「空から来た人」
「空から来た人」
ぼくんちの裏の公園には、空から来た人がいる。
空から来た人は、いつもすべり台の上に陣取って、むつかしい顔で新聞を読んでいる。
あるときぼくは聞いてみた。何でそんなにむつかしい顔をしているのって。
「むつかしいことが書いてあるから、むつかしい顔をするのは当たり前だ」
空から来た人は、ちらりとだけぼくを見て言った。
もいちどぼくは聞いてみた。なんでわざわざ、そんなにむつかしいものを読んでいるのって。
「世の中というのは、ひどくむつかしいからだ」
やれやれ、といった風に、空から来た人は言った。
「ぼうず。お前のようなとしならば、そうやって易々と人に尋ねることができるものだがな。わしのようにとしをとると、それもままならんものなのだ」
それはなぜかとぼくが聞くと、空から来た人は本格的に面倒くさそうな、それでいて少し楽しそうな声色で話し出した。
「ほら、わからんだろう。それはつまり、世の中がひどくむつかしいということだ。それでいて厄介なのは、むつかしいだけで不可能ではないというところでな」
空から来た人は、読んでいた新聞をきれいに四つにたたんだ。ちらりと見えた文面は、僕では到底わからないようなむつかしい文字で埋め尽くされていた。新聞をたたんでも、空から来た人はむつかしい顔をしていた。
「ぼうず、世の中はむつかしいものだ。だが、決して不可能というわけではない。わしがこうしてむつかしい顔をして新聞を読むのは、今はどうしても不可能にみえることがらへ至るための道を探しているからだ。けものみちでもいいのだ。道ができれば、それに至るもたやすくなる。わかるか、ぼうず」
ぶんぶんと、僕はかぶりを振った。「だろうな」と空から来た人は言った。
「わしがいつか空へ帰るまでに、少しでも道を見つけねばならん。もしくはわしの不可能が、少しかあとの者の可能になるように」
はなしは終わりだ、と言わんばかりに空から来た人は新聞を広げて、むつかしい顔をさらにさらにむつかしくした。
そろそろお日様が西に首を傾げ始めた。ぼくはぺこりと一礼して、その日はうちに帰った。
いくらか経った日のこと。天気は雨。土砂降りとまではいかないけれど、そこそこの雨。ざあざあと静かに、ちょびっとだけ激しく。あまつぶが地面をたたく音が心地いい。
「センセイにこれを持って行ってあげて」
かあさんはそう言って、魔法ビンと小さな包みをぼくに渡した。かあさんととおさんは、空から来た人のことをセンセイって呼んでいた。
ぼくは雨が嫌いじゃない。お気に入りの雨がっぱを着こんで、あたまの上にザアザアと音をきいて歩くのは、嫌いじゃない。
ぼくんちの裏の公園の、すべり台の上に、空から来た人はやっぱり座っていた。
「ぼうず、こんな日にどうした」
滑り台の手すりにおしゃれな傘を括り付けて、やっぱりむつかしい顔で新聞を読んでいた空から来た人は、ぼくに気が付いたみたいだった。
おとどけものです、とぼくがかあさんからの届け物をとりだすと、空から来た人のむつかしい顔が少しだけ輝いたみたいに見えた。
「そうか、そうか。気をつかわせたな」
すこしのびをして、ぼくは空から来た人に包と魔法ビンを手渡した。空から来た人はそれをとても大事そうにそれを受け取った。
「ぼうず、おまえもどうだ」
空から来た人は、そういって手のひらほどの大きさの白い板切れのようなものをぼくにくれた。サンドウィッチだった。
ぼくはありがとうと言ってそれを受け取って、空から来た人と一緒に食べた。
ひときれ食べ終わって、ぼくは聞いた。なぜこんな雨の日にも、ここで新聞を読んでいるのって。
「むつかしいな」
空から来た人は、そういってばくばくとサンドウィッチを食べた。
「ぼうず、雨は冷たいな。なぜだかわかるか」
空から来た人は、手のひらをかさから出して、あまつぶを集めながらぼくに聞いた。
ぼくも同じようにあまつぶを手のひらに集めて、水だから、と答えた。
「そうだ。雨は水だから冷たいのだ。それは、あたりまえのことだ」
ぼくの答えにどこか満足したように、空から来た人はうなずいた。
「わしが雨の日にもここで新聞を読んでいるのは、それがわしだからだ。それは、雨が水だから冷たいというのと同じくらいにあたりまえのことなのだよ」
空から来た人は、魔法ビンのふたを開けて、中身をごくごくと飲んだ。
「ぼうず。おまえは雨が好きか?」
ふうと一息ついた空から来た人にそう聞かれて、ぼくは正直に、嫌いじゃないよ、と答えた。
「そうか。ぼうず、雨はいいものだぞ」
すっかり空になってしまった魔法ビンをぼくに渡して、空から来た人はそれだけ言った。そうして空から来た人はまた新聞を取り出して、むつかしい顔をして読みだした。
