接触

 市街は夜といえども光を失わない。最近では遅くまで営業している店も多く、人間の活動時間は昼間だけにとどまらなくなってきた。当然、それに伴ってキューピッドの夜の仕事も増える。人間が活動している間はキューピッドも休むわけにはいかない。

 時刻は十一時を回っている。平井美紗は友人の家で駄弁った後、帰路に着こうとしていた。僕は上空からその様子を見守っていた。平井美紗の足取りは速い。近頃ではストーカーの被害や、通り魔、変質者の出没など、不気味な事件がニュースを賑わせている。それらの被害者の大半は女性である。平井美紗が早足になるのもうなずける。

「鉄平かぁ。」

 平井美紗は呟いた。誰も聞くものはいない。独り言である。

「確かに、悪い奴じゃないけどね。」

 平井美紗は空を見上げた。空に浮かぶものは、くすんだ月と数個の星だけだ。都会の夜空はあじけない。

「ふう。」

 平井美紗は溜息をつく。おもむろにポケットに右手を突っ込むと、手帳を取り出した。平井美紗は手帳を開くと、スケジュールを確認するわけでもなく、何かをメモするわけでもなく、ただ一枚の紙切れを取り出した。メモ帳をちぎり取ったような紙切れで、あまりきれいだとは言えない。平井美紗は紙切れを見つめている。何が書かれているのだろう。僕は気になって、背後から盗み見た。


 鳴り響く目覚ましを

 左手でとめる

 いつものようにパンを……


 三行も読むことはできなかった。平井美紗が紙切れをパタンと折りたたんでしまったのだ。そして元にあったように紙切れを手帳の間に挟み、手帳をポケットに入れる。

「何やってんだろ。あいつは関係ないじゃない。もう終わったことなんだから。」

 平井美紗は自分を責めるように表情を歪めた。

「あたしより、音楽を取ったような奴なんだから。」

 唇を噛んで下を向く。僕には平井美紗が、どうしてつらそうな顔をするのか、分からなかった。何か、つらい思い出でもあるのだろうか。しかし彼女の過去にあったことまでは知りようがない。

「鉄平かぁ。」

 最初の言葉を再び呟く。平井美紗は何かを断ち切るように、両手で頬をパンパンと叩く。そして胸の前で両方の拳を握りこんだ。

「そろそろ、いいかもしれない。最近のあたしは色気がないからなぁ。」

 平井美紗はクスリと笑った。前向きに生きようとしている。その姿勢が、僕は嬉しかった。

 平井美紗は鼻歌交じりに歩き出した。足取りは速いというより、軽い。両方から街灯に照らされた、明るい商店街を進んでいく。十一時という時刻からか、さすがに人通りも少ない。ちらほらと見える学生の姿と、酔っ払いのサラリーマンが肩を組んで歩いている他は、誰もいなかった。夜の静けさの中に、酔っ払いの大声だけが騒音として浮いて聞こえた。その中を平井美紗は軽快に歩いていく。

 僕はふと数十メートル先の本屋が気になった。そこから、もう一人のターゲットの気配がしたのだ。僕は先回りして本屋まで行った。パラパラと雑誌を立ち読みしている若い男性の姿。中村鉄平だ。僕はチャンスだと思った。平井美紗を本屋に誘導して、偶然を装い中村鉄平と会わせてしまおう。今、彼女は前向きに考えているので、絶対にプラスに働くはずだ。僕は平井美紗のところまで舞い戻った。

 平井美紗は相変わらず鼻歌交じりに歩いていた。僕は平井美紗の頭に手のひらをかざし、意識を集中させる。目では見えないが、僕の手のひらからは、ごく微細な電波が発せられているはずだ。この電波は脳に直接刺激を与え、単純な欲求なら操作することができる。もちろん、人の意思や思考といったものにまで干渉することはできないが。

「ん?」

 平井美紗は立ち止まり、本屋の方を見た。不思議そうに首をかしげている。別に用は無いんだけど、と呟きながら思惑通り本屋へ向かった。

「いらっしゃいませ。」

 やる気のない、男の声。店に入ってきた客の方を見ようともしない。平井美紗は店員の態度に眉をひそめた。まだ中村鉄平の存在には気付かない。平井美紗は、あてもなく本屋の中をウロウロした。立ち止まって、ファッション雑誌をパラパラめくるが、首をかしげて元に戻す。

「別に、用はないんだけどな。」

 平井美紗は同じ言葉を呟いた。ふと足が止まる。適当に本の表紙をさまよっていた平井美紗の視線が一点に集中する。その先には中村鉄平がいた。どうしようかと一瞬迷った後、声を掛ける。

