6.伊波優喜

 降っていた雨は、深夜のうちには止み、アスファルトにある水溜まりには、氷が張っていた。

 なつきは、綺麗に張っている氷をわざと強く踏むことで粉々に割り登校する。

 今日も相変わらず、蝉の声のようにうざったい声が鳴り響いていた。

 自分の横を通り過ぎる声を睨むように視線を上げると、道脇を歩く少女が目に留まった。

 クリーム色のマフラーと体には不釣り合いな大きさの白いリュックを背負う、夏になったら溶けてしまいそうなほど華奢な雪だ。

 なつきは、小さく深呼吸をして、雪に話しかける脳内シュミレーションをして、あくまで、偶然を装い声をかけた。

「雪……お、おはよう」

 なつきの声に、雪は、足を止めて後ろを振り向いた――のではなく、隣を歩いていた別な誰かに抱き寄せられた。

「気安く呼ぶな!」

「お前のことは呼んでない」

 警戒する猫のような目で、なつきを睨みつける優喜。

 優喜の胸に顔を押し付けられている雪は、苦しそうにもがいていた。

「ゆーきちゃん、なつきくんだよ! 昨日、話したでしょ!」

 腕の中で話す雪の言葉を聞いて、優喜は、より警戒を強め、雪を抱きしめる手が、無意識に強くなる。

「何見てんだよ」

「俺は、お前を見ていない」

「じゃ、雪のこと見てるのか! やめろ!」

「俺が、誰を見ようと勝手だろ」

 互いに一歩も譲らない口撃が、ヒートアップする。優喜に至っては、歯をむき出しにする猛犬さながら、今にも飛びつきそうな勢いだ。

「ストップ! 仲良くして!」

 睨み合う2人の間を、割って入るように、優喜の腕の中から自力で脱出した雪が声を上げる。

 いつも無邪気な笑顔で笑っている雪にしては、珍しく頬を膨らませていた。

「なつきくんもゆーきちゃんも、なんで、仲良しできないの! はい、自己紹介」

 依然、睨み合いが続く空間を最初に切り裂いたのはなつきだった。

「加賀谷なつき」

 名前だけの自己紹介に黙っていた優喜だが、大好きな幼馴染の指示を無視することはできない。

「……伊波……ゆうき」

「はい! 仲良し!」

 雪の無邪気な声とは裏腹に、ヤンキーの喧嘩前のあいさつ的な自己紹介は、快晴の下で行われた。

 楽しそうになつきに話しかける雪の姿を見ながら、自分に、襲い掛かる不安を、どうにか消し去りたくて、優喜は、雪に駆け寄った。

 快晴の空は、張りぼてなのかもしれない。


   ***


「はい、宮内ちゃん。 屋上着いたよ~ 優喜は、もう少し戻ってくるから待っててね」

 雪の手を引く人物は、いつもとは違う人だ。手入れの行き届いた黒髪を動きやすいようにポニーテールにして、モデルのようにすらっとしたスタイルの少女。

 優喜と同じバスケ部の副キャプテンを務めている優喜の友達であり、雪大好きクラブのメンバーだ。ちなみに、もう一人は、優喜だ。

 雪の友達。いや、雪にとっての大切な人。

 その証拠に、雪の顔には、無邪気な笑顔が付いている。

「ありがとう! いつも、優しいね」

「宮内ちゃんのためなら、なんでもしちゃうよ!」

 そう言いながら、雪の柔らかいほっぺを横に伸ばし柔らかさを堪能して、階段を下って行った。

 錆びれた扉が閉まる音を聞いて、雪は、深呼吸をした。

 切なげで、でも希望にあふれている風が肺に充満する。

 ――今日の気温は、いつもより暖かいかな。

 雪は、地面に腰を下ろして、空を仰いだ。

 冷たい空気の中、ほのかに温かい日の光を感じて、笑みをこぼす。

 ――今日は、雲が出ていない空なのかな。

 温かさ、冷たさ、匂い、音……雪が、体で感じることのできる世界を、今を、頭の中だけで思い描き想像し――諦めた。

 いや、諦めなくてはいけないのだ――ただ、一つの欠落のために。

 雪は、真っ暗な空を眺めて、瞳を閉じた。 

 もしかしたら、目を開けると快晴の空が広がっているかもしれない。

 これは、妄想だ。ひどく悲しい妄想でしかない。

 目を開けても、そこに広がっているのは、ものすごい時間、見続けてきている暗闇だけだった。

「神様……今日の空は……何色ですか?」

 神にすがれば解決する。これも、妄想だ。

「雪、どうしたの?」

 乱れる思考の中、安心する声とともにおいしそうな匂いが鼻をかすめる。

 雪は、優喜に気持ちを悟られないようわざと元気よく起き上がった。

「ゆーきちゃん! 私、おなか減ったよ!」

「購買混んでてね~ はい、これ、お昼」

