おくる。
「悪いね、手伝ってもらって」
「気にすんなよ。こういう時はお互い様ってね」
久方ぶりに尋ねた親友の仮住まいだったが、その理由が転居のための荷造りの手伝いと言うのはいささかさみしく思えた。
3年と言う月日は短いようで長く、幾度の夜を語り明かした馴染みの部屋が随分殺風景になってしまっているのは、言いようのない侘しさがある。
「実家のほうに帰るんだっけ」
「ああ。家族とも、そういう約束での事だったからね」
廃棄予定の古雑誌――肌色の多いピンナップが目に留まる――を麻紐で乱雑に括りながら尋ねると、彼は微かに苦笑を浮かべた。
「決まっていたこととは言っても、いざその時となると寂しいものだね」
几帳面に新聞紙でくるんだ食器類を段ボール箱に詰めていた彼は、ふとその手を止めた。
「これはどうしようか。僕のものと言えば僕のものだが、どうもその実感が薄いんだ」
彼が手にしていたのは、なんてことはない黒い陶器のマグカップだった。口の一部が欠けて、白い肌がのぞいている。
「ああ、たしかにね。それ、君が使ったことってあったっけ」
それは彼が客用として用意していたものであったのだけど、(悲しいかな)彼の部屋を訪ねる客は私くらいのものであったから、ほとんど私の専用となっていたマグだった。
「ないよ」
彼はそう言って、同じような大きさの白いマグを見せた。茶渋が染みついて、年期を感じさせる。
「どうだろう、記念に、これは君に差し上げよう」
「私に?」
思いついたように彼が言ったので、少し面食らう。大体が、何の記念だというのか。そもそも私は食器に不自由してはいないし、貰ったところでそれこそ記念品程度にしかならない。
「ああ、だから記念か」
「そういうことだね。どうする?」
「そういうことなら、頂こうか」
黒い口の欠けたマグは私の手に収まった。彼は少し笑んで、食器の梱包作業に戻る。私も雑誌の処分を続けながら、馴染みのある食器たちが引っ越し会社のロゴマークの入った段ボールに次々納まっていくのを横目で見ていた。
もう、彼の料理を口にすることもないのだろう。あの食器たちを彩った思い出はすっかり栄養になってしまったが、頭の中に残しておくことはできるだろうか。無理だろう。きっとすぐに味は変わってしまう。
そういう一つ一つの作業が、寂寥を募らせた。
「ありがとう。助かったよ」
すっかり夕刻と言う時分になって彼は軽く手をはたきながら告げた。今朝来た時点で寂しさの漂っていた片付けかけの部屋は、すっかり殺風景になってしまった。調度の類を押し込んだ段ボール箱が雑然と置かれているが、これも明日には業者が引き取りに来るという。
「寂しいもんだね」
カーテンを剝いだ南向きの掃出し窓から、夕日が斜めに入って影を作っていた。寂しさを助長するのに一役買っている。
「そうだね。とはいっても、この文明社会だ。距離的な離別が、決定的な別離になる可能性はずっと低いさ」
「どうかな」
私は彼の言葉に、まるっきり賛同することはできない。彼は煙草を一本ふかした。紫煙がたなびいて、がらんとした部屋に消えた。
「やっぱり物理的な距離っていうのは、大きいと思う。音や映像は電子化できたって、体そのものはどうしたってそうはいかない」
「いきなりSFめいたことを言うね。だがまあ、そうかもしれない」
彼はもう一度だけ煙を吸い込んで、ろくすっぽ減っていない煙草を灰皿に押し付けて消した。
「そうだよ」
私は漂ってきた煙を手で払いながら、こういうどうでもいい問答だって難しくなるのだということを寂しく思った。
「このあと、暇だったら食事でもどうかな」
彼は何でも無いように言った。何時もならばそれは彼手ずからの料理を振舞うというサインだったが、今日ばかりは外食だろう。
「君の料理を食えなくなるのは残念だ」
「僕もだ」
彼は実に寂しそうに言った。
夕食に、彼の奢りで定食屋でうどんを食べた。荷造りの手伝いに対する報酬だと彼は言う。なんと安い日当だろう。私はエビの天ぷらをトッピングすることで抗議の代わりとした。
「今日はありがとう」
朧月の照らす帰り道を特に会話もなく歩いている途中、彼がそう切り出した。
「いいって。こういう時はお互い様って言ったろ。夕飯も御馳走になったわけだし」
「それもあるけれども」
彼はくすりと笑った。
「この土地で過ごす最後の日を、君と過ごせてよかったよ」
「恥ずかしいことを、いけしゃあしゃあと言うんだな」
「少しお酒が入っているからね」
観れば確かに、彼の頬にはかすかな赤みが差していた。彼がそういうのならば、それは酒精のせいと言うことにしておこう。それくらいの了見は私にもある。
私の頬が熱を持っているのも、おそらくは酒精のせいなのだ。
「君は」
「ん?」
私はこみ上げてきたひとつの質問を、投げかけかけて躊躇した。彼は短く疑問符を浮かべて、少しばかりの優しい沈黙が生まれた。
「私は」
「うん」
十数歩を歩いて、私は口を開いた。
「私は好きだったぞ。君の事」
「僕もだ」
「そうか」
口に出してしまえば、どうと言うことはなかったし、彼もそのようだった。彼の頬の赤みが濃くなって、私の頬がさらに熱を持ったのは、ひときわ強く吹いた木枯らしのせいだ。
「これ、貰ってくれよ。餞別にしては頼りないけど」
私は白く霞んだ月を眺めながら、色気のない鞄から抜き取った包みを差し出した。明治の板チョコに、申し訳程度に包装をした、あまり見てくれの良くない包みだ。私はあまり器用なほうではないから、これが精いっぱいだった。
「バレンタインにしては、遅い贈り物だ」
彼が小さく笑った音が聞こえた。
「渡す機会がなかったからなあ。賞味期限は大丈夫だ、そう腐るものじゃないし。溶けてもないはず」
「ありがたく頂戴するよ」
彼はそう言って、私の手から包みを恭しく取り上げた。目線だけをわずかに横に向けると彼は包みをしげしげと見つめて、優しくて切ない微笑みを零していた。
それが見られただけで、私は満足だった。
「達者で暮らせよ。体には気をつけてな」
私は駆けだして、振り返って、言って、振り返って、駆けだした。
「ありがとう、君も」
背中に投げかけられた声は、最後までは届かなかった。横の道路を乗用車が駆け抜けて、さようならをかき消したからだ。
短く吐く息の合間に、私は少し泣いた。
あの日からもうしばらくして干支が一回りする。
その後に彼と再会することはついぞなかったが、今も私は口の欠けた黒いマグカップでコーヒーを飲んでいる。
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