期待外れの湯治

 えー、どうも。

 いつの間にやら長い冬も明けてようやく春、といった御時分で。もう一月もしないうちに行楽シーズンに突入するワケですが、有給休暇でも取って遠地に足を運ぼう、なんてなんて考えておられる方も少なくはないんじゃないでしょうか。わたしなんかも、できりゃあ温泉地でゆっくりと湯治を楽しみたいなァなんて考えたりしているもんですが、冬は明けたってのに懐は依然寒いまんまでございますから、はてさてどうなりますやら。

 温泉地と言えば、日本全国津々浦々に大小さまざまなものがありますな。有名どころでも別府湯布院、道後に草津、登別に加賀温泉。枚挙に暇がございません。

 その中でも兵庫は有馬温泉なんかは日本最古の温泉地てなもんで、百人一首に詠まれるほどには由緒ある温泉地でございます。

 ま、そういう有名な行楽地ともなりますと、ちょっとした怪談なんかもちらほら見え隠れするもの。諸国百物語という怪談集には、有馬温泉を舞台にした「尼が崎伝左衛門湯治してばけ物にあひし事」なんて噺がございます。

 どんな話かと申しますれば、尼崎の伝左衛門という男が有馬温泉で湯治をしていると女が現れまして、「お背中を流しましょう」なんて言うわけですな。それで伝左衛門が女のいうがままに背を流させると、これがまた、天にも昇るような心地で何とも気持ちいい。そのままうつらうつらとしていたら、いつの間にか背の肉をぜぇんぶこすり落とされて骨ばかりにされ、伝左衛門は文字通り昇天。女は忽然と消え失せておったそうな、くわばらくわばら……と、少しばっかり背中の寒くなるお話でございます。

 さて、この話を一人の男が耳に入れました。仮に伝助とでも致しましょうか。

 この伝助、若くして事業を成功させ人並み外れた財産を築き、人の人生で楽しめるようなことはだいたい何でもやって来たような男でありました。しかし老境に入り、会社の一切合財を息子に委ねてしまえば、あとはどうにも埋めきらない空虚が残るばかり。くわえて伝助は心の臓を病んでおりましたから、めっきり滅入った様子のこの頃は毎日「どういう死を迎えるか」という事ばかりを考えてしまう次第。

 そんな折に有馬の女の怪談を小耳にはさんだものですから、「そんな夢見心地に死ねるのならば、それほど嬉しいこともない」と一念発起しまして、家のモンに2,3言づけると、すぐさま小さく荷物をまとめて兵庫へと出かけてしまった。もともと商いで身を立ててきた男でしたから、こういう決断は異様に早い。最寄駅から飛び乗った特急電車に揺られて数時間。その日の夕方には、伝助は有馬の地を踏んでおりました。

「さて、来てみたは良いが果たしてばけものの出る宿はどこだろうか」

 件の噺には具体的な宿の名などは出てまいりませんし、無論ガイドブックに載っているわけもありませんで、さっそくつまづく伝助。とはいえ時間もいい時間、ちょうど烏がカァと泣きながら山向こうに消えていきました。

「日も暮れっちまっては宿探しも難儀だ。今日のところは適当な宿に泊まることにして、本格的な探索は明日っからやることにしよう」

 と伝助は、とりあえずの宿を探して温泉街を歩くことに。

 有馬の温泉街ってのは六甲山地は紅葉谷の麓の山峡にありますから、これが結構坂が多い。慣れない運動にひぃひぃ言いながらも坂道を歩いておりますと、ふと一軒のひなびた温泉宿に目が留まる。

 よし、見てくれは少しバタ臭いが、部屋があれば今日はここに泊まるとしよう。伝助はほとんど直感でそう決めると、迷うことなく玄関をくぐります。外見に比べて内装は小奇麗に纏まっており、伝助としても好印象。「こいつは良い宿だ。やはり俺の目に狂いはない」なんて自分の直感を褒めちぎっておりますと、フロントの奥から和服姿の女がひとりスゥーッと伝助に寄ってきて、「いらっしゃいませ」と優雅に会釈をしてきた。これがまたいやみのない仕草で、実に良い。「予約はしておらんのだが、今日一晩の宿を頼みたい」と申せば、「あら、それはよかった、ちょうど一部屋だけ空いております」とのこと。「そいつは何とも運がいい。良し決めた、今日は一晩、御厄介になろう」てなわけで、伝助はこのお宿に一泊することと相成った。

 ついでに部屋に案内される間の暇つぶし、先ほどの女に「あかすり女の怪談が残っている浴場はどこだかご存じか」と聞いてみたものの、「とんとぞんじあげておりません」の一点張りであったので、伝助もそれ以上は聞かないことにした。これ以上しつこくして頭のおかしい客だと思われてもかなわない。