「鉄平?」

 本を読んでいたもう一人のターゲットは振り向いた。平井美紗の存在を認めると、手を上げた。

「おお、食いしん坊。」

 中村鉄平はニッコリと笑う。対照的に平井美紗は不機嫌な顔になった。

「ごめんなさい、人違いでした。」

「ちょ、ちょっと。待てよ、美紗。」

「………」

「ごめん。悪かったよ。でも、俺だって気を使ったんだぜ。さすがに『デブ』とか、『関取』とか、『ポッチャリ君』とかはまずいだろ。食いしん坊だったら、まだかわいげがあるじゃん。な。」

「何が『な。』よ。そんなの、いらない気遣いだっての。普通に名前で呼べばいいじゃん。」

「そこはだなぁ。親しみを込めて……」

「親しみを込めて『食いしん坊』?ふざけるな!」

 平井美紗は思わず大きな声を出してしまった。数少ない他の客と、無愛想な店員が注目する。中村鉄平は平井美紗の耳元で囁いた。

「やめろよ。恥ずかしいじゃん。」

「だって……どっちが悪いのよ。」

 さすがに声をひそめて平井美紗。代わりに頬を膨らませる。その姿を見て、中村鉄平はニヤッと笑った。

「まる……」

 何かを言いそうになって、すんでのところで口を押さえる。平井美紗は怪訝な目つきで中村鉄平を見上げた。

「何?」

「いや、なんでもない。」

「うそ、何か言おうとした。」

「いや、ちょっと思い出したことが……そう、今日はプロ野球、どうなったかなって。」

「今日は野球、やってないと思うけど。」

「そうか……それは……よかった。」

 平井美紗は疑いの目で中村鉄平を見ている。嘘をついているのは明らかだ。ふと平井美紗の視線が中村鉄平の手元に移った。疑いの目は一瞬にして驚きの表情に変わる。彼の手には英会話の本が握られていた。

「どうしたの?英語の本なんか持っちゃって。」

「ん?これか?」

 中村鉄平は英会話の本を掲げて見せる。話題が変わったので、ホッとしたような表情でもあった。中村鉄平はニコっと笑った。

「ちょっとは勉強しとこうと思ってな。」

「なにそれ。気持ち悪い。」

「おい。気持ち悪いは無いだろう。」

 中村鉄平は強い調子で言ったが、本気で怒っているわけではないようだ。目元は笑っている。

「俺、留学しようと思うんだ。」

「え?」

 中村鉄平は遠くを見るように目を細めた。唐突な告白に、平井美紗はただ驚きの表情で彼を見つめるしかない。

「俺、アメリカで法律の勉強をしようと思うんだよ。もちろん、法律の勉強だけなら日本でもできるけどね。まぁ、何ていうか、視野を広げたいっていうかさ。」

 遠くにあった中村鉄平の焦点が、平井美紗のところまで戻ってきた。ポケーっと彼を見ている平井美紗に、中村鉄平はいたずらっ子のような笑みを見せた。

「驚いたろ。俺だって真面目なこと考えてんだぜ。」

 平井美紗は視線を落とした。どこか肩の力が抜けたような印象を与える。中村鉄平には彼女の態度の意味は分からないようだった。

「そっか。アメリカか。」

「そう、アメリカ。」

「遠いね。」

「あん?そんなことないよ。飛行機で一日あれば着いちゃうんだから。」

「遠いよ。」

 平井美紗は中村鉄平と目を合わせることは無かった。中村鉄平は、そんな彼女の態度に首をかしげたが、これといって何も言わなかった。

「遠いよ……」

 平井美紗が呟いた。



 あんなに軽かった足取りは、いつの間にか、おもりがついているのではないかと思わせるくらいに重くなっていた。平井美紗は下を向き、唇を噛み締めていた。

 中村鉄平から留学の話を聞いたあと、平井美紗は努めて明るく振舞った。

「じゃあな。また明日。」

「うん。バイバイ。」

 中村鉄平は平井美紗の態度を疑問に思うことなく、ニッコリ笑って手を振った。平井美紗も、それに笑顔で答えた。

 それからまだ五分も経っていない。

「アメリカか。」

 平井美紗は小さく呟いた。小さい声にも関わらず、その声は震えていた。だから次の言葉を言うことができなかった。代わりに空を見上げた。くすんだ月と数個の星。都会の夜空はあじけない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る