7.張りぼての笑顔と2人の過去
朝は好きだ。
よく、朝を嫌いだという人がいるが、理由はどれも決まっている。
その理由を肯定もしないし否定もしない。
眠くてベットから出るのが嫌になる時がある。でも、1階から漂ってくるこんがり焼けたトーストに塗られて溶けたマーガリンの香り……それには何とも言えない幸福がある。
まさに今がその状況だ――
「雪、もう、7時だよ!」
ママの声をアラームで寝癖まみれの頭で、手すりを頼りに階段を下る。
家を出るのは午前7時40分。悲観的にとらえれば「あと、40分しかない」だが、楽観的にとらえれば「あと、40分もある」だ。
雪は、今だけ楽観主義だった。
「おはよう」
「おはよう。 ほら、早く食べて顔洗って」
「んー」
テーブルの上に置かれていたトーストをもさもさと食べ、牛乳で流し込む。
口の中に広がる香りを楽しみながら食レポでもしてみたいところだ。
時計は、午前7時10分を指していた。
朝ごはんを食べ終えたら、顔を鞭で叩くように冷たい水で洗う。
寝ぼけていた頭も冴えてきて、リビングからテレビの声もはっきりとわかった。
「7時半のお天気です。 今朝は、快晴。 洗濯物がよく乾きます!」
お天気お姉さんの声が、ことの重大さを雪にたたきつける。
笑顔で話し続けるお天気お姉さんの声は、皮肉みたいに笑っていた。
「あ! まずいよ! ママ、早く髪の毛とかして!」
「ちゃんと、起きないのが悪いんでしょ!」
透き通るような黒髪を母にとかしてもらい、綺麗にかけられた学校指定の制服を着させてもらう。首元には、中学3年生を示す緑色のバッチが付いている。
丁度、雪の準備が終わったと同時、家のチャイムが鳴り、大好きな声が耳に届いた
「おはよ、雪」
「おはよ~ ゆーきちゃん」
ギリギリセーフだ。
実験に失敗した博士のように寝癖が付いていた頭も母のおかげで、綺麗に整えられている。
「あら、ゆうちゃん。 おはよう」
「おばさん、おはようございます」
「いつもごめんね」
「いえ、雪のためですから」
雪の母と優喜は簡単なあいさつを交わす。
雪の両親は共働きのため、毎日雪を学校に送っていくことには無理がある。
そこで、優喜の出番だ。
幼馴染のなつきは、自然に雪の手を握り、雪の母に、いってきます、と告げた。
外の風は冷たく、手から伝わる雪の体温が温かく感じた。
***
よく、小学校の道徳の授業とかで「イジメ」について学んだことがある。
だけどもそれは、都合よく書かれたものでしかない。それなのに、小学生だった頃は素直にそれを聞き入れることができた。
イジメなんてものをどう定義すればいいのか、何がイジメで何がイジメではないのか。それを客観的に判断するのは簡単そうで、そうではない。
ただ、一つ言えるのは――
イジメなんてものは簡単に行われ、その理由が歳を重ねるごとに、実にくだらなく、アホらしいものということだ。
周りよりも何かが違う。そして、それが欠点であり、自分よりも劣っていれば――
雪の<視力が弱い>はまさにそれだった。
***
学校に近づくにつれて同じ制服をきた人たちが多くなっていく。
そのたくさんの生徒たちから、同級生かそうでないのかを判断するのは首元についているバッチだ。
この中学は、赤が1年生、青が2年生、緑が3年生、と分けられている。
今日は、やけに緑のバッチがこっちに向いているように感じる――いや、今日もだ。
「今日はあったかくなるかな?」
「どうだろうね」
昔から聞きなれている雪の語尾を伸ばす癖のある話し方。
それが、今日は雑音にしか聞こえなかった。
***
校門をくぐり、教室へと徐々に近づいていく。
一歩、足を進めるたびに、その動きは重くなり、優喜は、逆らえない抵抗から、ついに足を止めてしまった。
雪は、急に止まった優喜の背中に顔をぶつけて、声をかける。
「ゆーきちゃん? どしたの?」
少しの間、周りの世界と隔離されたように沈黙が訪れる。その沈黙は、とても長く感じ、時が止まったかのような錯覚に襲われた。
「ゆーきちゃん? だいじょ――」
雪が、何か話そうとしたのを遮断するように言った。
「今日は、学校サボらない?」
突然の提案に雪は戸惑っていたが、すぐに返事は返ってくる。
「ダメだよ! 今日はゆーきちゃん、英単語のテストでしょ!」
「1回くらい大丈夫だよ」
元気のない声に、何かを察したのか雪が、大丈夫?、と尋ねるが、優喜は何も言わずに足を進めた。
***
教室に入るとクラスメイトから、おはよう、と声がかかる。
それが、自分に向けられたものなのか、それとも不特定多数の誰かに向けられたものなのかはわからない。
だけど、雪と優喜は、おはよう、と返す。
すると、目の前に、何人かの生徒が集まってきた。
「伊波さん。おはよう」
クラスのリーダー格の男子とその取り巻きの男女だ。
このグループは仲良しグループの枠を超え、どこかの危ない宗教みたいになっている。リーダー格の男子が「黒」と言ったら、白い物でも「白」ではなく「真っ黒」になる。
「おはよう」
優喜はできるだけ愛想よくあいさつをした。
嫌われないよう、いじめの対象にならないよう慎重に、警戒して――
でも、こいつらの本来の目的は「優喜」ではなく、「雪」なのだ。
「あれ? 伊波さん、さっき誰かと話してたみたいだけど……誰と話してたの?」
――消えて。
「怖いよ! 何もないところで話してるなんて、大丈夫?」
――頼むから、消えてよ。
こいつらに向かって、横に綺麗に並んでいる椅子でも投げつければいい。
どんなに馬鹿みたいで、汚い言葉を並べてでもこいつらに言ってやればいいんだ。
でも、優喜ができるのは何もない左手を強く握りしめ、張りぼての笑顔を振りまいているしかなかった。
気付けば、右手に朝からずっとあった感触は消えていて、どこか遠くに消え、窓から指す醜い太陽の光がそっと頬をなでた――
***
「ゆうちゃん! ごはんできたよ! お風呂入ったの?」
突然と聞こえてきた母の声でベッドから体を起こす。
どうやら、アルバムを見ているうちに寝てしまったようだ。
なんだか、長い夢を見ていたような気もするが、思い出そうとすればするほど、変な気だるさが、それの邪魔をした。
鉛のように重い足と瞼を持ち上げながら階段を下りる。自室の温度とは違う冬の冷たくさみしげな空気が足を包む。
優喜は、自分勝手な自分を憎み、雪を苦しませていた自分を嫌い、張りぼての空に嫌悪しているのだ。
2度戻れない過去を張りぼての笑顔と今でかき消す。これが、精いっぱいなのだ。
優喜の頬には、あくびをしていないのに、涙のあとが付いていた。
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