停滞

「くそ。何だってんだよ。」

 僕は思わず叫んでいた。どうにもうまくいかない。

 本屋の事件があってから、もう三日が経とうとしていた。平井美紗はいつものように学校へ来て、いつものように授業を受けた。まるで、最初から何も無かったかのように。その態度が、僕は気に食わなかった。

「おはよう。美紗。」

 席につき、授業の用意をしていた平井美紗に、友人が声をかける。平井美紗は振り返った。

「ん?おはよ。」

 平井美紗は白い歯を見せた。友人は、片方の眉を吊り上げる得意の表情を見せた。

「んん?なんか、機嫌いいね。美紗。さては中村君と何かあったな?」

 友人の指摘は鋭いが、「あったこと」はいいことではなく、悪いことだ。

「何も無いよ。」

 平井美紗は言う。

「言ったじゃん。別にあいつのことは何とも思ってないって。よく考えてみれば、あたしってああいう調子のいいタイプ、好きじゃないんだよね。」

 平井美紗は言い切った。何かを吹っ切ったような平井美紗の言い方に、友人は何かを感じ取ったようだったが、口に出すことはなかった。

「そっか。そいつは残念。」

 友人は二度と中村鉄平の話題を出すことはなかった。

 いつもと同じように時間が流れていった。いや、平井美紗はいつも以上にサバサバしていた。重たいものを断ち切ったような、さっぱりした顔をしていた。

「くそ、何だってんだよ。」

 僕は、もう一度叫んだ。僕には平井美紗の態度が理解できなかった。どうしてアメリカへ行くという理由だけで諦められるのか。遠距離恋愛をしているカップルはたくさんいるし、留学するといっても一、二年すれば日本に帰ってくるだろう。まだまだ勝負はこれからなのだ。

 本屋の事件があってから、僕は様々な作戦を実行した。さりげなく遠距離恋愛を描いたドラマの再放送を流してみたり、喫茶店で元気の出る恋愛の歌をそっとかけてみたりした。仲良く歩くカップルの姿を平井美紗に見えるように動かしたりもした。しかし、そのどれもがことごとく失敗した。平井美紗は、まるで自分には関係のないことがらだと言わんばかりに僕の演出を無視した。当の中村鉄平本人に出会っても、友達のように冗談を言い合うばかりだ。一度、一人になった時に、平井美紗がこんな風に呟いたことがある。

「いいんだ。諦めよう。迷惑だから。」

 本当に諦めてしまったのだろうか。せっかく好きになろうとしていたのに……僕はやりきれない思いだった。

「よ。おはよう。美紗。」

「おはよう。能天気君。」

「おい、能天気とは何だ。」

「何言ってんの?あたしだって気を使ったんだから。さすがに『バカ』とか、『サル』はまずいでしょう?」

「このやろー。」

 平井美紗と中村鉄平のやりとりを見て、隣の友人が首をかしげた。こんなに仲がいいんだから、付き合っちゃえばいいのに。といったところだろうか。僕も同じ思いだった。本当に気が合えば、日本とアメリカでも十分にやっていけるはずだ。こんなところで終わるなんて、僕には納得できない。いや、納得などするものか。ここから何とかしてみせる。それがキューピッドの仕事というものだ。

 その時、すっきりした平井美紗の表情が目に入った。「いいんだ。諦めよう。迷惑だから」平井美紗の言葉が心に浮かぶ。僕のやる気は、一瞬で削がれてしまった。

「くそ、何だってんだよ。」

 三回目。僕はぶつけることのできない苛立ちを噛み締めていた。いったいどうすればいい?

「困ってるみたいだね。」

 背後から声。僕は目を見開いた。この声は……僕は振り返った。

 後ろには、先輩がヘラッと笑って立っていた。

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