壱
水無月一族の屋敷の母屋の南側には、長い渡り廊下がある。
その先には離れがあり、それは母屋をぐるりと囲むように『コ』の字の形をしていた。離れには、分家の者と従者を合わせて何十人ものが暮らしていたが、敷地が広い事と建物が大きい事から狭さを感じることはなかった。
そこに住む者全てが上質な着物を纏っていて、貴族らしい上品で優雅な雰囲気を漂わせていて——そしてその全てが、漆黒の髪を持っていた。
それは水無月の血族の証であると同時に、一族の者が誇りとしているものでもある。
そんな漆黒の中に混じるは—— 一つの『茶』。
明るい茶色の髪を持つ『彼』の姿は、この中では異質でとても目立っていた。
彼の名は、
茶色く長い髪を高く結っている、数えで九つの少年である。仏頂面をしながら颯爽と闊歩する様は、歳の割りには何処か堂々としていてとても気の強そうな顔つきをしていた。
綺芽を見た分家の者達は息を呑み、ささっと廊下の脇に避け、彼に道を譲っていく。彼を見る眼は多くあったが、何れも敵意に近い眼差しであった。
「——あれが、神子のお子の綺芽様、か」
「神子が亡くなられ、少しは大人しくなったようですが・・・」
そして、綺芽を罵る声がこそこそと交わされる。綺芽はうんざりした風で、すっと声の方を見やると、二人の男性と視線がぶつかった。
恐ろしく冷たく、軽蔑に似た男達の視線。子供に向けるとは思えない程の冷酷さを帯びている。
綺芽もお返しとばかり、二人に勝る鋭い目つきで睨み付けてその横を通り過ぎた。
こんなことは日常茶飯事なのだ。
『雁谷』の姓を持つ綺芽は、水無月一族の先祖・
それから代々、瑠璃の力を受け継ぐ者は『
そんな雁谷一族が滅亡したのは、数年前のことである。
流行り病に倒れた一族の中で生き残ったのは、綺芽とその姉の
瑠璃神子は水無月一族に助けを求めた。
水無月一族の当主・
『当主は、稀月皇子の血を受け継ぐの宗家の第一子に限る。』
これは、稀月亡き後から定められた一族の暗黙の掟である。
どんな理由があれ、稀月の正統な血を継ぐ第一子以外に、当主になる資格はない。
同じ一族の中でさえ、差別が生まれている現状。
『血』に煩い水無月の者達だからこそ、余所者である『雁谷』が屋敷に上がることすら許せなかった。
——何故、神聖なるこの場所に『余所者』がいるのだ。水無月こそ、この世の支配者なのだ——、という根強い宗教にも似たその考え方が、逆に水無月の繁栄の理由だったのかもしれない。
やがて、紀藤の弟・
残された雁谷一族最後の姉弟はまさに四面楚歌の状態で、そして綺芽の生意気な態度が更に事態を悪化させ、いつしかこう囁かれるようになっていた。
『——雁谷は水無月を乗っ取ろうとしている』
そんな根も葉もない噂は、瞬く間に広がっていき、内部が徐々に蝕まれ、水無月一族は疑心暗鬼に囚われていた。
そう——栄華から滅亡へと、歩み始めたのだ。
「あのようなよそ者の面倒を見ている
そんなことは夢にも思わない『鬼』を胸に抱く分家の男が、馬鹿にしたように笑い、もう一人の男も嘲笑して同意した。
「いやはや全く。まあ、あの方は馬鹿のつくお人好しですからね」
ピタリ、と綺芽の足が止まるが、男たちは気付ずに話を続ける。
「剣の腕はいいのだが、昇華の力をお持ちでないからな」
「兄の蒼貴様は素晴らしい才をお持ちなのに」
「そうだな。だから、厄介者の世話をすることしか役に立たないの・・・」
「——黙れ!!」
最後まで言わせず、綺芽が怒声を上げた。——カッ!と霊力が爆発し、強い突風が男達に襲い掛かる。男たちは小さく声を上げながら、両の手を交差させて後ずさった。
綺芽は顔を真っ赤にさせながら大人相手に臆する様子もなく詰め寄った。
「兄上を馬鹿にするな!陰口ばかりの能無しどもっ!」
「このっ・・・!」
「——っ・・!離せよ!!」
綺芽の言葉が癇に障ったのか、片方の男が彼の腕を乱暴に掴んだが負けじと綺芽は暴れて抵抗していた——その時だった。
