弍
「失礼致します」
由稀は分家で一番大きな部屋の前で折り目正しく頭を下げた。
「おお、由稀、来たか」
優しげな声が聞こえ、由稀は頭を上げる。
目の前には声の通りの優しい顔つきをした父、
なるほど、確かに雛乃が言っていた通りだな、と思いながら、由稀は父の前で正座し、問うた。
「どうされたのですか?父上」
「お前、姫様は知ってるな?」
「え、ええ・・・それはもちろん」
宗家の一の姫、
水無月の者なら知らない者は居るはずがない、次代の当主の資格を持つ唯一の姫のことだ。
由稀が実際に姫を見たのは生まれた時のお披露目の一度のみで、母親に抱かれた生まれたての赤子を間近に見て、ああ、この方に将来仕えるのかと胸を躍らせたのを、幼いながら鮮明に憶えている。
「由稀、お前は姫様の教育係に任命された」
「・・・は?」
突然の
耳を疑いながら呆然と父を見る由稀だが、紀夾は構わずにうんうん、と感慨深い様子で頷いた。
「この役目は重要だぞ?何せ未来の当主の側近になったも同然なのだからな」
「ち、父上、何故私がそんな大役を・・・」
半拍遅れてから何を言われているのか理解し狼狽えている由稀に、紀夾は人差し指を立てて得意げに微笑んだ。
「一つはお前の剣技の才。水無月で剣技においてお前の右に出るものはおらんからな。そしてもう一つは、お前の面倒見の良さだ。姫様は相当のお転婆らしいが、雛乃や綺芽の面倒を見ているお前なら朝飯前だろう」
「確かに剣技だけは磨いて参りましたが、本当に私でよろしいのですか?・・・私のような昇華の力も持たぬ者が姫様のお役に立てるかどうか——」
「由稀」
父が真剣な声で自分の名を呼んだので、由稀は口を閉じた。
灰色の瞳を細め、紀夾はゆっくりと息子に近づき、両肩に手を置いた。
「お前には散々嫌な思いをさせてしまったな。きっとそこまで謙虚にさせてしまったのは私のせいもあるのだろう。当たり前のように昇華の力を持ったこの水無月の中でとても窮屈な思いをさせてしまった」
紀夾の言葉に由稀は押し黙った。
「昇華」とは、世に蔓延る悪しき鬼を天へと返す力のことで、水無月が栄えた最大の理由である力だ。
水無月一族の先祖・稀月皇子が鬼と戦い、勝利した証として鬼の角を持ち帰り、その角を玉鋼に混ぜて鍛冶師に刀を打たせた事がこの力を得た始まりだとされている。
水無月の血筋の者が鬼の刀を使用すれば、鬼を従えることも天へと返すこともできた。
しかし、由稀には生まれつき何故か昇華の力がない。
その負い目は物心つくころからずっと抱いていた。何か代わりになるものを得ないと、自分が押しつぶされそうだった。
だから剣技を磨いたのだ。これだけは、誰にも負けないようにと。
「私は、お前を本当に誇らしく思っている」
紀夾は穏やかな顔で息子を愛おしそうに見てそう言った。
「これは、努力したお前への贈り物だ。自分を否定しなくていい。きっとお前なら姫様をちゃんと導くことができるはずだ。——頼んだぞ」
これ以上ない父の期待のこもった褒め言葉に、由稀は目頭が熱くなるのを感じた。
奮い立つ思いを噛みしめながら由稀は背筋を伸ばし、真剣な面差しを紀夾に返す。
——もう、そこには迷いも戸惑いもない。
「は。謹んでお受けいたします」
息子の言葉を受け、紀夾は満足そうに微笑んだ。
こうして、水無月由稀は当主の一の姫の教育係になったのである。
◆ ◆ ◆
「兄上凄いわ!姫様にお会いできるだけでもすごいのに、姫様の教育係なんてっ!」
由稀の自室で雛乃が歓喜の声を上げた。
兄の膝に両手を置きながら、雛乃はにこにことお願いをした。
「絶対、姫様のお話を聞かせてね?どんなお人柄なのかどんな格好をされてるのか食べ物は何がお好きなのかそれから」
「お、落ち着け、雛・・・そんなに言わなくても話しはする」
「約束よ?兄上っ」
「ああ、解っている」
由稀は雛乃を嗜めながらも声色は嬉しそうだった。
対して雛乃の隣に座っている綺芽は仏頂面でそっぽを向いている。
むっすー、としている弟の顔をのぞきこみ、由稀は怪訝そうな顔をした。
「どうした、綺?」
「別に・・・何でもないよ」
「何でもないって顔じゃないだろう?また何かあったのか?」
「違うわ兄上。綺芽は姫様に兄上を取られてすねているのよ」
「・・・っ!姉上っ・・・!」
雛乃がこそっと耳打ちしているのを聞いて、綺芽は真っ赤になって声を荒げた。
由稀はその様子を見て破顔したが、すぐに真剣な表情になった。
そして、二人の名前を呼び、しっかりと二人を見据えて話し始める。
「俺は明日から姫様につきっきりになる。確かに教育係の命を受けたのは光栄なことだが・・・俺は、お前たちが心配でならない」
本当に身の上を案じる声に綺芽と雛乃はただ聴き入っていた。
「お前たちが何もしていなくても傷つけられることを言われるかもしれない。お前たちが反論すれば反逆するつもりだと決めつけられるかもしれない」
俺と、綺芽と雛乃は、一緒なのだ。
俺は昇華の力がなかっただけで見下されたように笑われてきた。
水無月一族でないだけで、水無月の常識と違うだけで、忌み嫌われる。
——それは間違っているのだと、お前たちのお蔭で気づいたんだ。
由稀はふわりと微笑んで、綺芽と雛乃を抱きしめた。
「絶対にお前たちを護ってみせるよ。その為にもこの
——どうか、もう、俺の大事な妹弟を、傷つけないでくれ。
しかし、由稀の願いも虚しく、ある事件が起こるのはこの数ヶ月後の事だった。
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