ターゲット

 僕は上空からターゲットの動きを追っていた。通常キューピッドは普通の人間からは見ることのできない存在である。また、自在に空を飛ぶこともできる。      

 僕の視線は一人の女性に注がれていた。彼女の名前は平井美紗。今回のターゲットの一人だ。平井美紗は午後の授業に出るべく、教室に向かっていた。昼食をゆっくり食べ過ぎていたため、移動の時間が短い。平井美紗は自然と小走りになっていた。

 大学構内はすでに秋の色が見え始めていた。まだ残暑は厳しいが、真夏ほどの熱気はない。行き交う学生の何人かは袖の長い服を着ていた。

「よっと。」

 平井美紗は校舎の前の石段を駆け上がり、入り口をくぐった。教室のドアを開けると、すでに教授が何やらしゃべっている。平井美紗は静かに空いている席を探した。

「おせーぞ。美紗。」

 彼女に話し掛ける声があった。男の声だ。僕は、手元の資料を見て、彼がもう一人のターゲットであることを確認した。名前は中村鉄平。最近の若者らしく、髪を茶色に染めている。何かスポーツをやっているのだろうか。肌はこんがりと小麦色に日焼けしていた。見た目で判断できるものではないだろうが、運動神経は良さそうだ。その分、少しバカっぽいイメージを与える。

 平井美紗とは同じゼミの友達で、最近仲良くなったらしい。もちろん、ゼミの友達以上の関係になってもらわねばならないのだが。

「ったく。トロトロ昼飯食ってるからだろ。」

「うるさいなぁ。」

 文句を言いながらも、平井美紗は中村鉄平の隣に座った。カバンからノートと筆記用具を取り出し、慌てて黒板に書かれた文字を写し取る。数分遅刻しただけなので、さほど板書は多くない。三十秒もあれば全て写し取れるだろう。

 平井美紗が書き終えるのを見計らい、中村鉄平が話し掛けた。

「しかしまぁ、お前って食欲の塊みたいな女だな。」

「………」

「夏休みに入る前、ダイエットするとか言ってなかったか?」

「………」

「何キロやせた?もしかして増えたとか。どうする?これから食欲の秋だぜ。」

「放っといてよ。」

 平井美紗は頬を膨らませた。

「おお、おお。丸いほっぺたが、余計に丸くなって。」

 中村鉄平はニヤニヤしながら、ちゃかす。平井美紗は憮然とした表情になる。本気で怒っているようだ。

「やめてよ。気にしてんだから。」

「気にしてるんだ。それにしては痩せないね。」

「………」

「何?怒ってんの?」

「ふん。」

「勘違いしてんなぁ。俺が言いたいのは、美紗が太ってるってことじゃなくて、別にそんなのは気にしなくてもいいってことだよ。」

「………」

「だって、今のままでも美紗はかわいいんだから。」

 平井美紗の頬が少しだけ赤くなったような気がした。

「おだてたって何にも出ないよ。」

「やっぱ駄目かぁ。宿題の答え見せてもらおうかと思ったのに。」

 中村鉄平はシラっと言った。

「お調子者。」

 平井美紗は中村鉄平の膝あたりを蹴飛ばした。中村鉄平は、ヘヘ、と笑った。

中村鉄平と平井美紗にとっては長い長い九十分が過ぎた。教授は六十近くの、初老といっても誤りではない年齢の男性で、髪の毛には白髪が目立っていた。そのおじいちゃんが抑揚のない声で、とくとくと喋る。しかも話の筋が通っておらず、脱線することもしばしばだ。平井美紗は眠気を必死にこらえるようにして授業を聞いていた。中村鉄平に至っては、遠慮することなく、顔を伏して眠りに落ちている。

「……で、あるからして、つまりは、そのなんですな。いやいや間違いました。そうではなくて……おっとこんな時間ですね。今日はこれで終わりです。」

 教授は目をパチパチさせた。学生たちの反応が鈍い。片付け始める者もいたが、大部分は目をつぶったままだったり、ぼんやりと教授を見つめたままだったりした。

「終わりですよ。」

 教授が二回目に言って、ようやく学生たちは授業が終わったことを知覚した。がやがやと教室中が騒がしくなり、席を立つ生徒が増え始める。教授はホッと溜息をつき、教室を出て行った。

 平井美紗も、ノートと筆記用具を片付けて、帰り支度を始めていた。しかし、隣の男はいまだに机に伏したまま寝息を立てている。平井美紗は彼の肩を揺さぶった。

「いつまで寝てるの。終わったよ。」

「んにゃ。目玉焼きにはソースだよ……」

 中村鉄平は訳の分からない言葉を口走る。いったいどんな夢を見ているのだろう。

 平井美紗は不機嫌な顔になる。

「人のことを散々バカにしておいて、食べ物の夢?いいかげんにしてよね。」

 それでもなお、中村鉄平は太ってはおらず、スラリとした体型を維持している。そのことが平井美紗を、よけい不機嫌にさせているようだった。

「ああ!」

 中村鉄平は、ガバッと上半身を起こした。首を左右に振り、教室を出て行く学生たちを確認する。

「ああ……」

 中村鉄平は口をポカンと開けたまま、しばらくボーっとしていた。平井美紗は寝ぼけている中村鉄平の頭をポカリと殴った。

「いてっ。」

「おはよう。」

「え?……おお、美紗。おはよう。」

 殴られたにも関わらず、まだ寝ぼけている。いくらつまらないからといって、よくもここまで遠慮なく眠れるものだ。教授に失礼だとは思わないのだろうか。平井美紗も僕と同じように思ったのか、信じられないと言ったふうに肩をすくめた。