とつぜん、風がびゅうとうなって公園をかけて行った。
空から来た人の新聞は、それに乗って軽々と飛んで行ってしまった。おしゃれな傘も、傾いてぐらぐらした。
「風というのは」
空から来た人はぐらぐらした傘をしっかり括り付けなおしながら言った。
「難儀なものだ」
そうして何食わぬ顔であたらしい新聞を取り出して、読み始めた。
あまつぶが地面をたたく音が大きくなってきていた。ぼくはぺこりと礼をして、その日はうちに帰った。
冬が来た。そうして新しい年が来て、雪が来た。
ぼくんちの裏の公園にはぼくの背たけほど雪が積もっていて、まるで音がみんな吸い込まれたみたいにしいんと静かだった。
空から来た人は、もこもこのジャンパーを着て滑り台の上に座り、やっぱりむつかしい顔で新聞を読んでいた。
ぼくが寒くないですか、と聞くと、空から来た人はちらりとぼくを見た。雪のおかげで、ぼくと空から来た人は同じくらいの高さにいた。
「ぼうず。冬は寒いものだ」
空から来た人は少しだけ言葉を探すと、当たり前のことを言った。
「氷が水になって、また氷になるくらいには寒いのだから、寒いに決まっている。実に簡単な話だ。世の中とは、実に簡単にできている」
空から来た人は白い息を吐きながらそう言った。はて、とぼくは思った。
世の中は、むつかしいものだったんじゃないの、とぼくは聞いた。
「そうだ。世の中というのはひどくむつかしい。簡単であるからこそむつかしい。簡単なことが、簡単にできないからむつかしい」
空から来た人は、滑り台の手すりに積もった雪をぎゅうっと握って、不格好な雪玉を作った。それをぽいと宙に放ると、それはボスンと雪の中に落ちて、見えなくなった。
「いまわしがほうった雪を探すのは、たやすい。だがそれが明日になればどうだ。置き去りにされた簡単が、世の中をむつかしくさせることもある」
空から来た人はそういった。少しぬれた手をジャンパーで拭いて、再び新聞を手に取る。ぬぐいきれなかった水気が、新聞の端っこをにじませた。
「簡単なことを、簡単なことだと気付かないこともある。だから世の中はむつかしいのだ」
空から来た人は、そう言ってあのおしゃれな傘を滑り台の手すりに括り付け始めた。
顔を上げると、ぼくの鼻の頭に冷たいものがひとひら落ちた。
灰色ののっぺりとした雲の隙間からみるみる白い白い雪があふれてきた。ぼくはぺこりと礼をして、その日はうちに帰った。
雪がきえると、春が来た。空から来た人が、空に帰った。
空から来た人は、空に帰る前の日に、いつものすべり台の上で、ぼくに言った。
「そろそろわしは空に帰る。世の中のむつかしいことはそのほとんどがむつかしいままだったが、そのうちいくつかに道を見つけることができた。これは喜ばしいことだ。わかるか、ぼうず」
ぼくがこくりと頷くのを見ると、空から来た人はこれまでではじめて、優しい笑顔になった。空から来た人は言った。
「ぼうず。おまえはこれからむつかしい世の中に必ず出会う。だが、それはむつかしいだけで、決して不可能ではない。やもすれば、ひどく当たり前で簡単なことかもしれんのだ。それを忘れるな」
ぼくはまた、こくりとうなずいた。空から来た人も、大きくうなずいた。
「わしはそろそろ空へ帰るから、ぼうずがどんな道を見つけるかはわからん。わからんが、楽しみにしているぞ」
そういって空から来た人は滑り台をすいーっと滑り降りて、ぼくの前に立った。
今までずっと座った空から来た人しか見ていなかったからわからなかったけれど、案外背の高い人だった。
「これは餞別だ。ぼうず、これはわしの旅立ちではあるが、同時におまえの旅立ちでもあるのだから」
そういって空から来た人は、あのおしゃれな傘と、新聞がぎゅうぎゅうに詰まった平たい鞄をくれた。
「達者でな。遠く先になるかもしれんが、また会ったときは、ぜひお前の見つけた道を教えてくれ。そのころにはきっと、わしも気安くおまえに尋ねることができるだろうから」
空から来た人はそういって、片手をあげて公園を去って行った。やわらかで温かな風が吹いた。ぼくはぺこりと礼をして、その日はうちに帰った。
空から来た人が空に帰って、いくつもの春が過ぎて、いくつもの夏が来て、いくつもの秋を超えて、いくつもの冬が来た。
僕はぼくんちの裏の公園の滑り台の上に陣取って、むつかしい顔をしながらむつかしい新聞を読んでいる。
当たり前のように日が昇って、当たり前に明日が来た。
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小説家になろう冬の童話祭2014に出品したもの
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