと勝手に思っていた。狭く、暗い、何もない闇の世界だと。それがこんなにも、豊かな世界を感じていられるものだったとは。


「そう――――かもしれないわね。……ありがとう」

「?」

 古宮学園は、確かにここにる。この街と共にる。

 過去の栄光にばかり目を向けていたことに、はからずも気付かされた紗夜であった。


 そうこうするうちに、4人は1棟だけ残された寮に隣接した一軒家に到着した。


「元々、寮監さんのために建てられていた住宅よ」

「ホントは管理人代行の彩乃ちゃんの家なんだけどね……」

「一緒に住んでるのか?」

「寮は今はただの物置。あたしが来たくらいから、『一人でいるのは寂しいですぅ!家事が面倒くさいですぅ! 誰か一緒に暮らしなさぁい!』って流れに」

 絆の口真似に、その光景が目に浮かぶようだった。 

「あー、言いそう……」

「とにかく上がって頂戴。荷物も運んでおいたわ」



 誓が自室としてあてがわれたのは、2階の四畳半の和室であった。

「狭くて申し訳ないわね」

 がらんどうの部屋に、誓のボストンバッグと畳んだ布団のみが置かれている。

「え、ここ一人で使っていいのか!?」

 部屋の中から、子どものように嬉々とした表情で尋ねる誓に、扉の外の紗夜が何を当たり前のことを、と言いたげな顔をする。

「? 当たり前でしょう」

「っしゃぁ!!」

 自慢ではないが、生まれてこの方、相部屋の共同生活しか経験がない。一人部屋というだけで、文句の出ようはずもなかった。

「じゃあ、次はななみだけど……私達の部屋に泊まってもらおうかしらね?」

 恐らく客間でもあった和室を誓が使ってしまうため、必然的に同性の二人のどちらかの部屋に寝泊りしてもらうのは当然と思えたが……。


「む、無理無理無理!! あたしの部屋は絶ッ対、無理ッ!!」


 ――――確かに、その通りであった。

 六畳ほどの洋室だが、ベッドの上にも床の上にも、脱ぎ散らかされた洋服、読み散らかされた雑誌、店の紙袋などが散乱している。

「だ、だって、お客さんが来るとか聞いてなかったし!」

「普段から片付けていれば、こんなことにはならないんじゃない?」

 まるで母親と娘の会話だな……と思いながら、誓は部屋に置かれた家具などを見渡した。

「汚ぇけど……さすがに「晶識」使いの部屋って感じだな」

 カーペットの上に置かれたローテーブルも、その上に散らかされた髪留めや腕飾りも、全てガラスでできていた。

 識士クオリアにはよくあることである。自らが操る物質に日頃から触れ合うのは基礎的な訓練であり、効果的な自衛方法でもあり、なにより単純に落ち着くのだ。

「男がジロジロ見るな、変態っ!! もういいでしょ会長、そっちの部屋にしてよ!」

 顔を真っ赤にして、紗夜の背中をぐいぐいと押していく絆。

 ため息まじりに、紗夜は自室の扉を開けた。


「わぁ……」

「す、すげぇ……」


 誓とななみが同時に声を上げたのは、部屋の壁という壁に設けられた本棚を埋め尽くした、夥しい量の本のせいである。

 床から天井近くまでを埋め尽くした、「書識」使いの紗夜の圧倒的な知の牙城であった。

「紙と、インクと……少しだけ埃とカビが混じった古本の匂い。まるで図書館みたいですね」

 ななみが鼻を動かしながら言う。

「物が多くてごめんなさい。気に入った本はなかなか手放せなくて」

 紗夜は、日焼けした文庫本の背表紙をそっと撫でた。

「会長って子どもの時から本の虫だったんだって。学園の図書館の本、全部読んだんだよね?」

「そんなわけないでしょう。せいぜい8割よ」

「マジかよ……」

 もはや文学少女などという域を超えた、重度の活字中毒者である。

「ご覧の通りの狭い部屋だけど、今晩はここで寝てもらうわ。布団はあとで用意するから」



 それぞれ部屋着に着替えた3人とななみは、リビングに集合した。

 今晩の食事当番という絆が、エプロン姿で湯気の立つどんぶりを乗せたお盆を抱えて台所から出てくる。

「ご飯できたよー! いやー、自分の手際の良さにびっくりだねー」

 自画自賛しながら、テーブルの上に乱暴に置いていく。

「またインスタントラーメンなの……」

 普段はコンタクトレンズだったらしく、眼鏡に替えた紗夜がうんざりした様子でつぶやく。

「うぉぉ! このラーメン、具が一切無ェ…………ッ! ラーメンかよ!?」

「文句あるなら食うな、貴様らーっ!!」

 なんやかんやとわめきながらも、味に無頓着な絆は平然と、慣れている紗夜は嫌々な顔をしつつ仕方なく、そして修行で粗食には慣れている誓も意外と平気そうに、その栄養バランスもへったくれもない炭水化物を胃袋におさめていく。