「お気楽な性格。うらやましいわ。」

「誰が沖縄じゃ。俺は静岡県民だぞ。」

「は?」

 平井美紗は中村鉄平を凝視した。本気で怒っている。平井美紗は首を左右に振った。諦めにも似た仕草だった。

「おーい。鉄平。カラオケ行こうぜ。」

 ドアの方から中村鉄平を呼ぶ声。教室の外にいた友人が授業の終わったのを見計らい、中村鉄平に話し掛けたのだった。

「おお、待っとけ。今行く。」

 中村鉄平は慌てて片付けを始めた。ふとノートに目が行く。白紙だった。中村鉄平の腕が止まる。

「今思ったんだけどさ。美紗って実はかわいいよね。うん。高校の時とかモテただろ。こんなかわいい女の子、誰も放っとかないもんなぁ。」

「はいはい。今度ノート見せてあげるから。」

「サンキュ。」

 中村鉄平は、白い歯をいっぱいに見せて笑った。

「鉄平!」

 友人の声。

「あいあい。」

 平井美紗は、友人の元に駆け寄る中村鉄平を見送る。

「お調子者。」

 平井美紗は誰にも聞こえない小さな声で呟いた。気のせいだろうか。頬が少し赤くなったようだった。



 平井美紗は片付け終えると、教室を出ようとした。しかし、彼女はドア付近で立ち止まる。彼女を呼ぶ声があったのだ。

「美紗ぁ。待ってよ。」

 同じ学科の友人のようだ。友人は平井美紗に並ぶと、一緒に教室を出た。

「ねぇ、さっきの授業、意味分かった?」

 友人が平井美紗に話し掛ける。平井美紗は両手を広げた。

「ぜんっぜん。」

「だよねぇ。あのおじいちゃん、何言ってんだか分かんないんだから。」

 実はこの時、先程の教授が忘れ物を取りに教室に戻ろうとしていた。出て行こうとする平井美紗と友人は教授に気が付かなかったが、教授は彼女らの会話を聞いてしまった。教授はガックリと肩を落とし、忘れ物のある教室へ入った。

「美紗。最近、恋してる?」

 友人は平井美紗に尋ねた。

「ぜんっぜん。」

 平井美紗は先程と同じ言葉を反復する。友人は、片方の眉だけを吊り上げた。器用なものだ。

「ほんとに?」

「ほんと、ほんと。出会いなんかないんだから。」

 平井美紗は苦々しく言った。友人は疑いの目つきで平井美紗を覗き込む。平井美紗は少し眉をひそめた。

「何?」

「うそだぁ。」

「は?」

 平井美紗は訳が分からない、といった風に首をかしげた。友人が何を言いたいのか、分からないようだった。

「美紗、最近中村君といい感じじゃん。」

 平井美紗はようやく分かった。どうして友人が恋愛の話など持ち出したのか。平井美紗と中村鉄平の関係を探りたかったのだ。

「鉄平?ないない。絶対ない。」

 平井美紗は大げさに手を振る。その仕草を見て、友人はからかうようにニヤニヤと笑った。

「何よ。」

 少し怒って、平井美紗。

「絶対ない?あーやしいなぁー。」

「ないってば。」

 さらに怒って、平井美紗。

「どうやって、あんなお調子者を好きになったらいいのよ。」

「美紗は好きじゃなくても、中村君にその気があったらどうする。」

「鉄平が、あたしを?」

 平井美紗は首をひねって考えたが、やがて頭を左右に振った。

「あいつは、ただ調子がいいだけだよ。誰に対してもね。」

「でも、悪い気はしないと。」

「そりゃあ、かわいいとか言われたらねぇ。お世辞でも嬉しいけど。」

 友人は目を見開いた。

「かわいいって言われたの?」

「調子に乗って言われただけだけどね。」

「そりゃあ、あんた。決まりだよ。」

「だから、調子に乗って言われただけだってば。」

「でもさ。いくら調子に乗ってたって、不細工だと思っている女の子に『かわいい』なんて言う?」

「そりゃあ、普通の人は言わないかもしれないけど。鉄平なら……」

「中村君だって人間だよ。」

「そりゃあ、人間だけど!」

 平井美紗は一つ息を吐いた。いつの間にか感情的になっている。平井美紗はとりあえず息を整えた。

「あいつは誰にだって、平気でそういうことを言う奴なんだよ。気にしてる女の子じゃなくてもね。」

「ふーん。……じゃさ、中村君は置いといて、本当のところ美紗はどうなのよ。」

「何が?」

「だから、美紗は中村君をどう思ってるかってこと。」

「どう思ってるか?うーん……そりゃあ、いい奴だとは思うけどねぇ。」

「いい奴?好きなんでしょ。」

「好きってわけじゃあないなぁ。もちろん友達としては好きだけどね。異性として見るとなると……」

平井美紗は首をひねった。意地を張って否定している訳ではないようだ。まだ、はっきりと「好き」と言うまでに気持ちが高まっていないのだろう。平井美紗自身、考えあぐねているのかもしれない。

「そっか。」

 友人もその辺りを感じ取ったのか、これ以上追及することはなかった。

 僕は二人のやり取りを見て、満足げにうなずいた。これで平井美紗は中村鉄平を少しぐらいは意識して見るようになるだろう。そこから次第に気持ちが変わっていったりするものなのだ。ここからがキューピッドとしての腕の見せ所だ。

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