16: 死と税金以上に確かなものはない
大陸の覇者として、ガルセラの領主として、ディーアは認められてきた。それは何年もかけてヴィオラッサたちと共に歩んできた功績だ。彼らはそれを誇りに思っている。
そしてディーアの魔法についても少しずつ周囲の理解を得ることが出来た。
彼には怖いものなど何もないとガルセラの街の皆は思っている。いやガルセラだけではなく、他の街の皆も思っている。実際には、彼は怖いことだらけなのだがそんなことは皆知らない。
ディーアが怖いと思っているまず一つは、姉だ。
彼の姉であるディクテは今でこそ落ち着いているが、幼い頃ディーアを虐待していた。そのことを今も忘れられないからこそディーアは恐怖を感じる。大人になってからも彼は姉のことを考えるだけで恐慌をきたした。
二つ目は人。
彼を慕う人物はたくさん居る。かつては信じることが出来るのはほんの数人だった。それが少しずつ増えていって今は大勢と呼べるほど居る。それでも彼は人が怖かった。
人見知りの激しい彼であったのだ。相手の人となりを知り、深く付き合えばそれは薄れたけれどなかなか懐かない彼であったのだ。年を重ねた今でも、他の人間の中に大いに紛れた今でも、彼はやはり人が怖い。これはもう生涯抱えてしかるものであろう。
そして最後に、死がある。
それはディーアだけではなく多くの者が抱える恐怖に違いない。他の者が同じように抱えているからといって、緩和されることがないのが死の困ったところだが。
彼は幼い頃から死と間近にあった。虐待はひどく、彼の心も体も傷つけた。いつぞやは自ら死を選ぼうとしたことさえある。その時は神々が全力で彼を止めた。それから大人になって、広がった世界を見ることが出来て、彼は生きていてよかったと心から思った。見えなかった世界は本当に狭くて、そして広い世界には彼を受け入れる人が存外多かった。
それで忘れていたのだ。長らく彼は死の恐怖を忘れていた。
いつでも身近にあったのに、それは容易く彼の頭から遠ざかっていた。
「え?」
彼が死を再び身近に感じたのは、医者の言葉だった。
「よく我慢していましたね」
最近お腹の調子がよくない。不意にきりきりとなる痛みにディーアはこっそり医者を訪ねた。皆に言わなかったのはきっと大したことがないと思っていたからだ。腹痛の薬をもらって、それですぐに治ると思っていた。
「薬を出しましょう。それから、ヴィオラッサさんたちに話して――」
淡々と話す医者の言葉が頭に入らなかった。ディーアは自分がそんなに長生きする人間だとは思っていなかった。だとしてもこういう結果がもたらされるとは考えもしなかった。病気だと言われた。それはもう治らないだろうと言われた。
姉に殺されるのでもなく、他街の者に殺されるのでもなく、病に殺される。それが何とも実感が湧かず、おかしかった。けれど笑うことは出来なかった。
「領主殿、聞いてますか?」
「え?」
「ヴィオラッサさんたちに話して、今後のことを決めましょう。出来るだけ早い方がいい。明日にでも」
「待って!」
汗が背中を伝った。動機が激しい。恐怖が体を震わせた。
「……ヴィーたちには言わないで」
「しかし……」
「ずっとじゃない。もう少し、あと一か月! いや、十日だけでもいい! お願いだから、まだ言わないで!」
必死な彼の意思が伝わったのか、医者は深いため息で返事をした。
「ありがとう! ……薬はちゃんと飲むよ。でもこんな乱れた状態じゃなくて、ちゃんと、ちゃんとしたいんだ。落ち着いて、俺の口からちゃんと言いたい」
ディーアはまだヴィオラッサたちに何も返せていないと思っていた。大陸を統一したのはヴィオラッサの知恵とハジータムナクが力をくれたからだ。リャンを養い子にした時も迷惑をかけた。けれど皆、文句は言いながら手を貸してくれた。
死は遠いものではなかった。身近にあったものだった。暗殺されかけたこともあった。此処まで生き延びることが出来たことが奇跡だと知っていた。
「ちゃんと、落ち着くことが出来ますか?」
「……大丈夫」
ディーアは医者に弱弱しいけれど、笑みを見せた。
それから彼はきちんと話をするまで十日間、領主館の官吏や街の皆に会った。ただ挨拶をしただけの人も居る。それでも自分から話しかけたことのない人にも積極的に話しかけた。ガルセラの街は既にディーアの故郷になっていた。
交易が盛んな街だ。色々な人が集まる。ハジータムナクとキルキトも他の街から流れてきたのだと聞いていた。
武器屋の扉を押した先にはいつもキルキトが居た。いつでも笑顔で「いらっしゃい」と声を掛けてくれる。それがディーアには嬉しくて、安心できた。
ハジータムナクが本当は鍛冶師だとも聞いた。ディーアの近くに仕えてからはあまり鍛冶の仕事が出来なくなったと聞いた。申し訳ないと思いながらも、もういいとは言えなかった。そしてハジータムナクが今の今までディーアを見限らなかったことが嬉しかった。それはヴィオラッサの顔を立てているのだと知っていても、彼ならば本当に嫌なら断っただろう。だから嬉しかった。
ヴィオラッサには本当に世話になったと思っている。面倒事を押し付けてしまったのは悪いと思っている。けれど彼の言葉が発端で領主になったことや、大陸統治のために自分の力を当てにされたことで帳消しにならないだろうかと考えている。厳しい人だけれど、誰よりもやさしいことを知っている。誰よりやさしくて、ガルセラを愛しているかを知っている。
ディーアには生まれ故郷を愛する気持ちはない。だけど代わりにガルセラをくれて、此処での生活を実りあるものにしてくれた。やさしい人たちと自分を好きだと言ってくれる人たち。その存在があるということが嬉しかった。
ガルセラの街を出たところに小さな丘がある。ディーアはそこでよく街を眺めた。
なんてことない景色だ。それなのに眩しかった。
「父さん?」
ゆっくりと目を開けると、リャンがディーアの前に手をかざしていた。
「どうしたんですか。ぼうっとしちゃって、何かありましたか?」
十年以上も昔に拾った子どもは大きくたくましく成長した。
「何か変なものでも食べたのだろう」
「……ひどいな、ジータってば」
「ハジータムナクだ。お前のせいで皆に名前を省略される。いい加減に覚えろ」
この遣り取りも何度目だろうか。
「まあまあ。師匠、それよりもお茶を淹れましたよ。どうぞ」
「あ、いいな。じゃあ、茶菓子も出そう」
お茶を見て、ヴィオラッサが戸棚から干菓子を取り出す。
「それにしても本当にぼうっとしてるな。調子が悪いならもう帰ってもいいぞ。今日はほとんど業務終わっているからな」
「そうだな。そうしたいところなんだけどさ……」
四人の視線が突き刺さる。ディーアは息苦しさを感じた。
死は怖い。けれど四人に、皆にちゃんと言えない自分はもっと怖い。逃げたくないと思った。ディーアはへらっと頬を緩める。泣いてしまいそうな顔を何とか留める。
「もう俺は長くない。そう医者に言われた」
死は怖い。けれど四人が、皆が自分を受け止めてくれる。ならばとディーアは口にすることが出来る。
だから死ぬ最期の時まで、ディーアは幸せだと言える自信を持っていた。
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