「……ば、晩御飯、これだけですか?」

 唯一まともな感覚を持っていたのはななみだった。

 軽いカルチャーショックを受けた様子の彼女は、声を震わせながら言う。

「あ、明日の晩御飯はわたしが作ります……ありえない……こんなのありえない……!」


「え、ななみ料理なんてできるのか?」

 ――目が見えないのに、と言いかけて、誓は慌てて口をつぐんだ。

「できますっ! こう見えて自信はあるんですよ。施設じゃわたしがお料理担当でしたから」

 どうやら問題ないらしい。誓は自分がやや恥ずかしくなり、頬をかきながら言った。

「そっか……。じゃあ、明日はよろしく」

「はい、任せてくださいっ」

 とびきりの笑顔が返ってきた。



 食事の後、お茶を飲みながら、話題は自然とななみのこれからについての話になった。識士クオリアについてあまり知らないななみが聞き上手なこともあって、3人は先輩として、知りうる業界の内情を伝える。

「へぇ、識士団ギルドっていっぱいあるんですね」

「ええ、大きいのから小さいのまでね。仕事内容は表裏両方あるけど……表立った仕事では、企業への人材派遣が一番多いかしらね。あなたも経験あるでしょう、絆?」

 マグカップを傾けながら絆が頷く。

「昔、ちょっとだけガラスメーカーとかレンズ屋さんで働いたことあるよ。結構いい稼ぎだったなぁ」


 企業にとってみれば、自在に物質を操れる識士クオリアの存在は大きい。

 なにせ時間も費用もかかる基礎研究や、高価な機材や薬品といったものを一切必要とせずに物質を操るのだから、高レベルの識士には大きなニーズがあった。

 なお製品そのものの製造に識術を使うことは法律で禁じられているため、主に研究開発や試作品の製作段階での協力が、主な仕事である。

「……ま、この学園に来てからは、依頼はさっぱりだけど」

 識士団ギルドの知名度は社会的なステータス、信用度でもある。大手企業は機密漏洩を恐れて、どこの馬の骨とも知れない低ランクの識士団には見向きもしない。

「逆に、世界的に有名な識士は、経済誌とか新聞にも普通に載ってるぞ」

「……?」

 誓の言葉に、点字新聞をたまに読むことしかないななみは首を傾げた。その様子を見て、紗夜が指を折りながら何人かを列挙する。


「山すら動かす「土識どしき」使いの究極。連合ユニオン最強の識士“移山大聖ツァオバーベルク”こと東堂とうどう・オーデンヴァルト・王覇おうは

 中国の仙女の末裔といわれる“金枝天尊ロードシルヴァニア”こと章蒼連チャン・ツァンレン

 バイオテロリストの双璧、”絶滅事変ブラック・デス”こと謝芳宇シャ・ユーリンと””蝿の王アバドン”ことグェン・タン・ビエン……」


 紗夜の口から次々と出てくるのは、いずれ劣らぬ綺羅星の如き識士クオリアの達人中の達人たち。もはや生ける伝説、古宮学園からすれば雲の上のような存在である。

「(……懐かしい名前だな……)」

 それを聞いていた絆がぽつりと何かを呟いたが、その声は皆の耳には届かなかったようだ。

「何か言った?」

「うぅん、なんでもない」

「……?」


 誓が怪訝な顔をしたところで、玄関のドアが開く音がする。

「ただいまですぅ~。はー、疲れたぁ……」

「先生だ。おかえりー」

 そして残業を終えて帰ってきた彩乃も交えて、ななみを囲んだ和やかな歓談は遅くまで続いたのだった。



「ふぁぁぁぁぁぁぁ……ねむぅぅ……」

「……珍しく気が合うわね……」


 夜も更けて、皆が寝室に向かった後のこと。

 ここは学園の校舎の屋上である。

 彩乃が連合ユニオンに問い合わせるも、結局、背後関係が分からなかった昼間の誘拐犯たち。その仲間が夜の闇に紛れて再び襲ってこないよう、見張りをしようということになったのだ。


