00: はじまりのはじまり


 ガルセラという街は東域の熱砂地帯と北域の草原地帯の間にある。ちょうど地理的にその両方の地域の影響を受けていて、文化も混在している交易都市である。その街の領主は50を過ぎたばかりの肥えた男だった。かつては黒々としていたと思われる髪には白い筋がいくらも交じり、目は淀み、体は脂ぎっている。彼が領主の地位に就いたとき、街の者は皆諸手を挙げて喝采したのだが、今の街にその姿はない。街は冷えていた。通りはある程度の賑やかさがあるものの、それはかつてのものには程遠く翳りをみせている。交易都市という名は衰えていないが其処ここに淋しさが募る。通りを少し脇にそれると、もう喧騒は遠くにある。町は少しずつその灯火を消していた。そんな時に現れたのが彼だった。


 ――俺が倒してやろうか。


 まだ二十歳にも満たぬ男はそう言って口元を歪ませた。何を馬鹿な話をと、まともに相手にする者はいなかった。ただ一人を除いて。


 

 領主の館は街のどの建物よりも大きく、高かった。聳え立つ門は来訪者を拒んでいた。館の中から領主は街に下りることは滅多にない。ひたすらに欲に溺れ、すでに政務は滞っていた。過去に何度も諫言した忠臣もいたが、全ては側から外された。このままでは街が死んでいく。けれど何をする手立てもない。館の側を通り過ぎる時、ヴィオラッサはいつも憂鬱な気分になった。領主をあんなふうにしてしまったのは自分たちだからだ。当初の聡明ぶりに放っておいたらこの様だ。酒場の仲間といつものように領主と街の愚痴を零していた。すると見慣れぬ男が何処から湧いてくるのか自信を湛えて言ったのだ。

 他の者が無視を決め込む中、ヴィオラッサは彼に近づいた。何か思惑があっての事ではない。ただ興味を持っただけだった。彼はディーアと名乗った。旅装からも見てわかるとおり、ガルセラの人間ではない。内陸の小さな村から来たのだと彼は告げた。何をしにきたのかと問えば、村に飽きたから出てきたと簡素な答えが返ってきた。何故飽きたのかと問えば、村は何もないからと応えがあった。ガルセラはどうだと尋ねると、彼は目に少年らしい興味の色を躍らせた。曰く、面白いと。交易都市という特性のせいなのか、単に彼の村が何もなさ過ぎたのかは不明だが、見たことのない物と人と誰も自分を知らないことが面白くて仕方ないのだと。彼を誰も知らないことが不思議だとは思わない。けれど彼はそうではなかったらしい。そこに含まれる自信がありありと彼の胸のうちを語っていた。

 最期にあの言葉の意味を尋ねた。すると彼はそのままだと答えた。こんな若者が領主を倒してやるとは、一体どうして思ったのだろう。ヴィオラッサは男に興味を持った。

 


 昼のガルセラは暖かい。夜のガルセラは肌寒い。海から来る潮風が体温を奪っていく。それでも上着を着込めばそう大したものでもない。夜の闇に紛れて、ディーアは領主の館に忍び込んだ。警備はいるがけして真面目とはいえないようだ。館内の空気は重く澱み、彼の眉間に皺を刻んだ。領主の部屋は分かっている。彼の意見に興味を持ったあのヴィオラッサという若者が細かく教えてくれた。警備の薄い場所、交代の時間、館内の見取り図。ともすれば女に見えてしまうような彼の顔には興味以上の好奇心がみえて、ディーアは不思議に思った。他の誰も相手にしなかった自分に協力してくれるのは何故なのか。考えても答えは出ない。すべきことが終わったら尋ねてみよう。なんにせよ、一人では心許なかったのは確かであった。

 大抵、一番高い場所に目的の人物はいるものだが、例にもれずガルセラの領主も其処にいた。一段高くなった館の奥の部屋に。扉には鍵もかけられておらず、それどころか人の気配すらしなかった。よほど領主は一人が好きらしい。中からはかすかないびきが聞こえた。彼は音を立てずに寝室へ体を滑り込ませた。静かに領主の前に立つ。豚のように肥え、垂れた肉は醜くて仕方がない。これに触れるのは勘弁したいと思っていると、人の気配を感じたのか領主が身じろぎをした。起きるのかと見下ろしていたがまたいびきを掻き始めた。ここで起きればまだ被害は少なかったことだろう。ディーアは無言で領主の腹を踏みつけた。途端に悲鳴が部屋中に響く。何をしているのだ、自分は領主だぞ、わかっているのか、そんな類の言葉が醜い豚の口からこぼれた。だからどうしたと言ってやると初めて領主の顔に恐怖が浮かんだ。あらん限りの悲鳴で助けを呼ぶ領主を、彼は不愉快な面持ちで眺めた。

 主の部屋から轟く悲鳴は咆哮というほうが近かった。突然の緊急事態に飛び込んでいく警備の表情はどれも驚きを浮かべているが主の心配をしているようには見えなかった。そして辿り着いた目的の部屋でも、やはり驚愕するばかりだった。そこでは年若い青年が領主を片手で持ち上げていたのだから。