一人の少年が、声を荒げながら走ってきた。
「何をしていらっしゃるのですか!?」
少年は男から綺芽を引き離し、庇う様に前に出て鋭い灰色の瞳で男たちを見据える。
「——綺芽が、何か無礼を働いたのですか?」
「由稀様!!あ、いえっ・・・何でもありません!」
「私達はこれにて・・・!」
男たちがそそくさとその場から逃げるように立ち去っていくのを見て、綺芽は得意げな顔をしながら少年——由稀の前に出て叫んだ。
「ざまぁみろ!さっさと消えろ~!——あだっ!!」
にこにこしている綺芽の頭をぱしりと叩き、由稀はため息を吐いた。
綺芽は頭をおさえながらくるりと彼を振り返り、ふてくされた顔を向ける。
「何するんだよ、兄上~」
「お前、何かやったのか?」
「お、俺は何もやってないよっ・・・!」
「じゃあ、何で怒らせたんだ?」
由稀が眉根を顰めて問いかけると、綺芽はぐっと口を噤んで黙り込んだ。
「——何か言われたのか?」
由稀が少しかがんで綺芽と目線を合わせるが、綺芽はぷいっとそっぽを向いた。どうやら言う気は無いらしい。
はあ、とため息をついて、彼は弟の肩に手を置いた。
「俺のことを言われたなら気にするな」
綺芽は驚いた顔で由稀を見た。
その反応を見て、やはりな、と由稀は苦笑交じりに呟く。
「お前が気にすることじゃない」
「でも・・・俺、兄上のことを悪く言われるのは嫌だ!!」
「・・・ありがとな、
由稀は柔らかい笑みを綺芽に向け、無造作に彼の頭を撫でた。少し興奮が収まったのか綺芽の息遣いが落ち着いてきている。
由稀はそれを確認するとゆっくりとした口調で綺芽を諭した。
「だけどな、綺。我慢することも大切だ。それに、当主様は俺の剣の腕を買って下さっている。表立っては言えないのだから、言わせてやれ」
「・・・わかったよ。ごめんなさい」
綺芽がしょんぼりとした様子で頭を下げたので、由稀は彼の頭を優しく叩きつつ腰の高さを元に戻すと、そこへ一人の少女がパタパタと足音を立てながら走ってきた。
「あ!兄上こんなところにいたのね!!父上がお呼びよ!」
「雛。・・・走るな。はしたない」
由稀はあきれた様子で少女——雛乃を見た。
対して、彼女はにこにこと笑顔を返す。
「ごめんなさい、兄上っ!」
「全く・・・父上は御自室か?」
「ええ、そうよ。何だかとても嬉しそうだったから、きっといいお知らせじゃないかしら!」
「そうか。ありがとう、雛」
由稀が雛乃の頭を撫でて立ち去ろうとした時、くいっと彼の着物の裾が引っ張っぱられた。振り返ると、綺芽が俯いて何か言いたげな顔をしている。
「どうした?綺」
「——あのさ、兄上・・・」
綺芽はそう言いかけ、ぎゅっと口をつぐんでしまう。
そして、裾を掴んでいた手を離してぎこちない笑顔を向けて言った。
「なんでもない」
「何だ?言いたい事があるなら——」
「なんでもないってば!さ、早く父上のとこに行かないと怒られちゃうから!ねっ?」
「あ、ああ・・・。じゃあ、また後でな」
普段と少し違う弟の様子を気にかけつつ、由稀は父の元へと向かった。
綺芽はその兄の後ろ姿をしょぼくれた様子で見つめる。
——心配なんか、しなくていいのに。
自分に向けられるどんな言葉よりも、辛いのは・・・。
「あーやめっ!!」
思い耽っていたら雛乃がガバッと覆いかぶさってきたので、その拍子に前につんのめりそうになるのをギリギリで踏み留まった。
「あ、姉上・・・っ!危な——」
「兄上に構って貰えなくてさみしいの?」
「ち、違うよ!!」
にやにやとからかう姉に慌てて反論する綺芽だが、ぎゅっと拳を握って俯いた。
「ただ・・・」
言いかけて言葉を詰まらせる。
——あのようなよそ者の面倒を見ている由稀様も大変ですな。
綺芽はそれを打ち消すかのようにぶんぶんと首を振った。
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