 一昔前には敷地の入り口に警備員が常駐していたというが、もちろん現在では監視カメラの類すら無い。

 そこを識術でなんとかしろ、ということで誓と絆が見張り役を言い渡されたわけである。

「ね、眠い……眠すぎる……」

 昼間の疲れがいよいよ本格的に出てきたようで、目蓋が鉛のように重い。空になった缶コーヒーもカフェイン入りのタブレットも、さほどの効果はないようだ。

「……やっぱり体力落ちたなぁ。いや、そんなことより会長と彩乃ちゃん……あたしら二人だけ働かせて自分たちはすやすや安眠とはどーゆー神経だ……ぶつぶつ」


 二人はそれぞれ愚痴を垂れながらも、眼下に広がる夜景を眺めた。小高い山の頂上に建つ古宮学園の屋上からは、麓に広がる街並みやその先の港湾地帯、そして黒く染まった海までが一望できる。

 見張りでなくともたまには来ようと、誓が思えるほどの夜景であった。

「で、どうする? 4方向を二人で分割するか? それとも交代?」

「あたし一人で十分よ」

 誓の提案に、そっけない返事が返ってくる。とはいえ昼間とは違い、その言葉に張り合っていたり強がっている様子はない。あくまで事実を伝えただけ、という感じであった。


「はぁ…………。この能力は使いたくないんだけどなぁ……」


 なぜか溜め息混じりの絆である。

 しばらくそのまま呆けていたが、やがて覚悟を決めたのか、ぱんっと手を合わせて目を閉じた。

「――――――――!」

「…………へぇ」

 かなりの精神集中である。額にはうっすらと汗まで浮いていた。

 それもそのはず。彼女がこれから使おうとしているのは、これまでに使ってきた視覚化ビジュアライズや、あるいは誓が使った下僕化ミニオナイズと比べてすら、段違いにレベルが高い術だった。


 先に挙げた術は、身近に存在する特定の物体のみを『知覚』し、それを操るものだったが、今回彼女が『知覚』しようとしているのは、自らの周囲約1キロ四方に存在する”全て”のガラスである。

 学園の窓ガラス。

 理科室にしまわれた試験管。

 麓のマンションの何百枚もの窓ガラス。

 その一室に置かれた、化粧台の鏡や引き出しに入ったピアスの一つに至るまで  

―――――――文字通り、全て。


 そして『知覚』したそれらを、ガラスという無機物ではなく、体外に存在する感覚器の一つでもなく、もはや自らの体を構成する一要素とみなす。


 拡張されていく自らの身体。

 無数のパーツから成る、複雑な構造体としての自分。

 空間内にあまねく存在する、広義の自我。


 言葉で表現するならこういったものをイメージし…………絆は、その「空間」の名を口にした。


識域結界リミナル・スペース――――『水晶宮ギヤマニック・プリズン』!!」


 高位の識士クオリアのみが展開可能な絶対知覚空間、「識域結界リミナル・スペース」。

 展開する術者にとってのこの空間は、縄張りやテリトリーなどというものを超えて、もはや自らの体内にも等しい。

 絆で言えば、展開中は空間内の”全て”のガラスが常時、監視カメラ兼・盗聴器兼・臭気センサーと化しているようなものだ。空間の広さと知覚精度は反比例するので、ここまで広域になれば視覚情報を得る程度に留まるが……それでもこれだけの範囲の結界を展開し、数時間に渡って維持できるような識士は稀だろう。

 誓も、これだけ大空間の結界を見たことは過去に1度か2度である。

「……索敵範囲と持続時間、聞いていい?」

「疲れてるから全然だけど、視覚化ビジュアライズに絞れば半径2kmくらいなら。一晩中展開しろって言われたらするわよ、ヤだけど」

「……!!」

 驚嘆で息を飲む誓。しかしそれだけの能力をなんら誇るでもなく、絆は吐き捨てるかのように言った。

「…………ほんっと、嫌な術。使いたくもないわ」


 屋上の床に腰を下ろし、静かに目を閉じて周りの様子を監視し続ける。

 ほどなくして思ったとおり、不審な動きをする車が数台、結界の範囲内に侵入してくるのを発見した。

「来たわよ」

 絆はすぐさま結界内の余計な領域の知覚を遮断。その車の周囲にのみさらに意識を集中させると、昼間以上に物々しい装備で身を固めた男たちが乗り込んでいる様子が『』えた。

 派手な銃撃戦にでもなれば、学園への被害は避けられないだろう。近隣への影響も甚だしい。


「……させない。この学園は、あたしが守る」

 