 入り口に固まってこちらを伺っている者たちがいた。だが止めようとしている訳ではないらしい。ただ戸惑っている様子が見て取れた。彼は領主を持ち上げていた手を離した。どすっと鈍い音がした。痛みと怒りに喘ぐ声がしたが、彼は無視した。遠巻きに見ている警備の集団に目をやった。びくつく者もいれば、呆然としている者もいる。彼らに領主を指差した。

 

 ――今から俺はあれを倒す。誰か止める者はいないか。


 誰も止めはしなかった。主から罵声を浴びても、俯いて目を逸らす。どうにも動けない彼らにディーアは見ていろと静かに指示を出した。そして領主へ迫った。その地位を捨てろと。垂れた頬の肉をたぷたぷと揺らしながら領主は抵抗をみせた。なら死ぬか、と問えば領主は諦めて項垂れた。命だけでも助かるならと思ったらしい。けれどそれは甘い考えだ。領主は自分を助けてくれるのなら地位はお前にくれてやる、だけど持ち物は没収しないでくれと彼に懇願した。彼は一瞬微笑んだ。了解したのだと領主は喜色を浮かべ、それはすぐに恐怖へと落ちた。彼が手を掲げると領主の体が浮いた。ふわふわと。彼が手を下ろすと、領主は窓の外へ放り投げられた。見えない何かによって。

 あの自信が何であるかは知らないが、明日あの若者が死体で発見されてはかなり困る。そんな言い訳をしてヴィオラッサは彼の後に続いて館に入り込んだ。形容しがたい悲鳴が聞こえた後は静寂だけがあった。自分も見つかるのを承知で入り込むべきかと迷っていると、不意に窓の割れる音がした。獣のような悲鳴とともに領主の部屋から大きな物体が放り出された。近寄ってみてその物体が何かを理解した。領主だった。白目を剥いて、まさに息絶え絶えという様子で何が起きたかを知る。あの男、侮れない。

 

 翌日には領主が交代したこと。前の領主は大怪我で死にかかっていることが人の口に上った。昨夜、ディーアは領主を医者に見せるよう指示すると、ヴィオラッサに帰ろうと言った。そしてヴィオラッサの家で2人は眠った。朝起きると、噂が町中を席巻していた。


 

 領主の館の前を通ると警備が彼らを呼び止めた。怯える様子をみせながらもディーアに声を掛ける。そういえば彼はガルセラの領主になったのだと今更ながら思い出した。だがそれと同時に面倒くさいとも思った。警備は彼を館に引き入れる。ヴィオラッサも促されて続いた。怯えきった家人たちの目が彼に注がれる。昨夜の恐怖体験で新しい領主はすでに恐ろしい男として認識されている。街の住民であるヴィオラッサがいるのが救いなのだろう。街をどうするのかと問われた彼はひどくやる気がなさそうに見えた。だがそれでも一応考えているようだった。

 

 ――代理を立てる。


 一言呟いた。正直悪くない答えだと思った。ガルセラに来たばかりで何もわかっていない彼自身が街をとりしきるよりも、幾らか詳しい街の者に任せたほうがいいだろう。他の者も僅かに安堵した様子を見せた。それからディーアは急にヴィオラッサを振り向いた。その視線にぎくりとした。まさか。じわりと汗が滲んだ。


 ――あんたがやってくれ。


 本気か。彼以外の全員が思ったことだろう。けれど全く気にする風はなく、彼は淡々と告げる。あんたがやってくれ、と。俺は此処に詳しくないし、あんたの昨日の手配はよかった。それに俺はあんたが気に入ったから、と。すぐさま書類を作成されて、驚愕の表情のままヴィオラッサはガルセラ領主代理へとなった。


 

 重い足取りで家路についた。歩くたびにディーアのことを尋ねられ、自身が領主代理になったことを驚かれる。そもそも彼があの領主にどんな技を用いたのかもわからない。それについては質問されても、彼は笑うだけであった。人のごみを抜けてからやっとのことで家に着くと、家の前に人影があった。声を掛けようとしてそれが誰か気がついた。影もこちらに気づき、ヴィオラッサの名を叫んだ。ガルセラで武器商兼鍛冶師をしている。ハジータムナクだった。通称をジータという。

 彼はヴィオラッサの隣に立つディーアを見ると突然襲い掛かった。武器を扱う仕事をしていることもあって彼の能力は高い。急に目の前に躍り出てきたハジータムナクに驚いたようだが、ディーアはすばやい身のこなしで彼の攻撃を避けた。それには彼も驚いたようだった。だがさらにもう一度、今度はもっと速いスピードで攻撃を仕掛けた。逃げられはしないだろうとヴィオラッサはその様子を眺めていた。ディーアは避けようとはしなかった。その代わりに彼が切りかかる瞬間、口の端を歪ませた。

 

―キィン

 

 ディーアの体に届く前に、ハジータムナクの武器が折れた。無残に割れた小刀が信じられなかった。自身の愛刀の情け容赦ない姿に思わず顔をしかめた彼は、潔く刀を収めた。そして問う。貴様は誰だ、と。

 薄笑いを浮かべ名乗るディーアに、ハジータムナクも名を返した。


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