4.加賀谷なつき
快晴だった空は、いつのまにか雲に覆われ、今にも雨が降り出しそうな空色へと変わっている放課後の教室。
外から聞こえる部活動の掛け声を耳にしながら、なつきは、ひとり机に突っ伏していた。
「あぁ……なんで、あんなことしたんだろう」
お昼の時、苛立っていた、という子供じみた理由で、宮内さんに声を荒げてしまった出来事が思い出されて、絶賛後悔中だ。
宮内さんに謝ろうにも、結局、お昼に会ったきり、教室に戻ってくることもなく、もしかしたらの可能性にかけて、なつきは、こうして教室で待っているのだ。
ポケットに入っているスマホの電子時計に目をやれば十七時を過ぎたころ。
会えなくてよかったような、悪かったような、複雑な気持ちのまま、なつきは、夕暮れの教室を後にした。
昇降口の開きっぱなしの扉が吸い込む冷たい風に、頬が冷える。
なつきは、冬の日の夕方が大嫌いだ。
吹き付ける風は冷たく、置いてけぼりにされているような切なさが押し寄せてくる。
一度、味わってしまった切なさを拭いきるのには、たくさんの時間が必要だ。急いで拭おうと擦ってしまうと汚れは、余計に広がってしまう。
なつきは、それを誰よりも理解している。
信頼し、尊敬していた人に手を離され、置いてけぼりにされたあの切なさだ。
<切なさ>など、見えるわけないのに、なつきは、マフラーで口元を覆い、正面を睨みつけた。
そして、ひとりの少女を見つける。
校門前に立つ、街灯の下、土しかない花壇に腰かける小柄な少女を見つけたのだ。
クリーム色のマフラーに顔をうずめ、何をするでもなく、宮内さんは、空を眺めていた。
なつきは、切なさなど忘れ、宮内さんのもとへと少し早いくらいの足取りで近づき、目の前で足を止めた。
どうしても、こうしなくてはいけないと思ったのだ。
「み、宮内さん」
無視される覚悟で、名前を呼んだ。
宮内さんは、呼ばれた自分の名前に、空に向けていた視線を正面へと戻し、あたりを見渡す。
(またか……)
無視される覚悟なんて、なつきにとっては、覚悟でも何でもない。
ただの見栄だ。
自分は、悪くないけど謝ることができる、と大声で叫び、褒めてもらいたい、認めてもらいたい……なんて、本当に、子供じみた思いが、無意識的に働いているのだ。
しかし、叫ぶなんてできるわけもなく、見栄を覚悟という皮でしっかりと隠し、伝わるはずもない思いを込めて、行動する。
馬鹿で、無意味で、子供みたいで――そんな自分が、大嫌いなのだ。
なつきは、用意していた謝罪の言葉など、すべて忘れ去り、宮内さんの前から立ち去ろうとした。
「待って!」
叫ばれた声に、足を止める。
宮内さんは、誰かを探すように周りを見渡して、探してる誰かに、ちゃんと聞こえるよう言った。
「加賀谷くんだよね? 行かないで。 私の前まで来て」
あたりはすっかり暗くなり、街灯に照らされる宮内さんは、妙に映えていた。
そして、初めて、きちんと見れた宮内さんの瞳を見て、すべてを理解した。
「そこに、いるのかな? ごめんね。 私ね……目が見えないんだ」
宮内さんの双眸は、綺麗な黒髪とは対照的に白濁していたのだ。
なつきの中で、すべてが繋がり、「ごめん」なんて言葉が言えなくなった。
言えるはずがないのだ。自分が、無知な上に、子供みたいなわがままと見栄で、宮内さんにどれだけつらい思いをさせてしまっていたか……
「ごめん」なんて、ちっぽけな三文字では片づけることはできなかった。
何も言わないなつきを確認するために、宮内さんは、右手を伸ばしてなつきの学ランの裾を掴んだ。
「あ、よかった。 いてくれたんだね。 もう、私、謝りたくてさ~」
語尾を伸ばすふんわりとした雰囲気のまま、微笑んで、宮内さんは話す。
でも、学ランの裾を掴む手が、微かに震えているのだ。
「謝るなんて……それは、俺のほうだよ」
「なんで?」
手で確認をして、真っすぐ前を見る白濁した双眸が傾く。
「なんでって……お昼に、馬鹿みたいに……その」
「ぷっ。 あはははは」
歯切れの悪い話し方に、宮内さんは、腹に手を当てて声を大にして笑った。
「なんで、笑ってるの?」
「ごめんごめん。 加賀谷くんって、優しんだね」
街灯の白い光に照らし出されている宮内さんの笑顔は、一瞬にしてなつきの顔を紅潮させた。
「優しくなんかないよ」
「加賀谷くんが、加賀谷くんを否定するなら、私が知ってる加賀谷くんは、優しい。 これでいいよね?」
なつきが、そんなことない、と否定の言葉を言うより先に、宮内さんは続ける。
「私の名前は、宮内雪。 雪、でいいよ」
改まって自己紹介をするのも、なんだか恥ずかしい気がするけども、雪の笑顔が、なつきの自己紹介を期待しているように感じ、なつきは口を開く。
「俺は、加賀谷なつき……えっと……よろしく」
「うん! よろしくね、なつきくん!」
辺りが暗くなった冬の日、街灯の光が灯る校門の前では、心を閉ざす少年の心に淡い赤が少しだけ滲んでいった。
***
今日、一日の濃密な疲れを感じながら、なつきは、人気の少ない駅を背にしながら帰宅する。
そのとき、ポケットに入れているスマホから通知音が鳴った。
ただでさえ友達の少ないなつきに送られてくるメールなど簡単に予想することができる。
あからさまな嫌悪をむき出しにして、スマホに送られてきたメールを確認した。
『なつきへ
テーブルにお金を置いときました。
夕飯は、それで買ってください。
母より』
母からのショートメールは、至って普通の内容だ。しかし、なつきには、その文面が、汚らわしく、憎たらしいゴミのように思えて仕方がない。
遅い時間に家を出る理由も、夕飯を作れない理由も、帰ってくる時間を伝えない理由も――何一つとして書かれていないショートメールは、昔から、なつきを独りぼっちにする。
なつきは、返信することもせず、慣れた手つきでそれをゴミ箱のアイコンへとスライドし削除する。
しかし、なつきの中には、苛立ちだけは残った。
意識的に、それを消し去ろうとしてもメールのように簡単に削除することはできない。
ただ、意味のない苛立ちに拳を強く握るしかないのだ。
星すら見えない真っ暗な雲の多い空からは、パラパラと冷たい雨が降り出し、次第に、それは、顔に滴るほど強くなっていった。
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