 目を見開いた絆は、ゆっくりと立ち上がった。

 先手必勝。相手が油断しているうちに叩いておくのが、最も効果的かつ効率的と判断したのだろう。

「すぐに戻るから」

「あ、あぁ」

 援護はもはや不要だろう。思いつめたような表情が気になるが、なんとも声をかけづらい雰囲気である。


 誓が見送る中、絆は力強く屋上の床を蹴り、闇に身を躍らせる。

 山の木々や周囲の建物を足場に次々と跳躍しながら、絆は狩人のごとく、静かに襲撃者の元へと駆けていった。





 誓は奇妙な光景を見た。


 これは夢だろうか―――。


 そこは何も無い部屋だった。

 家具類やおもちゃも何も無い、ほこりっぽい小さな狭い部屋。

 その部屋で、幼い女の子が一人で膝を抱えて座っていた。

 何も映していないような虚ろな瞳で、窓から見える空ばかりを見つめていた。


(…………この子は…………副会長?)


 その少女は、まだほんの3,4歳の頃の、絆だった。


 夢うつつの中、自意識の境界までもが曖昧になる。

 やがて誓の意識は、幼い絆のものと同化していった。




 「母」は少し変わった人だった。


 それは今の時代、さほど特筆するようなことではないのかもしれないが。

 とにかく我が子と話したり、一緒に遊んだりするという行為が、彼女にはとても難しいことだったらしい。自分は物心ついてから家を出るまでの数年間、ずっと家の一部屋に押し込められて過ごしていた。


 狭くて暗いその部屋の唯一の楽しみは、窓から見える景色だった。

 外側から施錠されていたので開かなかったけれど、そこだけが外の世界との接点になってくれた。

 自分は精一杯背伸びしてその窓を覗きこみ、いつも窓の外ばかりを見ていた。


 我が家の向かいには、小さな幼稚園があった。

 同年代の子供たちが楽しそうに遊ぶ、夢のような場所。

 あまりに退屈で寂しかったから、自分もその場所に、想像の中で『通う』ことにした。幼く、痛ましいごっこ遊び。


 まさかこの遊びが、その後の自分の人生を変えるとは思わなかったけれど。


 幼稚園で一番楽しみなのは朝だった。

 自分は誰よりも早く起きて窓にしがみついて、保育士や園児達が登園するのを待った。彼らが挨拶すれば、自分も元気よく返事した。もちろん、自分に向けられた挨拶など一つも無かったのだけど。この時はみんな屋外にいるので、遊ぶ様子が見えて退屈しなかった。その中の何人かを、頭の中で『友達』にした。


 昼は朝よりつまらなかった。

 みんなは幼稚園の建物の中に入ってしまい、時々しか外の園庭に出てこなくなるからだ。

 ただ、夏場のプールだけは別だった。保育士がホースから撒いた水が虹をえがくと、いてもたってもいられなくなり、自分は自分も下着姿になって、みんながとても楽しそうに水で遊ぶのを見ていた。我が家でごくたまに、思い出したように入れられる風呂の水は、浅くて、汚くて、あんな風に遊べないのでひどく羨ましかった。


 夕方になってからがつらかった。

 親が迎えにきて、園児たちを次々と連れ帰ってしまうからだ。

 もし迎えが来なければその子はどうなるのだろう、もしかしたらそのまま幼稚園に住みつくのかもしれない。そしたら、うまくいけば自分に気付いてくれて、本当の友達になってくれるかもしれない……そんな期待もしたけれど、残念ながらそんな友達は一向にできなかった。


 最後に残った保育士が門を閉めて帰宅すると、自分は部屋の隅でうずくまって、一人ぼっちの長い長い夜を、ただひたすら耐えた。


 そんなふうにして幼稚園に『通う』うちに、自分にある変化が起こり始めた。

 毎日毎日何時間もガラスに触れ、ガラスごしに外を見たり、音を聞いたりしていたせいか、徐々にガラスと自分の違いが判らなくなっていったのだ。

 いつのまにか、雨の日は窓ガラスを伝う雫の冷たさが、風の日は吹き付ける風の感触が、自分の身体に触れたもののように感じられるようになっていった。


 もしかしたら、幼稚園のガラスもそうなのではないか?

