2.

「運動解禁令が先生から出たから、体操着でひとっ走りしようと思ったわけ」

結局、遅くまで学校でひとり何をしていたのかと尋ねた僕にキリエは答えた。歩道もあるような、多少は道幅の広い道路に出たけど、時間もあってかたまに自動車が通る他に、人の気配は僕とキリエ以外にはない。相も変わらず周りには田んぼしか無いから、いくら話をしていても他人に迷惑は掛からないだろう。

「学校に復帰してから、体育の見学中にさんざん着てたけど、着たまま運動するのは罹ってから初めてでさ。肌に擦れる感じ一つとっても前とは違うんだよ。無視して外周に出たけど、一周しただけで息が上がったし」

「それは単に運動不足じゃないの」

「あっは、かもな」

調べたところによると、キリエの罹った病気は20万人にひとりの確率で発症するレベルの奇病だと言う。発症すれば、男性は女性へと、女性は男性へと、数日間を掛けて肉体が遺伝子レベルまで置き換わる。治療法は現在に至るまで見つかっておらず、また一度罹れば同じ病気には二度と罹らない。元の性別に戻る術は無いということだ。肉体が置き換わる数日間の苦痛は凄まじいらしく、変化が完了し意識を取り戻した患者は、”生まれ変わったような気分だ”と口を揃えて語るそうだ。キリエも同じフレーズを口にしたのだろうか。カラオケで裏声を出す時よりも高くなったその声音で。

「一周した所で諦めて休みながらぼんやりしてたら遅くなってさ、着替えもそこそこに昇降口に向かったら丁度そこにサエが来たってわけ」

相も変わらず口数の多いキリエ。相槌を入れる他は、ろくに自分から話を振らない僕とは対照的である。この対称っぷりが、互いに抱えた緊張に由来していることは、おそらくキリエも気づいているはずだ。家路は残り2/3ほど。10分も歩けば、今度こそ人の気の有りそうな地区に入る。そうなればここまでのように気軽に話もできなくなるだろう。二人きりで話す機会がこの先やってくるか、いや、そもそも僕がそういう機会を望むかどうか分からない。どんな意図を持っているかはわからないけど、キリエがくれた機会を無駄にしてはいけない。そんな気がする。

「一ついいかな」

「うむ、よかろう」

「放課後に運動してたって、どうして嘘ついたん?」

立ち止まり、僕は久々に自分からキリエに話を振った。対して、キリエは歩みを止めない。

「いくらジョギングに出て、その後に休憩してたからって、ここまで遅くはならないと思う。昇降口前で丁度出くわしたってのもタイミングが良すぎるし」

そしてなによりも

「お昼にクラスの女子たちと、放課後に俺をどうのこうのって、話してたのが聞こえたから」

「ほぉ、ガールズトークを盗み聞きとは、穏やかじゃないね、サエ」

振り向いたキリエは、どこか観念したかのような表情を浮かべているように見えた。

「このまま何もしないまま終わっても、それはそれでいいかもって思いかけてたけど、今ので踏ん切りがついた。ごめんね、しょうもない嘘ついて」

自転車のハンドルを握る手を離し、キリエはスカートの下に履いていた体操着を脱ぎだす。自転車は音を立てて倒れた。それを気に留める人間は、僕とキリエ以外にはこの場にはいない。どこにでもいそうなスカジャー姿の女子中学生は、あっという間に。どこにでもいそうなセーラー服姿の女子中学生に変わった。

「どう思う」

「何がさ」

「今の俺、いや、私の姿」

おもむろに僕の手のひらを掴むと、キリエは自身の胸に押し当てた。起伏の少ない、しかし確実に男性のものとは違うその感触は、少なからず僕を動揺させたけれど、それを今、キリエには見せたくなかった。

「男と違って柔らかいでしょ?」

「感じ取れるほど大きくもないくせに」

声が震えていたかもわからない。精一杯に強がって見せた僕を鼻で笑うと、キリエは一つ、大きく深呼吸をした。

「今日堪能しなかった事をいつか後悔させてやるから」


「ケリをつけるつもりだったんだ、サエに対しても自分に対しても」

スタンドも立てずに横倒しにしていた自転車を起こして、キリエと僕は再び歩き始めていた。中1の時から愛用する、雨風に晒されてボロボロな自転車のサドルは限界まで下げられていた。

「肉体の変化の方はもう大方落ち着いた、あとは生理がいつ来るかくらいなんだって。人によって重いとか軽いとか言うけど自分はどっちなんだろうって、もう戦々恐々」

成長期を迎え、つんつるてんになっていた学ランとすっかり靴底のすり減ったスニーカーは、卸したてのセーラー服とローファーになっていた。

「学校の皆だってちょっとずつこの変化に順応し始めてる。多分サエ以外。母さんや姉ちゃんだっておんなじ。ありがたいことだけどね」

身長は目測で20cm近く縮んだだろうか。仲良くなって以来ずっと見下ろされ続けていたのが、急に見上げられるようになってしまった。

「自分自身を取り囲むいろんな沢山が俺を受け入れようとしてくれてる。だから、俺のこころも今の俺を受け入れなきゃなって」

降って湧いた現実を理解出来なかった。受け入れられなかった。入院中も、最後の夏休みも、新学期が始まってからも、ずっと避け続けた。そして今日、僕はキリエが退院して初めて、キリエの目を真っ直ぐと見た。キリエが僕に目を逸らさせなかった。

この夏、僕の友人キリエ・シノブは、女の子になってしまったのだ。

「変化の最中は滅茶苦茶苦しかったし、慣れない苦労だってこの後もずっと続くだろうけれど、それでも私は、今のこの身体とこころを肯定したいと思える」

「今までのように、ただの友達でいられなくなってしまうかもだけど、そう決めたこと、サエにも伝えたかったんだ。サエのためにも、自分自身で責任をもつためにも。その機会を作ってもらうのに、友達に少し手伝って貰った。種明かしはそんなところかな」

スッキリしたとばかりに、彼女は大きく伸びをしている。決して軽くはない宣言をして、重荷を降ろしたからだろう。

その身に起こっていること、目の前で起きていくだろうことを見定め、前を向いて歩み出そうとしているキリエのために、僕ができることは一体なんだろうか。

「もう一ついいかい」

「よろしい」

「急に体操着脱いだり胸を触らせたりしたの、場所も含めて計画の内だったの?」

「んー」

考えこむ、ふりをするキリエ。

「トップシークレット、かな」

「仮にもし、俺がキリエを押し倒したりしてたら、どうしてた?」

「それも、トップシークレットで」

そのはぐらかしが、なんだか可笑しく思えて僕は笑った。キリエは隣からそんな僕を小突き続ける。

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