 さて、部屋に少ない荷物を置き、夕食まではしばし時間があるという事であったので、伝助は早速この宿の大浴場へと向かった。

 大浴場という割にはそこまで大きなものではなかったが、運よく他の湯治客もおらずに貸切状態ともなればちょうどいい塩梅の贅沢具合。掛け湯をしてさっぱり汗を流して、独特の色合いのお湯へゆっくりと体を沈めれば、思わず体の奥底から深ァいため息もこぼれるというもの。

 熱くもなく温くもなく、ちょうどいい湯加減の湯船に浸かっていると、ついつい伝助はうつらうつら。まぶたが重くなるのを感じて、これではいかんと湯船の湯でばしゃりと顔を洗いますと、さて何という事か。さっきまで確かに伝助だけだった湯船に、見目麗しい美人が一人、浸かっているではありませんか。

(しめた、これは大当たりだぞ)と怖がるより前に伝助は、小躍りしたくなるのを必死にこらえる始末。とはいえここで取り乱して逃げられても勿体ない。はやる気持ちを抑えて、なるだけ目を合わせないように湯船から上がり、洗い場の椅子に腰を下ろしてそっと鏡を見ますと、何と女は映っていない。

(いやはや、まさか偶然入った宿が当たりであったとは、まだまだ俺の運も捨てたものではないようだ)などと、今から死ぬって時に呑気に自分の強運にすっかり感動しておりますと、湯船のほうから鈴を鳴らすような美しい声が聞こえてまいりました。

「お背中、お流しいたしましょうか」

「うむ、お願いしよう」

 伝助は声の上ずるのを必死に抑えて、なるだけ威厳を保った声でそう言いますと、湯船からザバリと水音がいたしまして、ひたりひたりと水っぽい足音が近づいてくる。背に柔らかな手と少し硬めの手ぬぐいが触れ、その絶妙な感触のコントラストを描きまして、首筋にあつっぽい吐息がフウと掛かりますと、さあいよいよその時。もともと死出の旅と覚悟を決めてまいりましたが、やはりいざ死に臨みますと、せっかく湯でほぐれた身も強張るというもの。

「それでは、失礼致します」

「うむ」

 伝助が最期の覚悟で短く返しますと、女は手に持った手拭いで、ついに背を流し始めた。

 ぞり、ぞり。ぞり、ぞり。

 女の手際はそれはもう見事なもので、伝承通り大層気持ちがいい。

 気持ちがいい、のですが……思ったほどじゃあ、ない。

 この伝助という男、前述のとおり相当のお金持ち。しかもいわゆる成金でございますから、世の中の気持ちがいいことはだいたい経験しておりました。こんな爺の見てくれというのに、良いところのエステなんかにもよく通っていたのです。

 で、ありますから、たしかに気持ちがいいこのあかすりも、それらと比べてしまえばどうにも一歩劣る。

 これで死ぬというのは、あまりに期待外れ。未練でしかない。

「ちょいとお前さん、少し手を止めてはくれんかね」

 と振り返り、女の手をがっしと掴んだ伝助。驚いたのは女のほうで、一体何だと伝助を見る。

「なにか、お気に障るようなことがありましたか」

 と女がきけば、

「ああ、大ありだね」

 と伝助。

「ちぃとばっかし確認しておきたいんだが、お前さん、あかすりにかこつけて湯治客の魂をとるバケモノで間違いはないね」

 と詰め寄れば、女は目を白黒させて「はい」と認めた。まあ鏡に映らないくらいです。何かしら化生の類と察しはついておりましたからそれは良いとして、伝助は往年自分を悩ませてきたクレーマーよろしく口火を切った。

「俺ァね、わざわざあんたが天にも昇るような気持ちよさの中で殺してくれるっていうから、遠く都からわざわざ足を運んだのよ。それがどうだい、この中途半端な気持ちよさは。これじゃあ俺ァ、あんたに魂はやれないね。どうしても魂をとりたかったら、あんたらン中でもいっちばん上手いのを連れておいでよ。そうすりゃァ、俺も願ったりかなったりなんだ」

 さて困ったのは女です。以前にも何度か魂を取り損ねたときってのはありましたが、その時の獲物は一目散に逃げていくばかりで、こんな風変わりな難癖をつけてくる手合いは流石に初めてだった。

「い、いえ。この辺でこれをやっているのは、私一人でございます」

 と苦し紛れに言いますれば、伝助はまァ露骨に溜息など吐きまして、

「なんだい、とんだ期待外れだった。俺ァ帰るぞ。なんだか死ぬ気も失せちまったい」

 そう言い残して掛け湯をし、さっさと大浴場を出ていってしまった。

 女はただ茫然とそれを見送りまして、一言。


「わたし、もうこの仕事をやっていく自信がありません有馬泉……」


 おあとがよろしいようで。

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