 そう思った自分は、懸命に目を凝らして幼稚園の窓ガラスごしに建物の内部を見ようとした。するとやがて、おぼろげながら園児たちの姿が見え始め、数ヵ月後には保育士の絵本朗読の声まで聞こえるようになっていた。

 おかげで昼間も退屈しなくなった自分は、ますますガラスを操ることにのめり込んでいった。


 月日が過ぎて。

 自分の眼と同じくらい鮮明に幼稚園の内部を見れるようになり、おやつの匂いまで嗅げるようになった頃。園児たちの様子が急にあわただしくなった。

 小道具を作ったり、踊りの練習を始めたのだ。いわゆる生活発表会とかいうやつが近かったのだろう。自分ももちろん踊りや歌の練習に参加した。


 そして発表会当日。

 多くの保護者が集まる中、その発表会は始まった。

 園児たちが一生懸命練習した踊りを披露し終わった頃――――自分は、見た。


 これはいい。


 これだ。


 これしかない!


 ようやく光が見えた気がした。

 自分はある計画と希望を胸に、その日は一日中ドキドキしながら「母」が帰ってくる夜を待った。


 そしてその夜。


「母」が食事を部屋に運んできた時を見計らって、自分は覚えた踊りと歌を披露した。

 昼間の発表会で、演技を終えた我が子を、満面の笑顔と惜しみない拍手で迎えた母親たち。

 とても優しく、温かく―――――ひどく当たり前なその光景が、再現されると思ったから。


 腕を振り。

 足を踏み鳴らし。

 跳んで。

 しゃがんで。

 くるくる回って。


 懸命に踊るうちに、着たきりスズメの服は汗に濡れて、ただでさえ垢や脂で汚いのに一層ぐちゃぐちゃになった。

 会話らしい会話をしたことがないので言葉をうまくしゃべることができず、歌は音程が外れたひどいものだったけれど、構わず金切り声を上げ続けた。


 必死だった。

 ただただ必死だった。


 今の自分の行為が、幼稚園のテレビで『見』た、餌をねだって檻の中で懸命に芸をするゾウやアシカと大差ないということは、なんとなく分かっていた。


 それでも、自分のことを見て欲しかった。


 もがいてでもあがいてでも、人間扱いされなくとも、この部屋から出たかった。


 笑顔を、見せて欲しかった。


 いつもは我が子に一瞥もくれない「母」も、その時ばかりはしばらくの間、無言であたしを見つめていた。


 でも結局、幼稚園で見た光景が、この部屋で再現されることはなかった。

「母」はそれ以上の関心を示すこともなく、顔を背けて部屋から出て行った。

 自分は「母」にとって、我が子どころか檻の中の動物ですらなかった。


 ガラスと一体化した女の子は、置き去りにされた、ただの汚い「モノ」だった。



 次の日から、自分は幼稚園に『通う』ことをやめた。

 ガラスを操ることもやめた。

 一日中膝を抱えて座りながら、虚ろな瞳で空ばかりを見つめていた。


 すぐそばに当たり前にあるのに。永遠に届かない、その青空を。





「――――ッ!!」


 午前7時を知らせる目覚まし時計の音に、誓は目覚めた。


 昨夜遅くまで屋上で見張りをしたことは覚えている。

 その後、フラフラになりながら自分の布団に潜り込んだ気がするが……。


「…………ん……」

「(のあぁぁぁぁぁぁっ!!)」


 なんと寝床の隣には、髪をほどいた絆が寝息を立てていた。

 同衾どうきん。不純異性交遊。

 そのような単語が頭を埋め尽くし、ついでに乱れたシャツの胸元からちょっと嬉しいものが覗いちゃったりもして、低血圧なはずの寝起きが、3秒でおそらく人生最高記録の高血圧に到達する。


「ぶっせつまかはんにゃはらみたっ…………………ん?」

 得意の念仏で心を鎮めようと試みたところで、誓は気付いた。

 

 絆の目元に浮かんだ、涙。


「……そうか、同じ夢を見てたのか……」

 念識使いは、”思い”を感じる。隣で眠る者の強い思いが逆流してきた経験は、修行山の共同生活の中で何度か体験していた。


「…………ママ……」


 ぽつりと涙声で絆の口から出てきたのは、夢の中の少女と同じ声だった。

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蒼天のクオリア 藍川あえか @izanagi3

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