 人が溢れるほど群がっている中に、雪を連れていくのは危険。

 だから、雪のお昼を買うときは、優喜が買いに行くのだ。

 おにぎりとサンドウィッチ、飲み物に野菜ジュースにストローをさして雪に手渡した。

「もう、お弁当、忘れてら駄目だからね?」

「はーい」

 小動物のように、口いっぱいにおにぎりを詰め込んで食べる姿は、優喜に小学校の遠足のお昼を思い出させた。

 あの時は、水族館に行った。大きなサメを見て、雪は、はしゃいでたっけな。

「ゆーきちゃん、おいしいね!」

「うん。 おいし」

 雪の無邪気な笑顔を見て、思い出された楽しい思い出を黒のマーカーで塗りつぶした。

 しかし、塗りつぶしたところで、再び、自分で拭き取って汚れを落とし、誰にも見つからないようそっと記憶の引き出しにしまい直すのは分かり切っている。

 でも、こうしなくてはいけないのだ。

 優喜は、見えてないとしりながらも、無理な笑顔を雪に向けたのだった。


   ***


  今日もまた、一日が終わりを告げて、足元を月明かりが照らしあげている。

 雪の家から信号を3つほど進んで、右折した先、2階建ての洋風の家からおいしそうな匂いが立ち込める。

 優喜は、本能に従順な空腹に赤面しながら、扉に手をかけた。

「ただいま~」

「あら、ゆうちゃん、おかえりなさい」

 寒さで強張っていた体の緊張を、暖房の温かさと母の声が揉み解していき、溜まっていた疲れがどっと吐き出される。

 体にこびり付いた汗と疲れを癒すことができるのは、雪かお風呂のみ……

「ママ、お風呂沸いてる?」

「あ、ママ、お風呂のボタン押すの忘れてたわ~ ゆうちゃん、押してちょうだい」

 優喜は、下げ切ったジャージのチャックを上げ直して、お風呂を沸かすボタンを押した。

 電子的な女の人の声を合図に、お風呂場からは、お湯が流れ出す音が聞こえてくる。

「ママ、ご飯できた?」

「んー……もう少しかな?」

 母のもう少しは、少しではない。

 台所から聞こえる鼻歌に、優喜は、呆れたため気をつきながら、2階の自室へと足を運んだ。


 自室にたどり着いて、目につくものは、ピンクのクッションに、色とりどりの化粧道具……なんて、女子力的なものは一切なく。置いてあるものは、バスケの道具に、バスケの道具、それから、バスケの道具……しいていえば、本棚の上に、雪から誕生日にもらったウサギのぬいぐるみが寂しそうに置かれているだけ。

 正方形の白のテーブルに、3段の本棚が2つ、壁際にベッドがあるだけの質素な部屋の中、優喜は、疲れた体をベッドへと預けた。

 チクタクと時計の音が鳴り響く。

「……なにしよう」

 お風呂に入っていなければ、ご飯も食べれていない優喜が、現在進行形で襲い掛かってきている睡魔に、体を預けることなど自分が許さなかった。

 このまま寝てしまえば、母が楽しそうに作った手料理を食べることができず、しかも、汗臭いまま一夜を過ごすことになる。

 優喜は、無理やりに体を起こして、暇つぶしになる何かを探す。

 それは、神のイタズラ、偶然、奇跡、といったら聞こえはいいが、これは、きっと意識的だ。

 自分では、無意識に思えるのは、否定しているのだ。過去に触れてしまうことへの恐怖を否定しているのだ。

 本棚の一番下、埃を被ったアルバムが目に留まり、笑みがこぼれる。

 アルバムの表紙には、幼いころ――まだ、目が見えていたころの雪の字で『おもいであるぼむ』と書かれていた。

 雪の誤字に、少しだけ疲れが取れた。


 ページをめくると幼稚園のスモックをきた自分と自分より背の小さい雪が手を繋いで、笑っている写真が目に留まった。純粋で、何の汚れもない過去の笑顔に、今の自分の顔も自然と笑みが生まれる。

 この写真は、小学生の頃だろう。赤いランドセルを2人で自慢気に背負ってカメラに手を振る姿映し出されている。

 この後、雪は走って、転んで、大泣きしたんだっけな、なんて思い出も蘇る。

 写真というものは、過去の時間を閉じ込めることのできる魔法のようなものだ。しかも、自分が、一番好きなその一瞬を閉じ込めることができる。

 しかし、写真は、心に消えない傷を作り出すナイフにもなる。

 また、優喜は、ページをめくる。

 中学校の卒業式、白濁した瞳で笑みを浮かべピースを作る雪とその隣に、張りぼての笑みを一生懸命作る優喜の姿が閉じ込めらえていた。

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